ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

「わかり合えない」をわかり合うためのコミュニケーション

世の中、わかり合えることの方が少ない。
使う言葉が同じでも、同じような生活をしていても、同じものが好きでも、お互いのことを想い合っていても、同じことが大嫌いだとしても、わかり合えることより、わかり合えないことの方がずっと多い。
だから、わかり合えた(ような気がした時)には、とても驚いたり、うれしくなったりするのだろう。

それなのに、「わかり合えない」ということが意識されることはとても少ない。
色々なことを「わかっている」前提で、話は進んでいく。
どうしたってわからないことはわからないのに。

わたしには誰かの悩みの苦しさをわかることはできないし、自分じゃない誰かの抱える病気のつらさや一人でいることの寂しさ、自分の属する何かが理由で自分を決めつけられることの悲しさもわからない。
想像することはできるし、同じような出来事であればわかったような気がすることもある。
でもきっと、本当のところは全然わかっていない。

社会問題、文化の違い、考え方、価値観、健康と病気、マジョリティとマイノリティ。
何かと何かが分け隔てられる中で、「わかり合えない」ことは山ほどある。

 

じゃあ、どうすればいいのか。特に、少数派から多数派へアプローチする場合。

結論としては、結局のところどうしたって「わかり合えない」と思ってしまうし、それでいいと思っている。
でもきっと、「わかり合えない」状態にも色々なものがあって、一番いいのはどんな形だろう、と少し考えてみた。

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 まず、当たり前じゃないものを知る(インプット)

コミュニケーションというのは、シンプルに言ってしまえば、何かを受け取って、それに対して反応を返すことだ。
インプットがなければ、何かを返すことはできない。つまり、コミュニケーションというのはインプットなし存在し得ないことになる。

「わかり合えない」ことをわかり合うことも、一つのコミュニケーションと言える。
相手の考えていること、想定している条件を知らなければ、わからない、理解できないということがそもそも起こり得ない。
だからまずは「わかり合う」の大前提として、自分が当たり前だと思っていたことが、「実はそうではなかった(万人にとって当たり前ではなかった)」と知ることが欠かせない。

 

例えば、わたしの家は計3つの幼稚園/保育園に囲まれている。
加えて、体育館などの公共施設が2つもある。駅もわりと近くて、車線のないような狭い路地なのに交通量が多い。
結果、まったく「街」ではないのに、とても騒がしい。

在宅作業がほとんどなので、朝から晩まで、子どもの声、先生の怒る声、給食を作る音、楽器の音、幼稚園/保育園、公共施設、駅への送迎の車が通る音がひっきりなしに聞こえる。日中も夜も、一日の大半、耳栓が手放せない。
それが普通だと思っていたけれど、日曜や祝日など、園が休みで、駅への送迎も少ない日には、こんなに静かなのか、といつもびっくりする。最近は、3つ中2つの園の運動会が終わったので、通常はこれくらいの騒がしさだったのか、と(それでも騒がしいのに)ほっとしている。日頃の騒がしさの方が「当たり前」じゃなかったとわかるのだ。

でも、その騒がしさが誰かにとっての「当たり前」だということもわかる。
自分が幼稚園や学校にいた時のこと、車に乗っている時のことを考えると、それは日常であり、自分の世界のすべてや、一瞬通り過ぎるだけのどこかだった。その周りにいる人のことなんて考えなかったし、それこそが「当たり前」だった。

だから、幼稚園や保育園の一つ一つ、たくさんの車の一台一台も「当たり前」の寄せ集めだというのがわかる。それを「どうにかして」と言うことは、なかなか難しい。

 

それで何が変わるわけでもないけれど、自分にとって相手の「当たり前」が「当たり前」ではないことを知っていること、そしてその逆もまたそうであることをわかっていることが、「わかり合えない」をわかり合うための第一歩だと思う。

当たり前に隠れているもう一つの当たり前を示す(アウトプット)

