ゾウになる夢を見る

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マジョリティとマイノリティ――グラデーションが見えないなら、作り直せばいい

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自分とは正反対の考えに耳を傾けるのは、なかなか大変なことだ。
心地悪いし、おもしろくない。
それは、至極真っ当という意味で、「普通」のことだと思う。

  特に、「マジョリティ」「マイノリティ」の問題。最近いろいろと目にするが、その手の問題では、「耳の貸し合い」が不可能に近い。

意外なことに、内容に対する反論よりも、「些細なことをわざわざ表明したこと」への批判や「誰もが通った道なのに、そんなことを言うなんて人としてどうなのか」という意見が多い。これまた至極真っ当で、反論できそうにない。

同じ問題について話しているはずのに、どうしていつも議論は平行線なのか。
誰かが何かを表明し続ける限り、マジョリティとマイノリティは、このままずっと歩み寄ることができないのか。

そんなあれこれを考えてみた。

 

 

 マジョリティとマイノリティの対立

まず、マジョリティとマイノリティの意見がどのように分かれるのかを整理しておこう。

両者の意見がかみ合わない時、その意見はどちらから、どのように提示されているかというと、

  1. その多くがマイノリティ側から表明された意見に対してマジョリティ側が意見を述べている。
  2. マイノリティ側がマジョリティについて語ることはあるが数が圧倒的に少ないため、ほとんど注目されない。(マジョリティ側の反応は皆無)
  3. 逆にマジョリティがマイノリティについて自発的に取り上げることはもっと少ない。(マイノリティについてマジョリティが語るというよりは、マイノリティをマジョリティが取り上げる形になるので、1とほぼ同じ)

という形になっている。
つまり、二者の間で「対立」に見えるものがあるとすれば、それはマイノリティによる何らかの表明に対するマジョリティの反応ということになる。

では、どのような反応があるのだろうか。

 

 大したことじゃないのに、どうしてわざわざ…?

意外に多い。そして、わたし自身、そう思ったことがないかと言えば嘘になる。
そのような反応が起きやすい理由は後述するが、なかなか難しい問題なのだ。

自分自身の性質の中で、「マイノリティ」に入るかなというのは2つくらいあるが、それすら「わざわざ言うことではない」と思っている。
でも、本人が「大したことではない」と言うのと、他者がそう言うのとでは全然意味が違う。

「そんなのxxxという方法があるんだから、別に困らないでしょ」と言うのは、ある重い病気の症状の強い倦怠感がつらいという人に、「わたしだって疲れてだるい時はあるのに、それくらい…」と言うのと同じだ。

声をあげているのは、問題の中のほんの少しのことでしかない。

 

特別視されたいんじゃないの…?

「大したことじゃない」ことを敢えて表明しているので、「自分を特別だと思いたいんじゃないか」という意見が出てくる。
あるいは、上述のものの延長で、「病気(障害)だと思いたいんじゃないの?」なんてものもあったりする。なかなかすごい見解だ。

できれば「普通」に過ごしたいけれど、それがどうしても叶わない時には「こんなことで困っています」と声をあげるしかない時がある。

 

「認めてほしい」なんて強要だ

「大したことじゃない」のにわざわざ主張していて、「特別視されたい」ように見えるーーそうすると、わざわざ言うということは、「理解してもらいたがっている」「認めてもらいたがっている」と捉えられることも多くなる。
「理解して」「認めて」と一言も言っていなくても。

ネットに限らず、きっと感情が先に立つ人が多い。自然といえば自然なのかもしれないが。
「え、そんなのあり得ない」と思ったら、その先のことが頭に入ってこないのだ。どれほど多くのことを聞いても「それは変」という判断で思考がストップしてしまう。

そのせいで、「理解されたがっている」として出てくる反応の背景には、たぶん「自分だって大変なことがあるのに、そんな「大したことじゃない」ことを騒ぎ立てて甘えている 」という考えがある。

 

カテゴリって必要?

