ゾウになる夢を見る

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論文まとめ 1:恋愛感情と性的欲求の関係とは?(後編)

前回の続きです。 

kirins.hateblo.jp

 リサ・M・ダイヤモンド(Lisa M. Diamond)
性的指向は何を指向するのか?ロマンティック・ラブと性的欲求を区別する生物行動モデル(What Does Sexual Orientation Orient? A Biobehavioral Model Distinguishing Romantic Love and Sexual Desire)』, Psychological Review, 110(1), pp. 173-192, 2003.【こちらのページから、PDFダウンロード可

 
続きに入る前に、論文をこういう風にまとめるのは著作権的にどうなのか?というのを調べてみました。
もちろん商用ではなく、個人利用の範囲だと思っているのですが、現状、記事の大部分が論文の内容となってしまっています。本当は、主(ブログ内容)>従(論文)となるべきなのですが。

  • どれが論文の内容か分けている
  • 分野問わず論文レビューのような記事は多く存在していて、大きな問題になっていない
  • 筆者自身が論文をインターネット上で公開しており、学会誌の利益は損なわれない
  • むしろ、英語→日本語となることのメリットは大きい

など、現状のまとめ方で続けていくこともできそうだと思いました。
アカデミックなものにも当然著作権はあるので一概には言えないのですが、個人的にはせっかくインターネットで気軽にアクセスできるのだから、論文(ジャンル不問)が情報コンテンツの一つとしてどんどん利用されたらいいのにと思っています。

そこで、今回は自分の関心事に沿いながら、仮説の論拠を示していくことにしました。それでも論文内容の分量は多いです。
また、上述の関係で予定を変更し、この論文のまとめは本記事で終わり(全2回)となります。

 それでは、はじめましょう。

※詳しく知りたい場合、最近のgoogle translateの精度はだいぶあがってきているので、論文を流し込むと大意は取れるのではないかと思います。飛ばした箇所にもいろいろおもしろいことが書いてあります。

 

友情と恋愛の違いって?

 友達に向ける好意的な感情と恋人/片思いの相手に向ける好意的な感情は、どこが違うのでしょう。
 わたしはそれについて漠然と考えた結果、ずっと一緒にいたいとか、相手にも好きになってほしいとか、手をつなぎたい、キスをしたい、べたべたしたいという気持ちがあるかないかではないか、と思ってきました。でも、このうちの一部は友達・恋人両方に当てはまるものもあるので、結局性的欲求の有無になってしまうんでしょうか。
 でもなんとなく、直感的にそれは違うとも思うんですよね。

 恋愛にも色々なものがあります。すごく情熱的なものと穏やかなものとがあるとして、これを情熱的な段階と、そこから至る可能性のある穏やかな段階がある、という風に見ることができるそうです(ダイヤモンド氏が言及)。付き合い始めなどは前者で、付き合って長くなると後者が多くなるというのは、周りを見ていて納得できます。
 そして、性的欲求は後者よりも前者に多く見られるので、多くの研究者は欲求なしの熱烈な愛(恋愛)というものはないと考えてきたのだそうです。

 確かに、このように考えると性的欲求が伴う恋愛(ロマンティック・セクシャル)と性的欲求が伴わない恋愛(ロマンティック・アセクシャル、つまりノンセク)が存在することを説明できるかもしれません。でも仮にそうだとすると、性的欲求の有無=恋愛タイプの違いとなり、性的欲求ありとなしでは質的に異なる恋愛となってしまいかねません。また、欲求が伴わない恋愛は欲求を伴う恋愛からしか派生し得ないので、結局のところ、どれも欲求を経ていることが前提条件となってしまいます。

※この論文内でノンセクについて検討されているわけではありません。

仮説1の論拠

ここでダイヤモンド氏があげる仮説1の根拠を確認しておくと、

  1. ある調査で、強い恋愛感情は、性的な成熟の有無にかかわらず経験されている(性ホルモンによって欲求が高まっているはずの18歳と、その影響を受けていない思春期以前の4歳の子どもの調査結果がある)。ただし、二つの感情が本質的に同じとは言い切れない。
  2. ヘテロセクシャルであっても、同性間の心酔(強い好意的感情)を経験し得る。特に女性間で「ロマンティック・フレンドシップ」と呼ばれるような関係があって、そういった感情は穏やかな友情というよりも、ヘテロセクシャルの恋人同士の感情に似ている。現代の西洋文化プラトニックな同性間の心酔のカテゴリーがないだけ。
  3. 同性間の友情と同性間の心酔は、種類の違いというより程度の違い。恋に落ちる引き金と友情関係の引き金は、まったく同じ(相互的つながり、近接、わがものにしたいと思うような特徴、類似性)である(Aron, Dutton, Aron, and Iverson,1989)。現代の西洋社会では、密着することを求めることや肉体的な愛情をセクシャル・ロマンティック・パートナーの間にだけ起こるものだという考えが浸透していて、友情と恋愛それぞれにふさわしい振る舞いをしているだけで、両者に大きな違いはないのかもしれない。

