ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

恋愛観・性愛観②

前回のつづき。

kirins.hateblo.jp

恋愛はしてみたいか?

恋愛(性愛?)的なスキンシップがどこまで大丈夫か、ということが主だった前回。
ほとんどの場合(おそらく)、恋愛にはそういったスキンシップが含まれている。
件の元交際相手からも「付き合うのなら、普通そういうことを考えるものでしょう」と言われたことがずっと引っかかっていた。

じゃあ、恋愛感情は性愛とグラデーションのようにつながっているのかというと、それは少し違うんじゃないかなと思う。
ある人の性的志向がAセクではなく、ロマンティック(恋愛感情を持つ)で異性愛だったりや同性愛だったり、バイセクシュアルだったりしたとしても、恋愛感情がすぐさま性愛と結びつくとは限らないだろうし(性愛→恋愛というのもあるのかな?)、その度合いも人によってさまざまだと思う。
そもそも、「アロマンティック(恋愛感情を持たない)/ロマンティック」という前置きがつくカテゴライズの仕方が存在しているのも、恋愛感情と性愛を別個のものとして(あるいは別個に存在可能なものとして)扱うことができると考えられているからだろう。

そうなると、今度は性愛のない恋愛とはどういうことかが気になってくるけれど、それはプラトニックラブという言葉があるように(一般的な意味とプラトンが言っていることは同じだったのかは、そのうちちゃんと読んでみたい)、私はそういう恋愛感情は必ず存在するはずだと思っている、というか信じている。
そうすると今度は、性愛抜きの恋愛と友情はどう違うのか、ということが気になるわけだけど、それは質的に違うものなんじゃないか、ということしか今はわからない。

ある感情が恋愛感情かどうかということについては、性的志向がどうであれ、一程度悩んだり考えたりするもののように思える。だから、どこからが友情で、どこからが恋愛感情なのか、はっきりと境界がわかる場合もあれば、明確な境界がない場合も十分あり得ると思う。
ただ、友情に性愛がくっつくことはないわけで(いや、あるのかな。あるかも。)、性愛と相性がいいのは恋愛感情ということになる。だから、その二つをごっちゃにしやすい。

恋愛と性愛は別物であり得て、友情と恋愛感情も質的な違いがあるとすれば、積極的にではないにしろ、わたしは恋愛をしてみたいかもしれない。恋人がほしい!と強く思うものではなくて、それがどのようなものかという興味と、友情とはまた違う心地よい関係だといいなという希望を込めて。

友愛は持っているはずだし、それが特別強い相手というのもいる/いた。
だとすると、そのうちのどれかは実はある種の「恋愛感情」なのかもしれないし、そういうものに発展する可能性だってなくはない。そういう意味では、今のところアセクシュアルかなと思っているけれど、限りなくノンセクシュアル寄りかもしれない。
友愛とは明らかに違う感情が生じて、それが恋愛感情で、恋愛感情が高まりに高まって性愛が生じる(恋愛感情が性愛に変化するのではなくて、別のもの)というのもありそうだけど、スキンシップとかの今の状態からは飛躍しすぎていて、それは想像が及ばない。

結婚は?

結婚はどうだろう。
つい最近までは、結婚したいとは思っていなかった。
最初は、結婚は大変そうだな、面倒だな、という最近よく聞く理由が大きかったけれど、次第に理由もなく、そう悪いものではないかもしれないと思うようになった。したいわけでもないし、何が何でもしたくないわけでもない。

だからといって結婚する未来が思い描けるはずもなくて、親とそんな話になった時に、つい「結婚とか絶対にないと思う」と言ってしまったこともある。(当時、Aセク云々は知らなかった。特に毛嫌いする理由はなくて、思い描けなかっただけ。)
知人に「何であれ、「絶対」と決めてしまうのはよくないと思うよ」とたしなめられた。
それはそうだな、と思う。だけど、結婚を思い描くための材料が何もなくて、結婚しないとも断言できない代わりに、結婚する未来というのもあるかもしれないという可能性すら口にできそうにない。

アセク・ノンセクを知ってから、今まで突き詰めて考えてこなかったことを考えるようになって、恋愛も結婚も、自分が果たしてどう思っているのか、どうしたいのか、一から自分に確かめなおしている最中だ。
友情結婚」という結婚の仕方があることも、ここ数か月で知った。そういったことについて、思っていたよりもたくさんの人が言葉にしていて、そういう生き方、考え方もあるのだなととても勉強になる。
自分の感覚と全く違うなという人もいれば、すごく近くてうれしくて、メッセージを送ってみたくなることも多々ある。(まだできていない)

ただ、今まで恋愛とか結婚とかの枠組みや道筋の上で物事を考えてこなかったので、突然「こういう選択肢もあるよ、可能だよ」と言われても、正直とまどってしまう。
カードゲームのUNOに何にでもなれるカードがあったような気がするけれど、そんなスペシャルなカードが舞い込んできたとして、それが本当に必要だったのか、うまく使えているのかはわからない。
わたしが選ぼうとしてきたものや選んだもの、選びたいものは、実はアセク・ノンセクを知る以前から、わたしが「普通」と思ってきたものの中にすでにあって、それ以外のスペシャルなことが降って湧いたように現れたとしても、わたしが望むものや幸せと思うものはそう簡単には変わらないのかもしれない。