周囲にある「当たり前」が自分にとってそうではないとわかれば、声をあげることができる(もちろん、あげなくてもいい)。
それは、わかり合うための次の段階、相手に存在を知ってもらう「アウトプット」となる。

先の幼稚園/保育園のことに話を戻すと、「わかり合えない」と思えば耳栓で対処できるし、わかり合いたい(わかってほしい、我慢できない)と思えば、そのことを相手に知らせることができる。

3つの園の1つは最近園舎の建て替えをして、園庭と園舎の位置が真逆になった。我が家は前より音が近くなったな(もともと騒がしいので、1~2割増しくらい)くらいだが、中には家の真裏が園庭という家もできてしまった。ただの金網フェンス一枚の仕切りしかないので、さぞかし大変だろうと思う。

住民に反対されて、保育施設が建てられない、という話をニュースで見たことがある。
保育施設が必要なのも、反対したい気持ちもよくわかる。
住民は、ボランティア精神をもってその土地に住んでいるわけではない。必要なのはわかるし、しょうがないとわかっていても、やはり住民には住民の「日常」がある。
保育施設での生活が「日常」であるように、住民にとっての「日常」も「我慢してね」と犠牲にはできないものなのだ。実際、近所でもさまざまな勤務形態の方が暮らしていて、睡眠の時間が園の外遊びの時間である方も存在するわけだ。それが毎日なのだから、「我慢してね」はやはり無理だろう。

園に対して要望が出ているという話をちらと聞いた。要望というのは、「アウトプット」だ。きっと批判ではなくて、「わたしたちはこういう日常の中にいますよ、どうにかできませんか」という存在表明だと思う。

存在を認め合うだけでいい

 さて、ここからは自分とは違う「当たり前」を知った側のインプット、アウトプットの話。

結局、要望(インプット)に対して防音壁が建てられるということはないみたいだ。
でも、大事なのは解決策の程度ではないのかもしれないと思った。(もちろん、より静かになるに越したことはない)
代わりに、何時ごろ外遊びがあって、運動会の練習日程はどうなっているか、というお知らせがまわってきた。その状態(騒がしさ)がどれくらい続くのかがわかっているだけでも、ありがたいと思う。

お知らせの回覧はなんの解決策にもならないかもしれないが、それよりも大切なのは、住民側のアウトプットが園側にインプットされて、園からアウトプットが返されている(=住民側が状況を別の形でインプットできた)ということなのだ。
「どうしても変えられないところはあるけれど、それでもあなたの言っていることはちゃんと届いてますよ」と伝えることは、根本的な解決策の提示でなくてもできるのだ。
誰かの、自分とは違う立場にいる人の存在をまず認めること――これがあるかないかは、とても大きいと思う。

さらに運動会当日の音を聞いて、これまでの練習期間、どれだけ配慮がなされていたかに気づいた。
そういえば、園舎建て替え前の練習は、かけっこの練習にもBGMを使っていたけれど、今回は運動会当日にしかその音が聞こえてこなかった。
音量をかなり絞っていたか、まったく使っていなかったのか、どちらかなのだろう。
むしろ、建て替えと無関係の園の方が、園内放送やら、歌声やらが大音量だ。

 

相手のアウトプットを無視することだってできるし、逆に「こちらの言い分もわかってくれませんかね」と突き返すことだってできる。
でも、それではずっと「わかり合おうとしない」ままなのだ。
誰かのアウトプットは、できれば一度、その存在だけでいいので、気づきましたよ、知りましたよ、と小さなアウトプットで返す方がいい。結果、わかり合えなくてもそれは仕方ない。

アウトプットの発端であるところの人たちも、問題に対してどんな変化が得られたのか、もう一度それをきちんと受け取って(インプット)、確かに変化を受け取りましたよ、と伝えなくてはいけないのかもしれない。