ということがあげられています。
(1)は、性的欲求が恋愛感情の引き金になっていないこと、(2)は性的欲求が生じ得ない間柄においても恋愛感情に類似した感情が見られること、(3)は恋愛と友情がそもそもとても似た感情であることを意味します。

恋愛と友情の区別は必要ないのかもしれない

 これらの根拠を見て、フラットなつもりだった自分の見方が、実は全然そうでもなかったと気づきました。自分が、性的指向の対象を持つ人たちとアセクシャルの違いを、如何に他者に対する性的欲求の有無で区別しようとしていたか、また恋愛感情を持つノンセクシャル(ロマンティック・アセクシャル)とアセクシャル(アロマンティック・アセクシャル)の違いを恋愛感情の有無で区別していたか――本当はそれほど単純なことではないかもしれないのに、です。性的欲求なしに恋愛感情を持ち得て、恋愛と友情の区別がそれほど明確でないとすれば、「有無」という二元論で区別することは、無意味な線引きをしているにすぎないのかもしれません。

 わたしはたぶん、恋愛感情を持ったことがないのですが、性別を問わずすごく親しくしたり、親しく思ってきたりした人たちのことを、果たして「友情」で説明できるのかとも思ってきました。(説明、分類しなきゃというのではなくて、単純に何なのだろうという気持ち)
 友達にも色々な友達がいて、その中でも結局連絡を取り合い続ける/続けたい人たちのことはどこか特別に思っています。特別な想いが相手の恋人への思いとは比べるべくもないことを知ると、「失恋」のように感じることもあります。
 でも、わたしはその人たちと片時も離れずいたいわけでもないし、ずっと会えなくても構わないです。仮に友達同士で友情として付き合うような世界があったとして、別に付き合いたいわけでもないです。もちろん、いわゆる恋人がほしいわけでもないです。大切に想う親しい人たちとできるだけ永く関係を続けられたらと思うし、新しい親しい友人ができるとしたら、それはまた楽しいだろうなと思っています。

 結局のところ、「大切である」ということに変わりはなくて、その人のことが「大切である」のは、それが友情だからでも、恋愛だからでもなく、「その人だから」ということでしかないのです。どの人のこともとても大切なのだけれど、それぞれ違う関係性を育んできているわけで、優劣をつけることも、関係性を名付けることも、わたしには難しいし、今のところ必要ないのかなと思います。なので、この論文で示される仮説1それ自体よりも、それを裏付けようとして提示された論拠(3)がとても興味深かったですし、そうであってほしいなと思います。

恋愛の対象はどう決まる?

  仮説1に基づき、性的欲求なしの恋愛があり得て、ついでに恋愛に似た友情もあるのだとしましょう。そうすると、恋愛の対象はジェンダーで決まらないということになるはずです。

仮説2の論拠

ダイヤモンド氏の提示した仮説2は、「恋愛対象はジェンダーによって決まるわけではない」というものでした。その根拠として示されるのは、

  1. 恋愛関係は、乳幼児の愛着システムから派生したもので、両者は行動的にも同じ特徴(身体的接触を求める、離れたがらない、相手の行動や容姿を好ましく思う等)を持つ。二つの一致は、乳幼児が育った後や恋人関係が安定した段階でも見られ、どちらも短期間離れていることは問題にならなくなるが、長期間となると苦痛になることもある。
  2. 恋人同士のつながりも、乳幼児と保護者のつながりも、同じ神経ペプチドホルモン「オキシトシン*1と「バソプレシン」が関係している。オキシトシンは特に特定の関係(ex.親子)で発現するが、これは恋愛のパートナー間でも見られる。哺乳類動物の実験で、対象と向き合った時のオキシトシンの有無が、対象への好意感情を左右するという結果も出ている。また、その分泌には、身体的な接触(性的なものでなくてもよい)が重要な役割を果たしている*2
  3. 哺乳類動物の事例から見ると、メス間の結び付きが子を産み育てるのに有利に働いていることがある。この関係性は親子やつがいの関係に類似しているが、異性の登場によって、生殖的でない関係が壊されてしまうことがある(人間も)。

