考えること、揺れ動くこと
「好き」とは何か、
「恋する」とはどういうことか、
それは「好き」とどのような関係にあるのか。
人が人と関係を築くこと、特にそれが特別なものである場合、人はそこからどのようなものを得るのか。
考えたことを書いてみようと思う。
最近、「アセクシュアル」という言葉を知った。
「無性愛」とか「非性愛」と言われることもあるらしい。
まだ違いを説明できるほど理解できてはいないのだけど、いずれのカテゴリーにも共通するのは、他者に性的欲求を抱かないということ。
そして、そこから恋愛感情を持つか、持たないかによって(ある特定の条件でのみ持ち得るということは除いて)「ロマンティック/アロマンティック」の区別があるのだとか。
いや、でも、改めて見直してみると、この定義も少し違うのかもしれない。
こんな風に細かいことも、世界的なこともわからないけれど、少なくとも日本語で得られる情報(ネット経由)を見るかぎり、これらのカテゴリーについて語られるのは恋愛感情の有無という点が多いように思う。
こうした点について書いてみようと思ったのは、これらの言葉と出会い、検索し、そこで出会った言葉がすっと入ってくるものだったからだ。
自分自身がそのカテゴリーに含まれるものなのかどうかは正直よくわからないし、その点にこだわる必要も感じていない。
だけど、その「わからなさ」の中に、とてもたくさんのことがつまっているのではないかと感じた。
そのカテゴリーの内にいるにしろ、外にいるにしろ、避けては通れないものだけど、普段は見過ごしていても別段困らないような何かが。
そういったカテゴライズの話(性的指向・自認にかぎらず、職業やライフスタイル、興味関心の対象など)の多くは、普段、単なる情報として流れていくことが多い。
そういったものが冷たい水を飲むことだとしたら、今考えたいと思っている事柄について発信されたものの多くは、白湯を飲むような感覚に近い。
自分の体温と差がないものとして、違和感を感じることなく、すっと入っていく。
要は、そこに書かれていたことの多くは、私にとっての「あたりまえ」だった。
私はそれが珍しいとも苦しいとも思ったことはなかったどころか、それが多数派なのではないかとすら感じていた。
そもそもがちょっと、色々なものから離れていたのかもしれない。
こうして書くことが続くかどうかはわからないし、これが誰かに届いてほしいとも思っていない。
自分の考えを整理するツールとして、ブログっていいかもしれないと思っただけで。
でも、いつかネット上に漂うたくさんの情報の中から浮上し、私が白湯だと思ったような感覚を覚える人に出会えたら、それはとてもすてきだなとは少しだけ思う。