ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

さよならアセクシャル

どちらかと言うと、カテゴリ(主に人の属性というニュアンス)というものが好きではなかった。
「あなたはこういう人」と決めつけられるようで、カテゴリ云々というよりラベリングされる感じが。
ラベルも、色々な人からぺたぺた貼りまくられれば、全体として「わたしかな」という感じはしてくるけど。
だから、自分からカテゴリを名乗るということの意味が、よくわかっていなかった。
「わたしはこうですよ」と言うことの意味。

たぶん、自分を知るためというのが大きいのだと思う。
「これかも」と名乗れば(あるいは心に秘めれば)、それに関連した情報が集まってくる。他の人がどう思っているのか、どういう人がそこにいるのか。
あえて名乗るからには、何かしらの悩みや不都合を感じているかもしれない。あるいは単に興味関心がわきすぎた、とか。
そんな時にはカテゴリを通して、別の知らない人が「わたしはこうですよ」と言っているのに出会えて、「わたしも!」となるかもしれない。

そういったことを少しだけわかった気になっていたけれど、どうやらわたしは誰かに共感する能力が乏しいようで、完全に名乗りきる前にフェードアウトしてしまいそう(というカテゴリな気がする)。
そんなことについて書いてみた。

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一つのものの中の無数の性質

カテゴリとは何か。わかりきったことだけど、一応確認しておこう。

たとえば、シャープペンシルの芯。色々な種類がある。
シャープペンシルの軸の中に入れて、紙に何かを書くために使われる。
用途はだいたい同じだけど、機能は少しずつ違う。
低い筆圧で濃く書きたい場合、折れにくいものがいい場合、細い字・太い字が書きたい場合――用途によって選ばれる硬さや強度、太さが変わってくる。
シャープペンシルの芯」とひとまとめにされるものの中に、色々な性質の「芯」が存在する。

人間も一人の中に何種類もの「シャープペンシルの芯」があるようなもので、その時々によって使い分けることもできるし、頑なに一つを使い続けることもできる。

上の図のように、一人の人の中にはいくつもの性質が存在していると思う。
そして、一つの性質を取ってみても、大きさや形、数はさまざま。
そんな色・形・大きさがばらばらの「性質」が一人の人の中で複雑に重なり合っているのだろうと想像する。
それらをあるところで区切って、束ねるのが「カテゴリ」だ。

 「文脈」による意味付け

ただ、その束ね役である「カテゴリ」も暫定的なものでしかない。

カテゴリ自体の定義が変わるというのもあり得るけれど、それよりも無数の「性質」がその時々で表面化したり、逆に隠れてしまったりするからだ。
また、同じ「性質」でも置かれる状況によって意味が変わってくる。

たとえば「おとなしい」という性質。
学校などの集団生活の場面では「目立たない」という性質に見えるかもしれない。
逆に、部外秘の何か重要な話し合いをする時には「信頼感」というものを付与されるかも。

外側の状況もそうだし、その人の中のどこを切り取るかによっても見え方は違う。
Aさんから見ると図の中央のごちゃごちゃした部分が目に入るかもしれないけど、Bさんから見たら図の上方の空白部分しか見えないかもしれない。

「手がかり」としてのカテゴリ

 それらの「性質」が何かしらの「カテゴリ」、たとえば「陽気だ」とか「真面目だ」とか、そういった見方を与えられることはよくある。「あの人はxxxだね」といった風に。

もっと大きく、その人の体質や考え方のこともある。
「あの人はxxxアレルギーだ」とか、「あの人はxxx派だ」とか。
ただ、「あの人はxxxだ」と否定的なニュアンスで言うことは、偏見や差別につながるかもしれない。

 

もちろん、カテゴリは外から見た時の目印のためだけにあるのではない。
自分のカテゴリを自分で見つけることで、自分自身を発見することもある。

重い珍しい病気、障害、セクシュアリティなどなど。
そういったカテゴリは、本人が自覚し、その目印を手掛かりに情報を見つけたり、仲間を見つけたりするのに役立つ。 

カテゴリがあることで、自分の知らなかった自分の性質に気づくことがある。
自分を客観的に見るきっかけになるのだ。

たとえば、MBTIという性格診断テストがある。
twitterでこの存在を知ったのだけど、2×2×2×2の組み合わせで全16種類の性格に分類されていて、それぞれの傾向とどのような機能が優位かなどを見ることができる。

無料性格診断テスト | 16Personalities

今回やり直してみると、初めて知った時と同じ「INTJ」というものが出た。(以前は内向・外向以外の数値がもっと中立的だったはず…)
下のパーセンテージが左右どちらに振れているかによって、人の性質が表されるというわけ。

 

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なんかちょっと、ばきばき激しい人みたいに見える(主観)。

MBTIへのいざない―ユングの「タイプ論」の日常への応用

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 これを知って、本を読んでみたりもして、ものの見方、感じ方がいかに人それぞれなのかということがわかってきた。同じ出来事でも、ずいぶん捉え方が違う。

それまで自分の捉え方を「普通」とも「当たり前」とも思わないくらい自然と思ってきたけど、どうやらそうではないらしい。
自分がどういう見方をしていて、他の人はどうなのか――自分の属するカテゴリを知るということは、他の人(近接する他のカテゴリ)を知ることにもつながる。

