ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

アセクシャル、ノンセクシャルを知れてよかったこと

アセクシャル(Aロマンティック+Aセクシュアル)、ノンセクシャル(ロマンティック+Aセクシュアル)という言葉に出会えてよかったな、と思うことがたくさんあります。(以下、A/ロマンティック、Aセクシュアルで表記します)

誰かを無理に好きにならなくていいとわかったし、好きだからといって相手とべたべたしたくなくてもおかしくないことも知りました。
間接的なところでは、ずっと使うことがないだろうと思っていたtwitterを使うことになったし、こうしてブログを書く楽しさも思い出せました。

だけどおもしろいことに、一番よかったと思うのは、Aセクシュアルかどうかとか、これから恋愛をするのかしないのかとか、そういったことではなくて、「知らなかったということを知れたこと」。
今まで「当たり前」とすら思わないくらい当たり前だったことがどこかに全部飛んでいってしまった感じ。

Aロマンティック、Aセクシュアルのことに限らず、世の中には私の「知らなかっただけ」のことがたくさんあって、きっとこの先ぶつかることや悩むかもしれないことにも、その後ろには「知らなかっただけ」の世界があるのかもしれないと思うと、色々なことがどんどん広がっていって、とてつもなく自由になれる気がしました。

そんな気持ちを、少し書き残しておこうと思います。

 

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本当は、たくさんのグラデーションの世界がつながっている

Aロマンティック、Aセクシュアルという言葉を知って、どこか違う世界と思っていたものが、一気につながった気がしました。

たとえば、恋愛というものは知っているけど、自分のこととしては、ずっと遠いもので。
LGBTセクシュアルマイノリティという言葉も知ってはいたけど、「誰かを好きになるなら同じじゃないか」と思うと同時に、無意識のところで「(恋愛同様)自分とは無関係のもの」と思っていた気がします。
恋愛もセクマイも、どちらも同じくらい「そういうものもあるのだな」という感じでした。

でも、Aロマンティック、Aセクシュアルという言葉を知ったことで、それらをつなぐもの、自分の立っている場所というのが初めて見えるようになりました。
すべてが「自分とは無関係のもの」だったはずなのに、恋愛感情を持たない、性的欲求を「持たない」ということが、全体として見ればスイッチのON/OFFのようなもので、条件としてはそれらを「持つ」人たちと何ら変わらないんじゃないか。

恋愛指向も性的指向も 「A(対象がない)」人たちは、どちらか一方が「A」である人たちとつながり、そこから更にさまざまな性愛者とつながっていく――白か黒かではなくて、すべてはグラデーションのようにつながっていて、自分もそんなグラデーションのつながりの一部なのだなという気がしたんです。

自分とは違う感じ方、考え方だけど、どの立場も「自分とは無関係」とは言い切れないのかも、と。

AもBもある「自然な世界」

一言で言い表すなら、窮屈だった世界の前に、突然「自然な世界」が開けたような感じ。

「自然な世界」というのは、異性愛も同性愛も、誰かへの愛という同じものとして存在していて、影があれば光があるみたいに、恋愛があれば、恋愛なしの世界も存在しているというもの。

たとえば、AとくればBとなるはずの世界で、これまでAしかなくておかしいなーと思っていたところに、「ちゃんとBもあるよ」と教えてもらえたような感じでしょうか。
今まで知らなかったけど、ちゃんとあったんだよと言われてみると、これまで見えないと思い込んでいたものが見えてくる、見えてくる…
やっと気づくことができた光景は、がちがちに固まっていなくて、色々な可能性がつまっているすごくすてきなもので。
できれば、そんな世界が、当たり前のように存在していてほしいです。

でも、だからこそカテゴリーに縛られないでいたいし、存在を知ることができればカテゴリーにこだわらなくてもいいなとわたしは思います。
同じカテゴリーと言っても、人それぞれ。カテゴリーの中のxxさんというよりは、xxさんの中にyyというカテゴリーがあるという感じがしっくりきます。みんな中身は良い意味でばらばらなので。
そのばらばらさが、そのまま大きな一括りになればいいのになと思います。

 Aセク/Aロマのすてきなところ

以上、恋愛指向も性的指向も「A」であるという存在を知ることができてよかったことを書いてきましたが、最後にAセク/Aロマのすてきなところを。

世の中、恋愛であふれていて、恋愛至上主義という言葉もあります。(関心が薄いのか、わたしとしては、本当にそこまでかなぁとは思うんですが)
そんな中で、そうではないものが存在するということを、身をもって知っているというのは、実はすごくすごいことなんじゃない?と思うんです。

もし、自分が××ロマンティック・××セクシャルであると仮定して、「そうじゃない人たちもいるんだよ」と言われても、実感はわきにくいと思います。
AセクやAロマは、恋愛感情なり、他者への欲求なり、どちらか、あるいは両方を持たないわけですが、それでもそれらを持つ実例というのは周りにあふれていて、それらが確かに存在することは実感できている気がします。

おそらく、何かが「ない」ことを想像することの方が、「ある」ことを想像するよりずっと難しいです。
だから、AロマやAセクの人たちというのは、セクシュアリティの問題に限らず、「ない」ということについて考えること、信じることが少しだけ得意かもしれません。
それは、とてもすごいことだと思います。

そして、これはなんの根拠もないのですが、わたしの知る限り、AロマやAセクを自認されている人はみんなそれぞれ好きなものがあって、それを大切にされているイメージ。
受け身ではなくて、楽しいことや好きなことを意識的に増やしたり、作ったりしていく。それには色々な理由があるのだろうけど、それってたぶん、簡単にできることじゃないです。


もちろん、Aロマ/Aセクでなくても、結婚や恋愛をしたい人、そうでもない人さまざまです。
でも、もし本当に多くの人が(少なくとも)恋愛は誰だってするものだ、そこには性愛があるはずだ、と思っているのだとしたら、「そうとは限らないよ。それがなくても楽しいよ」ということを体現できるんじゃないか、と思います。
現に多くのAロマ/Aセクの人たちがそうであるように、「それでもこうして楽しくやっているよ」、「なかなかいいよ、こういう生き方も!」というのを実践できる立場にいるかもしれないと思うと、少しわくわくします。

もしかしたら、恋愛感情を持たないからこそ、「普通」と言われる人たちとセクマイの人たちを「恋愛する人たち」と同じくくりで見ることができるのかも。
性的欲求を持たないことで、恋愛と友情の垣根を低くし、色々な愛し方があることを伝えていけるし、そうすることで世の中色々平和になったりして。
少し非現実的かもしれないけれど、AロマンティックやAセクシュアルじゃない人たちと、うまーくつながれるところにいるような気がします。その接点になれたら素敵だなと思います。

 

 

もちろん、いろいろと悩むこと、難しいこともあるだろうけれど、それでもそれと同じくらい「そう悪くはないな」ということもたくさんあるような気がします。
これからも、そんなことをたくさん見つけていけたらと思います。

 

【2018.9.20、2020.3.5 リライト】