機械化できないのは「その人」という存在そのもの?――『未来職安』
「AIでなくなる仕事は何か」とか、「AI時代を生き残るために、今子どもにさせておくべきこと」みたいなのはずいぶん聞き飽きた。
新しい何かが参入してくると大騒ぎするけれど、何かが何かの完璧な代わりになり得るというのは今のところ起きていない気がする。
実際はどうなのだろう。
『未来職安』という小説は、そんな「もしも」の未来を気軽に覗かせてくれる。
99%の“消費者”と1%の“生産者”。平成よりちょっと先の世界。完全自動運転、ネコッポイド、警察ロボ、配達渡し鳥…いろんなことがオートの近未来、国民には厚生福祉省から生活基本金が支給されている。労働の必要はないけれど、職安の需要は、まだまだ健在。ヤクザみたいな風貌の職安経営者・大塚さん、女性事務員・目黒のもとに、仕事を求めて今日も妙なお客さんが現れる―。常識をくつがえす近未来お仕事小説。
おそらく、今から60~70年先の未来という設定だろうか。
人々は「生活基本金」と呼ばれる、ぎりぎり生活可能な給付金で暮らしている。「消費者」とはこの基本金のみで生活している人々のことで、「生産者」は働かなくてよくなった世界で仕事をし、賃金を得ている。
注文したものは「渡し鳥」や「渡し車」で無人配達されるし、学校も「教科システム」によって先生なしで授業が進む。車はもちろん自動運転だし、飲食店にも店員はいない。
そんな中で人間に遺されている仕事には、たとえば、謝罪するとか何かの責任を取る、店の雰囲気として高級店の店頭に立つ…などがある。
それでも仕事を持っていることを一種のステータスと考える人もいれば、職業というものに縛られたくない、と「消費者」であることを望む人もいる。
設定は未来だが、中身は職を紹介する「職安」の人々と、職を求めてやってくる人々が織りなすほのぼのとした日常が描かれた、ごく普通の小説だ。
働かなくてよくなったはずなのに、どうして働きたいと思うのか。働かなくていいことを堪能できるのは、どういう人たちなのか。
たとえば、「生産者」であるメリットはなくて、「消費者」であり続けたいと思っている男性はこんな風に楽しそうだ。
「……たとえばこのゲーム、すごく面白いんですが、一日三ゲームまで無料で、そこから先が有料なんですよ……でも、ぼくは有料のゲームをやるお金がないので、毎日三ゲームだけ遊ぶんですよ。そうすると、明日が来るのがすごく楽しみになるんです」
こんな風に日々を楽しめたら、どんな世界だって楽しめるだろう。
「生産者」であるはずの大塚さん(職安経営者)だって、
「……お前は仕事というものを真面目に考えすぎだぞ。やらなきゃ死ぬっていうなら真面目になる必要もあるが、今はそんな時代じゃないんだから、もう少しいい加減にやれよ」
なんてことを主人公(職安事務員)に言ってしまう。
どう楽しむのか、どれくらい手を抜くのか――すべてその人次第で、良くも悪くもなる。未来であることは、あまり関係ないのかも。
びっくりするような設定はないにしても、働かなくてよくなったことで、微妙に変わってくる価値観はある。
家族観がその一つ。この小説でちょこちょことりあげられる。
生活基本金は一人当たりに給付され、家族が多いと余裕が生まれるので、複数で生活していくことが当たり前となっている。これに対して主人公は家族から離れたくて生産者の地位にしがみついていて、そこのところでちょっとした齟齬が生じることがある。
たとえば、どうしても自分の遺伝子を残したいと思っている男性は、それが絶対であり、誰もがそう思うと信じて疑わない。
「え?いや、自分の遺伝子を残したい、っていうのは生物として普通の事でしょう」
という。雨が降ったら傘を差すでしょ、みたいな顔で。
小説の中では、女性同士がY染色体だけ合成して男の子を持ったり、三人以上の親から子供を作ることも可能になっている。DNAの使わない部分に親の愛の言葉を書き込むことだってできる(微妙だ…)。
そんな選択肢が「多様化」したように見える世界でも、相容れないものはどうしたって相容れない。
この人はわたしにとって真逆の人なのだ。彼の言語は理解できても、彼の考えはまったく理解できない。
そんなもやもやを抱えた主人公が、上司にベジタリアンである理由を尋ねた時の受け答えがいい。
「おれはおれが肉を食わない理由に興味がないんだよ。別にいいだろ、なんだって。せっかく好きなものを食えるのに、嫌いな方にいちち理由をつけてられるか。」
……一緒にいる人を選べるのに、単に血縁なだけの家族と一緒にいる事もないでしょ。
少なくとも生産者であり続けていれば、わたしは一人で生きていく事を選べるわけだ。
自分が選んだことの真逆のことが大事だと思う人がいてもおかしくないのに、時に人は自分の選んだものこそ絶対だと思い込むことがある。選択肢Aを選び、それを信じて疑わない人に、選択肢Aを選ばないことの理由をいくら並べたって、納得してはもらえないだろう。
ならば、「好きなものを選んでいる」。それだけでいいじゃないか。
さて。やはり、何もかもが自動化・機械化された中で、人間が果たせる役割はなんだろうというのは少し考えてしまう。
結局、この小説の中に登場する職業も、機械に置き換えることは不可能ではなさそうだった。
それでもどうしても機械化できないものがあるとすれば、それは機械にはないもの、つまり人間という存在ということになる。
小説に出てくる「いるだけでいい人間」という考え方も、肯定的に捉えた人間の存在なのではないか。
もしわたし達が、あの県庁の交通課みたいに「いるだけでいい人間」だと言ってもらえたら、みんな何かに焦ったり苦しんだりせず、幸せになれるんじゃないだろうか。
「いるだけでいい」というのは、残念ながら「その人でなきゃダメだ」というのではない。けれど、「誰だっていてくれたらいい」というのでもない。本当にそのままの意味なのだと思う。
うまくは言えないが、何かのポジションに空席がないとか、欠勤していないとか、とりあえず存在することに価値があるのだ。
本当は今だってそうなのかもしれない。
人間という存在が人間にしか果たせないとすれば、もっと個別的なところの「その人」というのも「その人」にしか成立させられない存在だと言える。
特に何をどう考え、何を大事に思い、どう生きてきたのかは、「その人」しか持ち得ない。
それは「その人」の存在そのものだし、仮にその構成要素一つ一つがありきたりのものだとしても、無限の組み合わせから生まれる「その人(存在)」は、唯一無二だ。
内村鑑三も、誰もが遺せて害のないものは、希望や喜びを信じて日々積み重ねられたその人の「生涯」だと言っていた(明治時代に)。
そういう意味では、今も未来もまったく変わらないかもしれない。