ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

恋愛も、人生も、誰かや何かの「プログラム」かもしれない

スマートフォンが普及し始めて、10年近く経つ。
誰もが自分のデバイスを持っていて、ちょっとした調べもの、スケジュール管理、コミュニケーション、ショッピングやエンターテインメントなどのために、時間があれば画面をのぞきこんでいる。
スマホに夢中になっている人を見ると、わたしにはどの人も「ここにはいない」感じがして、一体その画面の向こうに何が広がっているのか、その人はどのこにいるのか、少し気になる。電車の中から、ホームに並ぶ人たちを見る時が一番おもしろいかもしれない。

きっともう、ずっと前から、例えばテレビや電話が普及するよりもはるかに前から、「ここにはいない」状態や出来事はたくさんあったのだと思う。
源氏物語』が書かれ、その物語にたくさんの人が夢中になっていた時、月を見上げて別の世界のことを想像した時、夜空の星々をつないで、何かの形と結び付けていった時――むしろ今よりずっと、「ここにはいない」ことは身近なものだったかもしれない。

詳しくはわからないけれど、スマホの画面の向こうで起きていることは、すべてデータのやり取りだ。あるデータがどういうプログラムに従って動いているのか、それを変化させる要因は何で、その結果わたしたちが認識するものはどう変わるのか。
解体していけば、すべてが0か1で表されるものが、どう組み合わされるか、どう動くのかによって、わたしたちを一喜一憂させることができる。

今ある仕事の多くの担い手が人間からAIや機械に置き換えられる――といったようなことをよく聞くけれど、案外、人間がAI化していくというか、人間とAIの区別は薄れていったりしないだろうか、と思う。
だって、スマホですらこれだけ簡単に日々の生活に入り込み、「ここにはいない」を「ここにいる」ように感じさせている。みんなの経験する「現実」の在り方を覆してしまったのだ。

AIというものが普及していけば、特にそれとはわからない形で、日常的に使うものの中に紛れ込んでしまえば、その思考プロセスや決定の仕方にすぐに慣れてしまって、それがAIかどうかなんて気にならなくなるだろう。実際、今だって気づかないだけで、そういったものが、もうすでに身の回りにたくさんあるはずだ。

 

「ここにはない」が曖昧になった世界

プラネタリウムの外側』という小説は、そのことをなめらかな形で、でも知らず知らずのうちに奥へ奥へと潜り込ませ、気づいた時には、自分が今経験していることも一体どちらなのか(「ここにはない」のか、それともあるのか)、「プラネタリウムの内側なのか、それとも外側なのか」と疑わさせられる。

プラネタリウムの外側 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

連作短編集という形をとるこの小説は、北大のある研究室で開発された会話プログラムをめぐる不思議な話だ。
好きな作家、森博嗣の作品に似ていると聞いて手に取ったのだけど、全然違う。(そもそも森博嗣は二人もいらない)

話の軸になるのは、助教の研究者二人が開発した会話プログラムである。
二人はチャットによる出会い系サイトを副業としてこっそり運営していて、会話プログラムを「さくら」として利用している。
サイトを続けて利用してもらうためには、利用者に「また会いたい(会話したい)」と思わせる必要がある。そのために最適なのは、チャットの相手に恋愛感情を抱いてもらうことだ。
この理想的な恋愛対象として振る舞うために開発されたのが、件の会話プログラムである。
このプログラムは普通の会話プログラムと違い、「有機素子コンピュータ」内に構築されたシステム内で稼働している。「有機素子コンピュータは普通のコンピュータと違い、記憶の保存の仕方や消去の仕方が「人間的」なので、会話も不自然になりにくい。

このプログラムを使って、ある女子学生は好きだった男子学生との会話プログラムを作り、その男子学生の死因が事故だったのか、自殺だったのか、会話の再現によって探ろうとする。
このプログラムを使ってサイトを運営する助教は、突然死した研究と副業の相棒であった男性の会話プログラムを作り、雑談をしたり、ちょっとした相談事を投げかけたりする。

