ゾウになる夢を見る

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結婚・出産という時限爆弾を解除しさえすれば、案外うまくいくのかも――『デートクレンジング』

デートクレンジング
 
 「デートクレンジング」とは、独りでいるくらいならと手あたり次第デートを重ね、消耗してしまった自分を取り戻そう、デートとデートの間に時間をおいて、別の過ごし方をしながらデート地獄から脱しよう、という考え方らしい。
このタイトルは、結婚や恋愛に焦り「とりあえず誰でもいい」という方向に走ってしまう登場人物たちを救うかもしれないテーマであり、その渦の中に取り込まれてしまった主人公の友人がマネージャーとして率いていたアイドルグループのグループ名でもある。
 
主人公の佐知子は、結婚して夫の母親の喫茶店を手伝っている。子どもができにくい体質で、妊活中だ。大学からの友人である実花は、アイドル好きでかなりの美人。アイドルグループ「デートクレンジング」のマネージャーという設定。結婚し、「安住の地」にいるように見える佐知子と、全てを捧げてきた仕事に行き詰まり、婚活に走り出す実花は対照的で、これまでうまくいってきた関係がぎくしゃくし始める。
わかりやすいと言えばわかりやすいストーリーなのだけど、それぞれの「もやもや」がもやもやとしたまま漂っている。考えていることと重なるところがあって、自分の考えと照らし合わせながら読んでいたのだと思う。主人公が友人の背中を押すように、自分も小さく「それでいいよ」と肩をたたかれたような読後感だった。
 
小説の中で問いかけられていることをあげると、
  • 置かれている立場が変わった時の女性同士の友情について
  • 時間や期限との向き合い方
  • 結婚や仕事に対するポリシー
などがある。当然、小説のテーマである結婚や出産に関するものであるわけだけど、俯瞰してみれば、生きていくうえでの色々なことに関わるものだ。
思えば、柚木麻子さんの作品は、結構同じようなテーマを扱っている。友達同士のすれ違いと和解、仕事との向き合い方、食事の大切さのいずれか、あるいは全部。
 

 

結婚や出産、仕事の違いなどで友人との関係がうまくいかなくなるのではないか?という心配は、他人事ではない。揉める、ぎくしゃくすることはないと思う。結婚などをきっかけに、ぱったりと、何事もなかったかのように連絡が途絶えてしまわないかが心配なのだ。
それはそれで構わない、とは思っている。卒業などのたびに人間関係をリセットするのが常だったので、結婚・出産がきっかけのリセットがあってもおかしくない。だから、恐れているのは関係が終わってしまうことそのものではなくて、自分と友人との関係が、(特に相手にとって)新しい別の関係に至る通過点でしかなかったのだと気づいてしまうことの方だ。
でもそれは、杞憂なのかもしれない。小説の中でもそうなのだけど、立場が変わって友だちでなくなるのは、お互いが自分の気持ちを正直に伝えていないからだ。「結婚しているから、こう思うかもしれない」、「未婚だから、どう思うだろう」と、たぶんお互いがお互いを気遣いすぎて、うまくやり取りができなくなるだけなのだろう。そんなに簡単に、築き上げた関係をなかったことにしたり、どうでもよかったという烙印を押したりなんてできない。
 
少ない友人関係の中で、今も比較的連絡をとる育児中の友人がいる。不思議なもので、高校時代は委員会が同じというだけ。クラスも違うし、文理も違ったのに、大学を卒業してから文通を始めた。いや、思えば結婚の報告に返事を書いたら、文通に発展したのだっけ。とにかく、LINEのIDもつい数週間前に知ったくらい、時代錯誤なやり取りをしている、とても大切な友人だ。
思い出してみればやり取りが頻繁になったのが結婚後だったので、少し条件は違うだろうけれど、それでも子どもが生まれると聞いた時には覚悟した。とてもうれしかったので、おめでとうということを手紙でつづりながら、でも少しだけさみしいと書いていたのだった。きっともう、今までのようにはやり取りができなくなるだろう、友人の意志と関係なく難しくなることもあるだろうし、何より日々の忙しさの中で、ほぼ手紙の中でだけ存在するわたしは、どんどん埋もれていくような気がしていたのだ。ところが、できるペースで続けたいと、2児の母になった今も、手紙を送ってくれる。子育て中の忙しい毎日の中で、手紙を書く時間を捻出することがどれだけ大変かと、届いた手紙はいつも大事に、ゆっくり読む。
 
この本を読んで、あの時さみしいと伝えなかったら、遠慮して手紙を書かなくなっていたら、今はどうなっていたのだろう、と思った。それぞれ立場は変わっていくとしても、それでも関係を続けたいと思うのなら、まずはそのことをちゃんと伝える方がきっといい。
恋愛とか、結婚とか、出産とか――そうした一つ一つが、当てはまる人と当てはまらない人を線引きしていくのかもしれないけど、本当は線のこちら側の人も、あちら側の人も、ひょっとしたら線の真上に立つ人も、たぶん自ら進んで線を引きたいわけじゃない。対立するのでも、きっとこう思っているに違いないと決めつけてしまうのでもなくて、関係の在り方を模索し、時に変えていきながら付き合うことができるのなら、案外うまくやっていけるのかも。お互いの知らないことを、お互いに知り合うことができる。知らないことに、「そういうものなのか」と思えたら、自分が相手の持っているものを持つことがなかったとしても、その世界を覗き見ることができるし、想像することも容易になる。違う者同士が違うことを前提に築く関係は、きっと何物にも代えがたい。もしそうなら、違うものが混ざり合う余地をできるだけ残しておきたい。
 
