ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

チューニングとエンドロール

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大勢で作り上げられるものに弱い。たぶん、趣味も日々取り組んでいる作業も一人で進めるものが多いからだと思う。もちろん、誰かの手を借りる必要があるものもたくさんあるのだけど、それは同時進行という感じじゃない。

チューニングとエンドロールが特にくる。チューニングはオーケストラの演奏が始まる前のあの、うわーんと色々な音がこもる感じのところで、エンドロールは映画館で見る映画のクレジット部分。もう、「みんな感」が満載で、太刀打ちできない何かがどん、と目の前にある気になる。

 

オケの演奏を自分から進んで聴きに行くことはほとんどないけれど、学生オケを経て市民オケをやっている友人が、定演やニューイヤーコンサートに招待してくれる。彼女に誘われて、地元のオケの演奏会に行くこともある。それくらいの経験値しかないのだけど、演奏会が始まる前のチューニングの音だけでうるっときてしまう。そこに何か、自分には手の届かないものがある気がするのだ。
そのステージに立つまでに、どれだけの練習をしてきたのだろう。うまくいっただろうか、練習は楽しかっただろうか、嫌にはならなかっただろうか。何歳ごろ、その楽器と出会い、どれくらい楽器や音楽を好きになったのだろう。技術を習得するための時間やお金は、きっとずいぶんかかっただろう。
チューニングの音を聞きながら、いつもそんなことを考えてしまう。自分が出会わなかったものと運よく出会った人たちが、その日のために集まって音を出しているのだ。逆立ちしたって自分からは出てこないようなものが目の前にきらきらとしていて、羨ましく思ったり、憧れたりする。

 映画のエンドロールだってそうだ。2時間程度の映画に、映画に出ていた役者さんの何十倍もの人の名前がスクリーン上を流れていく。一つ一つ読み取ろうにも追いつかないくらい。そんな係があるのか、と思うくらいたくさんの役割がある。
映画館で見る映画は、邦画>ドキュメンタリー≧洋画>アニメの順かなと思う。それなのに、アニメの映画のエンドロールが一番ぐっとくる。一番最近(といっても2年前くらい?)だと、『君の名は』。ジブリ以来のアニメ映画で、最近の若者の流行を知っておこうと軽い気持ちで見に行ったのだけど、エンドロールで圧倒された。実写の映画とは違って、アニメーションはストーリーの世界観から描写まで、全てが人の手でできている。実写だと監督やカメラマン、役者の偶然が重なって、計画通りにならないこと、ならないからこそ生じる思いがけない良いシーンがあるのだろうけど、アニメーションはきっとそうじゃないのでは、と素人ながらに思う。
この世界観を表そうと思って、なんとか作り上げようとして、こうして多くの人がいいなと思うものを差し出すことができるなんて、と監督だけでなく、その制作に携わったものすごい数の人の名前に圧倒される。

ただ、「みんな」であれば、なんだっていいわけじゃない。
運動会の行進とか組体操とか、いくらきれいにそろっていても、いいなとはちっとも思わない。むしろ、どうしてそこまで?と思ってしまう。みんなが同じことを同じように、一斉にするからだろうか。
近所の幼稚園の鼓笛隊はオーケストラと似たようなもののはずなのに、どうしてだか聞いていてもやもやしてしまう。いくつかのパート別になっているとしても、誰かの、複数の誰かの希望や意思でまとめられているからだろうか。当人たちが楽しんでいるとしても、オーケストラや映画の製作者のような、自分の貴重な時間や技術、能力、経験を割いて、なんとしてでも作り上げようというスタンスとは、根本から違うからだろうか。
そういった「みんな」が人の心を動かすことは皆無ではないのだけど、どうしても好きにはなれない。

 


自分も、たくさんの中の一人になってみたいと思ったこともあったけれど、人と何かを作り上げるということが選択肢として浮上することはまずなくて、一人で取り組む諸々で手いっぱいで、いまだ何も始められていない。 
でもきっと、何かを誰かと作り上げる輪の中に入ることがあったとしても、チューニングやエンドロールほど何かを感慨深く思うことはないんじゃないだろうか。外側から見るから、自分にはないから、どうしようもなく揺さぶられるだけで。
もし、たくさんの人と何かを作り上げて感涙しそうになるとすれば、それは作り上げた時点から少し離れて、作り上げたものを見返した時なのかなと思う。どうなのだろう。日々、誰かと何かに取り組んでいる人たちは、作り上げたり、達成したりしてきたもののことをどんな風に思うのだろう。