安易なカテゴリへの所属や創出への懸念もある。それは確かにそうなのだ。
当事者でも必要とする人としない人がいるので、「なぜ今、そのカテゴリが出てきたのか、目立って見えるのか」というところまで行けるといいかもしれない。

ケースによるが、カテゴリが出てきて自然と消える(不要になる)というのが理想だろう。

マジョリティ、マイノリティと言っても構成員である一人一人はそれぞれ違うので、上述の反応が同じマイノリティから出ることもある。

 

反応の背後にあるもの

「当たり前」と「当たり前´(ダッシュ)」がぶつかるわけなので、そう簡単に「そういう人もいるのね」とはならない。
「当たり前´」の内容以前に、「当たり前´」を敢えて登場させる方が問題なのだ。
なぜ、それが問題になってしまうのだろうか。

 

地動説と墨塗の教科書

「太陽は東から昇って西に沈む」に対して、「太陽は北から昇って南に沈む」と言い出す人がいたらどうだろう?「いや、それはないだろう。おかしいんじゃない?」と言いたくもなる。

「常識」と言われるものは、大きく2つに分けられると思う。
一つは、科学的な根拠を持って「それが正しい」「そうすべきだ」というもの。
もう一つは、科学的な根拠はない(かもしれない)が、そう考えた方が多くの人にとって都合がいいか、あるいは単に長い間「そういうもの」と信じられてきたから「そうすべきだ」というものだ。

前者のタイプの常識を「常識S」、後者を「常識N」としよう。
たとえば、ある世界では長い間「常識N」に沿って考えることが当たり前となっていた。そこへ、科学的な根拠を持つ「常識S」が新たに提唱される。
すると、どうなるだろうか。「常識S」と「常識N」が真逆の考え方だった場合、いくら科学的に正しい「常識S」であっても、ただちに信じてはもらえないだろう。「常識S」を信じるということは、すなわち「常識N」を否定することになるからだ。

これまで当たり前だと思っていたことが根底から覆されることは、不安や恐怖をもたらしてもおかしくない。
たとえば天動説から地動説へ。
信じて疑わなかった教科書に墨を塗る作業。
正しいと信じて疑わなかったものが正しくないのだと急に言われたら、何が正しいのか、何を信じればいいのかわらなかくなり、大きな衝撃を受ける。

そんなこと、誰だって好んで経験したくはない。

 

マイノリティにとっての問題は、マジョリティにとっての当たり前である

たとえば、マイノリティによって「問題Pに苦しんでいる」という声が上がるとする。
しかし、マジョリティにとっては、それは少しも問題なんかじゃない。

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上の図の左がマイノリティにとっての世界、右側がマジョリティが見ている世界だとしよう。
マイノリティの世界とは「黒にぽつぽつと白い円が配置されているもの」で、その中にはマイノリティが問題だと思っている「白地に黒い星形が配置された円」がある。
それを「これが原因で苦しいんです」と訴えても、マジョリティの世界(図右側)から見れば「世界の在り方の一部」くらいの存在でしかない。

マイノリティの主張は、さぞ些末なものに見えるだろう。

マイノリティの主張には「黒にぽつぽつと白い円が配置されているもの」という前提があるらしいが、それすら問題を騒ぎ立てるための小道具にしか思われない。
マイノリティの主張がただの存在表明の意図しかなかったのだとしても、マジョリティ側から見れば問題ですらない事柄を問題として見ろ、と言っているように聞こえる。
だって、マジョリティにとっては何の変哲もない「普通」のことなのだから。

あるいは、「自分たちの前提を理解しろ」という風に聞こえるかもしれない。そんなことは一言も言っていなくても。
だって、「普通」のことを「問題」として意識するためには、彼らの言う「前提」らしきものを理解しなければ、到底不可能なことだからだ。

だから、マイノリティが何かを表明すれば、それは「理解されたがっている」という風に見えてしまうのだ。

 

マイノリティそのものへの誤解

そういう風に見えてもしょうがない構造というものが、マジョリティとマイノリティの間にどうしても生じてしまう。
でも、問題はそれだけなのだろうか。

誤解1:マイノリティであることは選択できる

マイノリティに所属することはその人自身の「選択」によるものに見えることがある。
だって、そうとでも考えなければ、わざわざ「常識」に反するものに関わる理由がわからない。

マジョリティとマイノリティの関係には、どのような事例があるのだろう、と「マジョリティ マイノリティ 例」で検索した。
その検索結果の上位に出てきたサイトがある。

seikatsu-hyakka.com

マイノリティの事例かなと開いてみたら、マイノリティの「特徴」をあげた記事だった。

詳細は省くが、マイノリティには「自然とそうなった人」と「自ら進んでなった人」がいて、後者のことかな?というような「12個の特徴」が挙げられている。(かと思えば、マイノリティの事例は前者の事例が圧倒的に多い)

その是非は置いておくとして、問題を語るうえで問題なのは、マイノリティの表明への反発の背後に「マイノリティは自ら進んでなった人」という考え方がぼんやりとあることではないか、ということだ。