 
線引きは、年齢を基準に焦ることや誰かの作った人生観に沿おうとすることにも起きる。自分の手で引く線なだけに、ちょっと厄介だ。
登場人物の実花は、自分の人生観を投影したとも言える仕事がうまくいかなくなり、婚活に焦り出す。結婚をした佐知子も、妊活にさして焦りを感じないことに、そろそろ焦らなくてはいけないのではないかと焦り、妊娠が判明しても、今度は保活、就活と焦りは増す一方だ。
この、「なんとなく焦らなくてはいけないのではないか」という焦り。到達すべき以前のとこにすら到達していない焦りとでも言えばいいだろうか。それで困っていることは何一つないのに、これでいいのだろうか、何かしなくてはいけないのではないかと漠然と思うのだ。
たとえば婚活を、どれだけの人が心底結婚したい、結婚がどうしても夢なのだと思ってしているのだろう。実態をまったく知らない憶測でしかないが、半数以上は「そろそろ」(年齢、タイミング)という動機から始まるのではないだろうか。その多くは、やはり結婚したい、結婚するぞ、と変わっていくのだとしても。
わたし自身ちょっと前に、焦りどころか、どうしたいのかすらわからない自分にもやっとした。

kirins.hateblo.jp

 人間、目標を決めてしまえば、ある程度それに向かってがんばれるのだろう。がんばれるというか、意思とは無関係にがんばってしまう生き物なのかも。
だからきっと、自分の本心のようなものとがんばっていることとが乖離してしまい、ぼろぼろになってしまうことがある。気づかないうちに自分の時間(人生)を線引きして、「がんばること」をがんばるようになってしまって、本当はどうしたかったのか、なぜそうしたいと思ったのかを見失ってしまうのだ。

この小説を読んで気づいたもう一つのことは、どんなに願ったって、今の自分の延長線上にないものにはなれっこないのだということ。精確に言えば、なれるのかもしれないけれど、それはたいてい自分にとっての幸せではないのだと思う。島本理生『よだかの方想い』で、無理をして違う自分になろうとする自分に、先生だったか誰だったかが、人は変わることはできても、違う自分にはなれない、それは神の領分なのだと教え諭す場面があった。まさにそんな感じなのだと思う。
違うものになろうとしたり、今の自分にはないものを目指すことが悪いわけではない。ただ、目指すものが本当に自分が心から望んだものなのかどうか、手に入れようとするものに引っかかりや違和感はないのか、ということが、手に入れた後の結果をきっと左右する。もし動機が誰かや周囲の雰囲気が作ったものだとしたら、もう一度自分のこととして深く深く落とし込んで考えてみるべきなのかもしれない。

 

色々な問題に揺れ動きながら、主人公やその友人、知人たちが選び取る未来はそれなりに明るかった。そんなの所詮小説の話で、夢物語でしょう、と笑い飛ばされるかもしれない。でも、ここ何十年の変化とか、今でこそ珍しくない生き方を、かなり少数派の時代から積み重ねられてきたずっと上の世代の方々のことを思うと、あながち非現実的なものではないかも、と思う。
今この時代というのは、ずいぶん自由なのだろうという気がする。過渡期ではあるのだろうけど、どん底という感じはまるでない。色々な考え方も、じわりとだけど、広がってきている。その代わり、「これまでこうだったから」はますます通用しなくなるかもしれない。
今、小学生の子どもたちはどうだろう?今、生まれたばかりの子どもたちは?――数十年の開きが、すでにもうそこにはあって、わたしたちの思いつかない考え方や生き方が、あともう少しすれば言葉になって聞こえてくるだろう。きっと、今20代、30代世代の考え方なんて、すでにもう、すごく古いものになっている。
世代はどんどん移り変わる。選択し、変えていくのは、それぞれの時代の「わたし」たちなのだけど、その「わたし」がちゃんと自分の望むことをわかっていれば、選んだもの、選ばざるを得なかったものが本心とは違っていたとしても、あまり悲観しなくて大丈夫だという気もする。望んだけれど、望んだのが早すぎて実現されなかったことは、実現できたごく少数の人が、次の世代に託してくれる。望んだという事実自体も、きっと誰かの希望になる。

 

思うに、結局のところ大切なのは今を見失わないことなのだと思う。
何かに目標を定めて、それに向けて日々全力を尽くすことは、未来のために今を最大限に生かしているように見える。でも、そのせいで、未来のため以外の今を見落としてしまうのかもしれない。永遠にとどめておきたいような瞬間というのは、日常の中にきっとぽつぽつと転がっている。何かを見据えて、そのために逆算して動いていくことを決して否定することはできないのだけど、何かに集中していては得られないものも同じくらいの重さで存在する。映画のエンドロールが終わって顔を見合わせた瞬間、どうでもいい話をしながら歩いたアーケードの空気、少し大事な話をした時に手元にあったコーヒーカップ――特別な何かがそこになくても、取るに足らないはずの出来事が大切な瞬間として思い出される。
何かを選ばなくても、選ばないからこそ、見つけられるそんな瞬間はきっとある。それを積み重ねて、流れに任せた先にできあがるものを楽しみにするのも、それはそれでよさそうだ。
実際は透明な型がいたるところにあって、みんなそんなものないような涼しい顔をして、無意識のうちに誰かを押し込めたり、知らないうちに押し込められている気がするのだけど。あなたはこうでしょ?と。違う考え方、生き方がある、というだけの話で、それは誰かを責めていることにはならないし、責められる理由にもならない。ただあるだけ、なのにね。色々なものがぐちゃぐちゃに混ざり合って混とんとしているのに、なんとなく秩序が保たれているような未来を見てみたい。

 

デートクレンジング

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