好きな人とは共通点もあるけれど、間違いなく自分が持っていないものを持っている

 ダイヤモンド氏は、恋愛対象が性的指向に左右されない論拠を、恋愛的なつながりのもととなったと考えられている乳幼児の愛着とその際に分泌されるホルモンによって示しています。
 その説明は理解できますが、恋愛の対象がジェンダーによって決定されたかどうかを論理的に説明するのは難しいという印象を受けました。恋愛と友情、ジェンダーそのものがそれぞれ曖昧なもので、どう定義するかによって考察の結果も変わってきてしまうと思うからです。

 そもそも、人を好きになることを論理的に説明することが難しいです。
 オキシトシンや社会的/生物学的行動・システムで説明できるとしても、それは多くの場合結果論ではないかと思います。そういった何かがあるから恋するのではなくて、恋した結果、物質なり何なりが関わってくるのではないかと。
  それでも、わたしは男女関係なく相手をすごく大切に思うことがあって、その中の男女比は交友関係からどうしても女性が多く、数少ない男性の友人への気持ちは恋愛感情なのか?と考えた時期があったので、この仮説2の論証結果が「対象の性別とは関係なく、恋愛と同じような身体的状態が、恋愛以外の面でも起こり得る」ことを説明してくれたことは、今のままでいいのだなと思うのに役立ちそうです。

 いずれにしても、「人」を好きになるということにおいて大事なのは、その「人」が誰で、どういう人なのかであって、性別はあまり問題ないはずです。あるとすれば、周囲から見た時に理解されるかどうか、というところでしょうか。そして、性別が絡んでくるとすれば、それは性愛が関わっている可能性も高いでしょうし、その場合、性差自体が「自分にはないもの」として魅力的に映ることもあるかもしれません。
 結局、ごく小さな共通点(出身地、年齢、職場、趣味、気質等)を接点に、大部分が共通点でないところ(自分にはないもの)が好ましかったり、刺激になったり、安心感を得ることになったりするような気がします。その中で性別(という区別があり得るとすれば)は共通点であることもあれば、違いの一つであることもある――好意的な関係の中ではその程度にすぎないのではと思います。

恋愛は欲求に至るか?

 ここまでの2つが恋愛感情と性的欲求を分けて考えるための論証であったとすれば、最後の仮説とその論拠はこれら2つがどのような関係にあるのか、という点に関係してきます。別個に出現し得ることが確かなら、恋愛→欲求もあれば、欲求→恋愛もあり、恋愛→×欲求や×欲求→恋愛、×恋愛→欲求や欲求→×恋愛もあり得て、突き詰めれば「→」ではなく、組み合わせの問題のような気がします。

論拠を見ておきましょう。

仮説3の論拠

  1.  数は少ないが、横断的指向性*3(=特定の関係における欲求)というものがあって、特定の関係においてのみ起こる同性への欲求から異性への恋/欲求に移行したという報告がある(約80人の非異性愛者の女性にインタビューし、その後の5年で2回、再インタビューしたダイヤモンド氏の別の研究)。
    従って、たとえ同性への欲求/恋愛があったとしても、恋愛・欲求の背後にある精神的プロセスと生物行動プロセスの双方向的つながりによって、人生の様々な段階、状況で、同性愛、異性愛、恋愛感情の指向先が変わり得るかもしれない。
  2. 女性の方が恋愛と欲求が合わさっていることが多く、強い好意的な感情が生じれば、異性愛者→同性愛、同性愛者→異性愛といったことが起こり得る。女性の性的反応は外的文脈(相手との関係性等)に左右される傾向にあるが、情緒的なつながりが神経生物学的物質(オキシトシン等)を活性化することによって、欲求という内的経験を形成しているかもしれない。
  3. 男女で性ホルモンの内訳が異なる。恋愛はオキシトシンの分泌によって性欲を刺激し、この効果はエストロゲンに依存するので女性が得やすいといった性差が生じる。

恋愛・欲求のいずれか、あるいは両方が欠けているとしたら?