例えば、セクマイとマジョリティに「わかり合えない」があるとして

例えとして保育施設の騒音問題を引っ張り出してきたけれど、このインプットとアウトプットの関係は多くの問題に通底するものだと思う。

例えば、セクシュアルマイノリティとマジョリティが「わかり合えない」ことについても。
どのような問題でも、自分と他者との違いに気づきやすいのは、マジョリティ側よりマイノリティ側だろう。
当然ながらマジョリティの「当たり前」は、唯一正しいような顔をしてそこらじゅうにある。その圧倒的大多数を前にするわけなので、マイノリティ側は自分の持つ「当たり前」が彼らのものと一致しないことに気づきやすい。
当然、その逆のマジョリティ側がマイノリティの「当たり前」に気づく確率は低くなる。

 マイノリティ側、例えばアセクシャルにとっての最初のインプットは、自分が「恋愛感情と他者に対する性的欲求を持たない」と気づくことである。
これをマジョリティに対してアウトプットする場合、そういう存在もあるということを伝えていくことになる。(あるいは、騒音に対する耳栓のように、アウトプットせず、違いをシャットアウトするという手もある)

何かの折に「自分はこうだ」と突然言われても、マジョリティ側からすると訳がわからないかもしれない。極端な場合、存在を知ってもらうどころか、「そんなはずはない、気のせいではないか」と言われるかもしれない。
いくら圧倒的多数だって、「当たり前」を脅かされるのは嫌なのだ。

 シンプルに、「騒音で困っています」と伝えるように伝えられたら、それが一番いい。でもそれは、伝えられる側が「確かにそういうこともあるかもしれない」と思える内容でなければ、問題を認識してもらうことすら難しい気がする。
では、どうすればいいのか。

今のところ特効薬のようなものは見つからないけれど、相手の「当たり前」を、壊さない程度に少しずつ揺り動かしてみる、というのはどうだろうか。
例えば、「どうして好きになったのか」、「どうして友愛と違って恋愛だと思ったのか」、「どうしてスキンシップが必要なのか、ただ話すだけではだめなのか」などなど、相手の「当たり前」に興味を持っていることを示しつつ(相手の「当たり前」の存在を認める)、そこに自分の「当たり前」を潜り込ませるのだ(自分の「当たり前」のアウトプット)。

「どうしてそう思うのか」と問うと、気心の知れた人であれば、たいてい答えを返してくれる気がする。なかなかおもしろい話を聞けることもあるし、こちらの話をおもしろいと思ってもらえることもある。
まだそれほど試せていないが、カテゴリーとしてではなく、一人の友人である「わたし」として、わたしはこう考えている人間だ、ということを伝え合うことは互いを否定し合わずに済むような気がする。

結局、わかり合うことはできないのだろうけど、「そんなのつまらないよ」と言われれば「そうかな、こんな楽しいこともあるよ。そちらはどう?」と返したりして、「まぁ、あなたがそう言うならそうなのかもね、わたしにはわからないけど」というところに帰着できるのが一番いいように思う。

 

 

自分と相手は違うものだと決めつけないこと、立場が違うけれどそれぞれに大切な「日常」や「当たり前」があり、それらは容易に変えることはできないこと――「わかり合えない」ことをわかり合うためには、このことだけはわかっていないといけない。

わかり合うことを「相手の考えを曲げて、自分の考えを通すこと」もしくは「相手の考えに自分の考えを合わせること」、あるいは二人の間の中立の立場を探ることだと考えるのだとしたら、それは何百年経ったって実現しないと思う。

そうではなくて、はじめから「わかり合えない」ことをよくわかっていること、その上で相手のことも自分のことも否定することなく、存在を認め合うことができれば「わかり合えない」なりのコミュニケーションが成立する気がする。
といっても、その大前提の「わかり合えない」ことがまだまだわかり合えていないので、そのあたりを根本的に解決しなければ、きっとこれもなかなか高度な解決策なのだろうけれど。