おかげで、自分の伝え方がわかりにくかったかもと気づけたし、家族のタイプを予想して実際に診断してもらって、不思議だった点がその人の特性だったりして、なるほどなと思えた。

共有できるよろこび

 もし、属するカテゴリがマイノリティと言われるものだった場合、そしてその性質に由来する悩みや違和感を日々感じていた場合、カテゴリを目印に誰かと出会うことは問題の緩和やよろこびにつながるかもしれない。

たとえば上述のMBTIで出たINTJという性質がわたしにとって大きな悩みの種になったということはほとんどなかった。つまらないな、とかはあるにしても、まぁそんなものだろうと思っていたし。
書かれている性質もまぁそうだなと思うけれど、どこかでみんなそういうものなのでは?なんて思っていた。*1バーナム効果というんだっけ。

ただ、同じ結果が出たという人の生の声(映像)を聞いた時はとても衝撃を受けた。
「わたしがいる」と思ったのだ。こんなことを思うのは初めてだった。
下の動画を見たときは泣きそうな気もちになったし、さらにその下の動画に出会った時は今までどこか遠いと思っていた世界が、ぐっと近くなり、何からかはわからないけど救われる気がした。
悩んでいたわけではない場合ですら、こうなのだ。


Only INTJ's Will Understand This

常に何かを考えていることを「ハムスターの回し車が頭の中で回っている」と言うの、なんて的確な表現なんだろう。メラトニン、強制終了におすすめ。


Surreal experiences of INTJ

自分自身の捉え方、時間感覚をこんなにも共有できることがあるなんて。自分というのは俯瞰的に見るから借り物か常に夢の中にいるみたいだし、過去も未来も同列だったりする。きっとこれは後で思い出すんだ(で、本当に鮮明に思い出す)、とか、あ、これはxx歳になった時の風を切る感覚とかをなんてことない場面で思う。

性質は移り変わる

もちろん、一人の人の性質の基本構造が根底から覆るということはそうないことだと思う。

でも、一人の人を取り巻く状況、環境は日々変わっていく。
新しく出会うものもあって、そこから受け取った何かが、ある性質を特別大きくしたり、形を変えたりすることもあるかもしれない。

仮に、周囲の影響を受けることが少ないとしても、その人の中の複数の性質が結び付いたり離れたり、使われて擦り減ったり、また新たに生み出されたりすることもある。

身体の細胞が時間をかけて入れ替わっていくように、一人の人の性質も新しくなったり、古くなったりを繰り返しているはず。

カテゴリを去る時

そんな風に一人の性質が移り変わったり、あるいはその人の置かれる状況(文脈)が変化していくのだとしたら、ある時目印になったはずの「カテゴリ」が役に立たなくなることがあってもおかしくない。もちろんずっと同じ「カテゴリ」に居続ける可能性だってある。

この記事のタイトルに「さよなら」と付けたのは、「アセクシャル」というカテゴリが不要だと言いたいからではない。アセクシャル的な性質がなくなったというわけでもない。
わたしにとって目印になってきたカテゴリが、少しずつ薄れていっていると感じていることを表したかった。
思ったより短かった。ピークは半年かな。

もともと恋愛や結婚、それ以前に特定の誰かと親しくなるということへの関心が薄かった。だから、そういった話題で何か困ったことというのはそれほどなかったし、今後も少ないかもしれないと思っている。
カテゴリの使い方は人それぞれだと書いたけれど、わたしにとっては自分の一面を知るためにあったのかもしれない。
カテゴリにであって取り出された一面は興味深くて、色々な角度から眺めてみたくなった。そうしているうちに、その一つの性質とつながる別の性質が次々に浮上してきて、少し離れて見たら、もうどれがどれだかわからなくなっていた感じ。
一つのカテゴリと思っていたものが、いつの間にか溶け込んでしまっていた。

ふとした時に、たとえば関連する何かに出会った時に、そのカテゴリのことを思い出すかもしれない。あるいは、自分の性質が大きく偏った時。
でも、そのことを考え続けることは、その周辺にあるカテゴリとの比較を意味していて、なんだかとても窮屈で、最初にあったはずの解放感がなくなっていく気がした。どんどん窮屈になっていく。

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カテゴリを必要とする理由も、そのカテゴリに関わる複数の性質を俯瞰的に見た時にわかる共通点(根底にある問題)も一人一人違う。
だから、誰かが誰かをカテゴリに押し込んだり、引き離したりすることはあってはいけないけど、当たり前のことながらずっと同じカテゴリに居続けなきゃいけないわけでもない。
たとえそのカテゴリに合致する性質を持ち続けているのだとしても、もしカテゴリの役目が済んだのなら、さよならを言ってもいいのかもしれない。

更新されなくなっていくもの、なくなってしまうもの(ブログなど)もあって、どうしてだろうとずっと思っていた。
でも、もしそこに「さよなら」があったのだとしたら、その先にあるものを見てみたかったなと思う。あまり考えなくなっていった時、どんなことを思っていたのか。
だから、これからも関連しそうなこと、しそうにないこと、ごちゃまぜの色々を書いていきたい。

*1:実際、みんな各性質を持っているけど、どこが強く出るか、どこが後景化するかということなのだと思う。