性的少数者について語られる際も、性的指向が性的「嗜好」とごっちゃにされていることが珍しくない。
障害や病気ですら、「そう思いたいだけだ」という批判されることすらある。

マイノリティと言われている性質は「結局、自分で選んでいるのではないか」という誤解があるように思える。

誤解2:マイノリティは特別視されたがっている

マイノリティとされる立場を表明することの一番の目的が「特別視されたい」という人の活動を、寡聞にして知らない。

たとえばこんな記事がある。

withnews.jp

Aさんという男性の取材記事だ。
メディアに出て活動するセクシュアル・マイノリティがいる一方、そうでない人の方が圧倒的に多い。
活動している人たちだって、本当は活動しなくていい世界が一番だと願っているのではないか。
そして、表立って活動していない人たちも、きっとその多くが「そっとしておいてくれたらいい」と思っているのではないか。

Aさんも次のように言っている。

「取材を受けるにあたって、周り(のゲイの人たち)にも聞いてみたんですけど、『普通の人間として扱ってほしい』とも『結婚できない不都合を解消したい』とも、思っていないんですよね。ありていに言うと、『放っておいてほしい』でした」

ただ、自分の思う「当たり前」をそうじゃないものとぶつけずに生きていられたら、それが一番いい。「表明することの危うさ」と「しないことの危うさ」を比べた時に、「しないことの危うさ」が勝った時にだけ、表明されているのだと思う。 

 

マジョリティ-マイノリティの枠組みがある限り

では、ずっとこのままなのか。互いに歩み寄ることは不可能なのか。
マジョリティ-マイノリティと二分する限り、不可能と言えばそうなのかもしれない。

どうにかしてこの関係を置き換えることはできないのだろうか。

 

そもそも、何と何の対立なのか?

マジョリティとマイノリティは単なる性質や見解、立場の違いの「二項対立」なのだろうか。

根拠もない雑さで恐縮だが、マジョリティとマイノリティでは、それぞれが属している「現実」が違うのだと思う。

理由はさておき、とりあえずマジョリティ対マイノリティを、「現実」対「現実」に読み替えて考えてみよう。

 

マジョリティ vs マイノリティ=「現実」vs「現実」

これまたなんの根拠も示せないけれど、わたしは「現実は一つ」なのではなくて、「現実は複数ある」と考えている。

どういうことかというと、「現実」という一つの世界があって、そこにわたしたちが生きているというのが「現実は一つ」という考え方だとすれば、「現実は複数」というのは、人の数だけ、その人の思う「現実」があるのだということ。
「現実」同士は重なる部分もあって、多くの人の間で共有され得るので、あたかも「現実は一つ」のように見えるものもある。
実際は、「現実」同士の少しずつの重なりが、共通認識としての「現実は一つ」を作っているという感じ。

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余談だが、一人に一つの「現実」が基本だが、フィクションの世界やそれこそVRのような仮想現実に身を置くことができるようになると、一人の人が「複数の現実」に属することも当たり前になってくるだろうと考えている。

マジョリティもマイノリティもそれぞれの「現実」が少しずつ重なって、「現実は一つ」に見える「グラデーション」のような状態が生まれるのが一番理想なのだろうと思う。

 

 「現実」が違うとどうなる?

一人一人の「現実」が「現実は一つ」に見えるように、実は多くの場合、自分の「現実」とあの人の「現実」が大きく食い違うことはない。
自分は恐竜が絶滅した「現実」を生きているのに、別の人が「いや、今日も恐竜に遭遇してさ…」なんて「現実」を生きているとしたら、それはなかなか双方にとって生きにくい。

ところが、恐竜のようなわかりやすい形ではなくて、「現実」の構成要素の違いが自分と誰かの間に起きていることは案外多い。気づかないだけで。
なぜ気づかないかというと、その違いは「現実」の構成要素ではなく(ex. 「現実」に生きた恐竜が含まれるかどうか)、構成要素のバリエーション(ex. 生きた恐竜が含まれるとすれば、それがティラノザウルスなのか、プテラノドンなのかという違い)の方にあるからだ

セクシュアル・マイノリティを例にとれば、マジョリティにもマイノリティにも「誰かに恋する」という要素が「現実」を形作るものの一つとして含まれている。(恋をしない、はちょっと置いておこう)
マジョリティにとっては、「誰かに恋する」が自動的に「異性に恋する」に置き換えられている。反対に、マイノリティでは「同性に恋する」や「両性に恋する」、「全性に恋する」などが「誰かに恋する」の中身として存在する。

