ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

わたしが想像できることなんて知れているので

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稲佐山から夜景を見た。
標高は東京タワーと同じ333m、1000万ドルの夜景と言われている。真偽のほどはわからないが、1000万ドルというのは消費電力のことだとか。1000万ドルの価値があることなのだと思っていた。もし本当に消費電力のことだとしたら、色々な電灯がLEDに置き換えられたりなんかして、技術の変化とともに金額は年々下がっているのだろうか。少し気になる。

 

色々なものが、写真や動画で気軽に見られるようになった。みんながこぞって撮影し、インターネット上にアップロードする。そんな写真を見ると飽き飽きして、もう実際に見なくてもな、と思うことも多い。
稲佐山もその類で、何もこの暑い中、夜遅くに夜景を見なくてもと思っていた。帰国中の姉が長崎旅行を計画し、日中色々動いたあとだったので、正直なところ眠いし、疲れていた。長崎は坂の街なので、少し小高いところから見れば、夜の明かりはどこだってきれいだなというのもあった。夜景の様子も、街やホテル、あちこちで写真を見かけていて、おおよそどんな感じか想像できた。

だけど、想像は実物に全く及ばなかった。

 


タクシーでのぼっていく道中から、ちらちらと夜景が見え始める。建物の輪郭が暗い中に沈んでいって、灯りが浮かび上がってくる。のぼる前は気づかなかったけれど、ちょうど月が低く濃い色をして出ていて、現実をさらに一歩遠ざけた。
道中の景色でも十分だったけれど、頂上から見る景色は開けていて、写真で見たものや想像したものよりもずっとあたたかみがあった。夜景というのは、もっとぎらぎらした賑やかしいものかと思っていた。思えば夜景のためだけにどこかへ足を運んだことはなかったのだけど、なぜかもっとうるさいイメージだったのだ。

長崎の夜景にはけばけばしいネオンや、特別に高いビルの灯りというものがなかった。稲佐山から見た街のまた奥にも同じくらいか、少し高い山があって、街の光は山と山の窪みに静かに輝いている。対岸というべきか、反対側の山の頂上の方まで当然のように人の暮らしがあって、お椀のふちまで光がそそがれているような感じだ。
よく見ると光は2種類あって、オレンジ色のあたたかなものと、それらを埋めるような形で白い小さい涼しげな光が無数にある。白い方は、暗めの小さな星みたいな灯りだ。ご厚意でガイドをしてくださった運転手さんが、その小さな白い光が街灯の灯りであると教えてくれた。等間隔に、途切れずに、あちこちにある。山の上まで住居があるので、街灯がこんなにたくさんあるのだそうだ。街灯かなと思いつつ、街灯にしては小さいなと思ったけれど、そんな頼りなくも見える光が、暗い坂道をほどよく照らしているのだろう。白い光はあまり主張しないけれど圧倒的に多く、人々の生活のためにあるその光が、夜景を静かで、けれど決して無機質ではないものにしているのだろうと思った。

 

山の上から見下ろす長崎の街は、とても小さかった。街から見た稲佐山がそれほど大きくなく、そこから見る夜景が果たしてそんなによく見えるものだろうかと思ったが、稲佐山が小さく見えたのと同じ程度に、山から見る街はとても小さい。
その小さな街に、たくさんの歴史が積み重ねられている。運転手さんが灯りを目印に指さし、あそこに原爆が落ちたのだと教えてくれた。当日は視界が悪く、そもそもが福岡の北九州から長崎に投下地点が変更された。長崎もやはり視界が悪く、一瞬視界が晴れた際に投下されたのだという。そのため、投下地点が目標地点からわずかにずれた。わずかにずれたのだけど、こんな風に上から見下ろすとその2点の間に大きな差はなかった。熱線は街を囲む山に遮られ、広島ほどには広がらなかったというが、それでも信じられないくらいたくさんの方が命を落とした。
山から見える街は小さい。きっと、原爆を投下した飛行機から見た街はもっと小さく見えただろう。地図でみる街や、教科書や平和学習で知る街も、もっともっと小さい。けれど、今ある光の一つ一つや、街で見た風景や様々な時代の一点一点に、たくさんの人々の日々の営みがあることを想うと、街が抱えているもの、抱えてきたものというのは、計り知れないほど大きい。色々と想像してみるけれど、わたしが想像できることなんてたかが知れているのだ。街とか歴史とか、そんな大層なものだけでなくて、些細なことだって、自分の経験や問題でないものを想像したことはすべて、自分の安全地帯から遠くの出来事をのぞいたようなものでしかないのだろう。だから、誤解や無意識の差別、心無い批判や諍いが絶えない。

 

でも、そんな無力な想像力は役に立たないわけではない。色々なものの力を借りて、補えばいいのだ。
同じ長崎市内の出島は、1951年から整備計画に着手し、今も完全復元に向けて作業が進められているところらしい。その計画の長さと、徹底した復元の仕方に驚いた。出島に建てられていた建物なんかは、7つの史料を相互に補完しながら復元されたそうだ。できるだけ同じ建材、工法が用いられ、地震や台風、バリアフリーに対応できるような工夫を付けたしながら建物をよみがえらせている。
その復元の話を知った時、少しだけだけれどそこまで忠実にする必要があるのだろうか、という疑問が浮かんだ。もちろん、それだけの史料や時間、予算を投じてもなお、わからない部分はきっとあって、そのわからないことを補いながら一つの建物を現実に成立させるということそれ自体は、とてもすごいことだと思った。
現物を見れば、先の疑問は無用だとわかる。たとえば、内部の唐紙の壁紙。すごくすてきで惹きつけられたのは、ただのプリントではなく、一枚一枚が木版で刷られたものだったからだ。歩いた廊下や目にする柱も、きっと考え抜かれたものだから違和感なく色々な調度品と調和して見えたのだろう。ほんの小さな、取るに足りないことが全体を左右し得るし、その振れ幅はきっと馬鹿にできない。
おかげで、歴史の教科書で知る「鎖国時代の玄関口」という認識でしかなかった出島が、人々が暮らし、時に色々な苦難を耐え抜いた一つの場所として広がりを得たような気がする。
出島だけでなく、同じことがキリシタンの弾圧、その中で命がけで宣教に来た宣教師などの歴史にも感じられた。

知ろうとしなければ、近づこうとしなければ、想像力が作り上げることのできるものは知れている。でもきっと、色々なものの助けを借りれば、知らなかったものの姿を、想像力だけに頼っていた時よりは知ることができるはずだ。建物の復元なんて、外観からは見えない細かな部分や工法がたくさんあって、どれだけ多くのことをどんな風に補い、建物という形で成立させたのだろうかと思う。歴史的なものというのは、素人が知ることができる手段には限りがあるのだろうけど、そうでないもの、たとえば自分で足を運ぶことのできる場所、直接見聞きできること、知り合うことのできる人――今も存在するものであれば、こんなものだろうと決めつけたりせずに、実際に自分の目で見て知ろうとしなくては。

頭でばかり、情報ばかりで考えていては、そんな簡単なことさえ忘れてしまう。