 仮説3では、恋愛→欲求、欲求→恋愛の両方があり得るし、性的指向とは違う相手に恋することもあり得るということが、ホルモンの違いなどによって論証されていました。双方向的になる報告数は少ないらしいのですが、本当は潜在的にもっと数がありそうだなと思います。

 では、恋愛感情・性的欲求のいずれか、あるいは両方が欠けていたとしたらどうなるのでしょう。恋愛から行き着く先がないか、あるいはどちらにも行き着かないわけですよね。
 これと直接関係するわけではないですが、各仮説の論証の末尾にある将来の展望のような箇所に、オキシトシン(特に女性においてプラトニックな関係性を築くのに関与する)の反応レベルについて言及されていました。「オキシトシンの反応レベルが低い女性は、オキシトシンの反応パターンの結果としての社会的関係から得られる情緒的報酬を経験することが少ないのでは?」ということだそうです。

 だとすると、(ここからは完全に論文から離れた素人考えですが)
オキシトシンの反応性が低い=情緒的つながりを築き難い=恋愛感情を得難い=性的欲求を持ち難い(女性に多い傾向として)
という説明はできなくはないかな、と思います。
 男性の場合も、女性ホルモンのエストロゲンオキシトシンの分泌を高めるとされているので、オキシトシンの反応性が女性と比べて少ないということがあり得て…なども考えたのですが、女性よりも性的欲求→恋愛という可能性が高いとすれば(論文で、女性が恋愛→欲求の傾向が高いとあったので、その逆をとってみた)、さらにバソプレシンが女性にとってのオキシトシンと同じような役割を果たすとすれば、
性的欲求を持ち難い=性行為時に高まるとされるバソプレシンが少ない=恋愛感情を得難い
ということもあり得るかもしれません。(ここまで、勝手なこじつけです)
 このように、恋愛・欲求のどちらか一方を持たないことが、両方とも持たないことにつながる可能性もあるような気がするのです。

恋愛感情と性的欲求の関係は、予想以上に複雑である

 思っていた以上に複雑、というのが論文を読んでの感想です。当たり前ですが、一筋縄でいけるようなものではありませんでした。茫洋とした海に漕ぎ出してしまった感じで、漕ぎ出したものの「ちょっと引き戻した方がよさそうだな」というのが正直なところ。どこから手を付けたらいいのやら、といった感じです。(生物学寄りの視点だったというのも要因かもしれません)

 筆者も仮説の論証以外の部分で、このモデルの限界として、動物についての研究に頼らざるを得ないということや、哲学者がはるか昔から取り組んできた「恋愛」に生物学的に向き合うことの難しさ、そもそもの恋愛の多様性について言及しています。

 もちろん、どうにかして説明することは不可能ではないでしょう。
 ただ、やはり色々な背景や要因が複雑に絡み合っていて、個々人で違うとしか言いようがないと思います。わたし自身、アセクシャルという言葉に出会い、これまで知らなかった色々な性、性愛、恋愛の考え方を知ることで、初めて見えてきたものがあります。そんなわたしでも、この論文の指摘はさらに複雑で多様な有り様を示しているように見えるので、「恋愛について当たり前と思われていることって、実はそうでもないんだよ」と言ってみたところで、またどれだけ色々なカテゴリーが知られるようになったところで、その多様性がそのまま受け止められることは少ないだろうと思います。
 セクシャリティ以外のところでも、一人一人が違う性質を持っていて、一人の中でも複数の傾向があったり、変化したりすることがあります。そのこと自体が否定されることはないでしょうけど、でもそれに気づき、意識する機会はあまりに少ないです。同じであろうとせず、同じであることを強要せず、違うことを知り、違うことに驚き、喜び、それぞれ楽しくうまくやっていく。セクシャリティだけでなく、そもそもの多様性に気づくことのできるような環境が(特に幼少期に)あってほしいなと思います。

 

 関連する論文は、これからも読んでいきたいです。ただ、他ジャンルの読みたいものがたまっているので、また関心が一巡したころに整理できたらと思います。

*1:「脳のオキシトシンの受容体は辺縁系システムと、脳の中で特に感情、自律神経、生殖・社会行動と関係するエリアに見られる。」(p.180.)

*2:ちなみに、オキシトシン血中濃度が最も高まるのは、性行為中だそうです。 (Carmichael, Warburton, Dixen, & Davidson, 1994; Carter, 1992, 1998; Riley, 1988)(p.182.)

*3:特に女性に多く見られるようです。女性の場合、恋愛と欲求の間に精神的、文化的、神経生物学的つながりが強いのかもということも言及されていました。