いずれの話し相手も、プログラムという作られた世界、つまり「プラネタリウムの内側」にいる。自分が「内側」にいるとは知らず、「外側」にいる作り手だけが、自分が外側にいて、彼らが「内側」にいるということを知っているのだ。

プラネタリウムの外側」というのは、わたしたちこそがプラネタリウム(天球儀)の外側にいて、それらを操作でき、作り物と知ったうえで俯瞰的に見ることができるという視点のことだと思って読み進めていた。
ところが、すべて読み終えてみると、どうやらそんなに単純なものではないらしい。

恋愛感情を生み出すプログラム

わたしたちは、自分が存在するこの世界を、見たり聞いたりして経験する世界を、現実だと思って過ごしている。でも本当にそうだろうか?

わたしたちが「記憶」と思っているものの多くは、すでにデータという形でスマホなどの外部機器に保存されている。もしそれらが、ちょっとずつ変化を加えられて、それとはわからないような形で整合性を持つものに変えられていたとしたら?
最初は違和感を持つかもしれないけれど、意外とあっという間に「そういうものだった」と思ってしまわないだろうか。
そんな「そういうものだった」が積み重なれば、違和感なく、別の人生を生きていけるかもしれない(ちょっと大げさだけど)。

もし、偶然というものが簡単に作れるものだとしたら?
あの人と出会ったのは、あの人を好きになったのは、ちょっとした偶然が重なったからだ、運命だったのだ――そう思っていたものが、紛れ込んでいた何かの広告や交わした言葉、興味を持ったもの、夢に見たこと――偶然に見えて誰かや何かが差し挟んできたもの、最初からそうプログラムされているものだったとしたら?

これは大げさな話ではなくて、恋愛そのものが「同じクラスだった」とか、「SNSで再会したから」とか、本当にちょっとした理由で起こり得ている。
恋愛は脳の錯覚で一時的なものだ、なんて言われるけれど、その背後にあるプログラムのようなものも案外単純で、簡単に操作できてしまうかもしれない。
社会的な価値観や「モテる」方法のようなものも、ある種のプログラムと言えるかも。

内側(作られたプログラム、偶然)と思っていたものが、実は外側(作り主、恋愛感情)を操作していたなんてことは、そう非現実的なことではないかもしれない。

 内側なのか、外側なのか

「AIに支配される」なんて言うけれど、本当の支配というのは境界がなくなり、どちらがどちらなのか、内側なのか外側なのかがわからなくなることなのだろうな、と思った。

実際、読んでいくうちに、どちらが内側だったのか、あるいは外側だったのか、簡単だったはずのことがわからなくなった。
内側だと思っていたものが外側になってきたのか、それとも外側と信じていたものが、そもそも内側だったのか――

読み返してみると、また違った風に見えてくる。
各節を隔てる「♮(ナチュラル)」と「♭(フラット)」の記号の意味を考えてみるのもおもしろい。「♮」だと思っていた場面が「♭」だったりして、これに法則性はあるのかどうか、確かめてみたい。

恋愛ってなんだろうと考えるのもいいし、世界ってなんだろうと考えるのにもいい。

 おまけ:フラットな世界

ちなみに、裏表紙には「恋愛と世界についての連作集」(同著者の『未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)』も紹介文で恋愛が強調されている)とあるが、「恋愛」は話を進める上での一要素にすぎない。
この小説の中で描かれる「恋愛」というものは、客観的に俯瞰してみたような「恋愛」で、すごく心地よかった。
一気に読むのがもったいなくて、読みかけのまま数か月寝かしていたのだけど、数か月ぶりに開いたページに「Aセクって、アセクシャルのこと?」なんてさらっと出てきたりして、本当にどきっとした。とてもフラットな世界だ。

ロマンティックの人も、アロマンティックの人も、楽しめる世界だと思う。

 

プラネタリウムの外側 (ハヤカワ文庫JA)

プラネタリウムの外側 (ハヤカワ文庫JA)