結婚・出産という時限爆弾を解除しさえすれば、案外うまくいくのかも――『デートクレンジング』
このタイトルは、結婚や恋愛に焦り「とりあえず誰でもいい」という方向に走ってしまう登場人物たちを救うかもしれないテーマであり、その渦の中に取り込まれてしまった主人公の友人がマネージャーとして率いていたアイドルグループのグループ名でもある。
わかりやすいと言えばわかりやすいストーリーなのだけど、それぞれの「もやもや」がもやもやとしたまま漂っている。考えていることと重なるところがあって、自分の考えと照らし合わせながら読んでいたのだと思う。主人公が友人の背中を押すように、自分も小さく「それでいいよ」と肩をたたかれたような読後感だった。
- 置かれている立場が変わった時の女性同士の友情について
- 時間や期限との向き合い方
- 結婚や仕事に対するポリシー
思い出してみればやり取りが頻繁になったのが結婚後だったので、少し条件は違うだろうけれど、それでも子どもが生まれると聞いた時には覚悟した。とてもうれしかったので、おめでとうということを手紙でつづりながら、でも少しだけさみしいと書いていたのだった。きっともう、今までのようにはやり取りができなくなるだろう、友人の意志と関係なく難しくなることもあるだろうし、何より日々の忙しさの中で、ほぼ手紙の中でだけ存在するわたしは、どんどん埋もれていくような気がしていたのだ。ところが、できるペースで続けたいと、2児の母になった今も、手紙を送ってくれる。子育て中の忙しい毎日の中で、手紙を書く時間を捻出することがどれだけ大変かと、届いた手紙はいつも大事に、ゆっくり読む。
恋愛とか、結婚とか、出産とか――そうした一つ一つが、当てはまる人と当てはまらない人を線引きしていくのかもしれないけど、本当は線のこちら側の人も、あちら側の人も、ひょっとしたら線の真上に立つ人も、たぶん自ら進んで線を引きたいわけじゃない。対立するのでも、きっとこう思っているに違いないと決めつけてしまうのでもなくて、関係の在り方を模索し、時に変えていきながら付き合うことができるのなら、案外うまくやっていけるのかも。お互いの知らないことを、お互いに知り合うことができる。知らないことに、「そういうものなのか」と思えたら、自分が相手の持っているものを持つことがなかったとしても、その世界を覗き見ることができるし、想像することも容易になる。違う者同士が違うことを前提に築く関係は、きっと何物にも代えがたい。もしそうなら、違うものが混ざり合う余地をできるだけ残しておきたい。
人間、目標を決めてしまえば、ある程度それに向かってがんばれるのだろう。がんばれるというか、意思とは無関係にがんばってしまう生き物なのかも。
だからきっと、自分の本心のようなものとがんばっていることとが乖離してしまい、ぼろぼろになってしまうことがある。気づかないうちに自分の時間(人生)を線引きして、「がんばること」をがんばるようになってしまって、本当はどうしたかったのか、なぜそうしたいと思ったのかを見失ってしまうのだ。
この小説を読んで気づいたもう一つのことは、どんなに願ったって、今の自分の延長線上にないものにはなれっこないのだということ。精確に言えば、なれるのかもしれないけれど、それはたいてい自分にとっての幸せではないのだと思う。島本理生『よだかの方想い』で、無理をして違う自分になろうとする自分に、先生だったか誰だったかが、人は変わることはできても、違う自分にはなれない、それは神の領分なのだと教え諭す場面があった。まさにそんな感じなのだと思う。
違うものになろうとしたり、今の自分にはないものを目指すことが悪いわけではない。ただ、目指すものが本当に自分が心から望んだものなのかどうか、手に入れようとするものに引っかかりや違和感はないのか、ということが、手に入れた後の結果をきっと左右する。もし動機が誰かや周囲の雰囲気が作ったものだとしたら、もう一度自分のこととして深く深く落とし込んで考えてみるべきなのかもしれない。
色々な問題に揺れ動きながら、主人公やその友人、知人たちが選び取る未来はそれなりに明るかった。そんなの所詮小説の話で、夢物語でしょう、と笑い飛ばされるかもしれない。でも、ここ何十年の変化とか、今でこそ珍しくない生き方を、かなり少数派の時代から積み重ねられてきたずっと上の世代の方々のことを思うと、あながち非現実的なものではないかも、と思う。
今この時代というのは、ずいぶん自由なのだろうという気がする。過渡期ではあるのだろうけど、どん底という感じはまるでない。色々な考え方も、じわりとだけど、広がってきている。その代わり、「これまでこうだったから」はますます通用しなくなるかもしれない。
今、小学生の子どもたちはどうだろう?今、生まれたばかりの子どもたちは?――数十年の開きが、すでにもうそこにはあって、わたしたちの思いつかない考え方や生き方が、あともう少しすれば言葉になって聞こえてくるだろう。きっと、今20代、30代世代の考え方なんて、すでにもう、すごく古いものになっている。
世代はどんどん移り変わる。選択し、変えていくのは、それぞれの時代の「わたし」たちなのだけど、その「わたし」がちゃんと自分の望むことをわかっていれば、選んだもの、選ばざるを得なかったものが本心とは違っていたとしても、あまり悲観しなくて大丈夫だという気もする。望んだけれど、望んだのが早すぎて実現されなかったことは、実現できたごく少数の人が、次の世代に託してくれる。望んだという事実自体も、きっと誰かの希望になる。
思うに、結局のところ大切なのは今を見失わないことなのだと思う。
何かに目標を定めて、それに向けて日々全力を尽くすことは、未来のために今を最大限に生かしているように見える。でも、そのせいで、未来のため以外の今を見落としてしまうのかもしれない。永遠にとどめておきたいような瞬間というのは、日常の中にきっとぽつぽつと転がっている。何かを見据えて、そのために逆算して動いていくことを決して否定することはできないのだけど、何かに集中していては得られないものも同じくらいの重さで存在する。映画のエンドロールが終わって顔を見合わせた瞬間、どうでもいい話をしながら歩いたアーケードの空気、少し大事な話をした時に手元にあったコーヒーカップ――特別な何かがそこになくても、取るに足らないはずの出来事が大切な瞬間として思い出される。
何かを選ばなくても、選ばないからこそ、見つけられるそんな瞬間はきっとある。それを積み重ねて、流れに任せた先にできあがるものを楽しみにするのも、それはそれでよさそうだ。
実際は透明な型がいたるところにあって、みんなそんなものないような涼しい顔をして、無意識のうちに誰かを押し込めたり、知らないうちに押し込められている気がするのだけど。あなたはこうでしょ?と。違う考え方、生き方がある、というだけの話で、それは誰かを責めていることにはならないし、責められる理由にもならない。ただあるだけ、なのにね。色々なものがぐちゃぐちゃに混ざり合って混とんとしているのに、なんとなく秩序が保たれているような未来を見てみたい。