 

「同じだけど違う」と違いが際立つ

これは、些細な違いだろうか。
「誰かに恋する」が「現実」の構成要素に含まれていない人がいるとすれば(たとえばわたしとか)、そのバリエーションが「異性」であろうと「同性」であろうと、大きな違いはないかもしれない。(わたしにはどちらも同じに見える)

けれど、「誰か」に恋するという括りではなくて、「誰に対して恋するのか」の方に注目すると、それぞれの違いは決して些細な違いなどではなくなる。

たとえば、かの有名なフィクション『ハリー・ポッター』の魔法の世界でも、差別は起きる。その魔法使いが純血なのか(魔法使い同士の間の子)、混血なのか(魔法使いと人間の間の子)で優劣がつけられるのだ。
人間から見ればどちらも「同じ魔法使い」で、実際に何も違わない。
けれど、「同じ魔法使い」から見れば両者の違いは問題となるし、問題にしたがるのは大抵「優れている」と思いたい側だ。

「同じだけど違う」から、批判や意見の食い違いが起きるのかもしれない。
「どうせ全部違う」という前提に立てば結果は違ってくるのだろうけど、「どうせ全部違う」を通すためには、ゲノム解読をするように個々人の「現実」の構成要素の違いを洗い出さなければいけないような気がする。

 

マジョリティ/マイノリティの「普通」は「現実」なのか、「虚構」なのか

「現実」がそれぞれ微妙に違う時、自分の「現実」と誰かにとっての「現実」を分けて考えることができる。
それでも微妙につながっていて、時々「現実は一つ」に見えることがあれば問題ない。
でも、誰かの「現実」が自分とはまったく別の「現実」に見えたとしたら…?

ある国(法律下)で、多くの人が「赤信号は停止を意味する」という「現実」に生きているとしよう。
そこへ「わたしはこれまで、青信号が停止の意味だと思って生きてきました」という人が現れたらどう思うだろうか。
「いや、そんなの嘘だ。勝手にそう信じてきただけだろう」と思いはしないだろうか。法律で定められているのだから、と。

この場合、法律によって「赤信号は停止」という共通認識(現実)が成り立っているので、「青信号が停止」という人たちのことを「生きている現実が違うからね」と片付けることはできない。
そんな時、「青信号」の人たちにとっての「現実」は、「赤信号」の人たちにとって「虚構」にするしかない。「デタラメを言っているからしょうがない」と。

 

それは当然だ、と思うだろうか。
最低限守らなければ事故が多発するので、そういう意味では「当然だ」とわたしも思う。
別の「現実」と認識するより、ハリー・ポッターのように「現実」には影響を与えない「虚構」として距離をとった方がいい。

でも、マジョリティとマイノリティの対立、もう少しはっきりと言えば、マジョリティから見たマイノリティへの反論が「誰かの「現実」を「虚構」にして距離をとる」ことでいいのだろうか。

 

「現実」を「虚構」にしてしまわないための表明方法を

「こういうことで困っている人がいる」ということに「へぇ、そうなんだ」と言えたらそれがいい。けれど「現実」と「現実」が少しも接点を持たないなら、それは「虚構」と変わらないんじゃないか。

誰かの「現実」を「虚構」にしてしまうのではなくて、「現実」の一部に組み込むにはどうすればいいのか。

 

誰かの「現実」を「虚構」にしてしまうことの問題

そもそも、誰かの「現実」を「虚構」にすることのどこが問題なのだろう。

「虚構」と片付けてしまうことは便利だ。
「あぁ、あなたの「世界」ではそうなっているのね。それが「正しい」のね」
と言ってしまえば、こちらの「現実」が脅かされることもないし、相手の言う「現実」は「現実」で、「虚構」として認めることができる。

「フィクション論」というものがある。
検索すればいろいろ出てくるので詳細は省くが、ざっくりと言えば「フィクション(虚構)」とは何か、フィクションじゃないものに対してどう位置づけられるかということを論じている。(わたしも詳しくない)

「虚構」と言っても、それが正しいか正しくないかは別問題である。
たとえばケンダル・ウォルトンという人は、ごっこ遊びの中で「切り株はクマだと言うことにしよう」という取り決めがあった時、その取り決めをした子どもたちは「クマがそこにいると誰かが想像している」から「そこにクマがいる」のではなくて、その取り決めの中では「切り株がある」ことが「クマがいる」という虚構を成立させているのだと考える*1

「虚構」だから嘘だということはなくて、ある取り決めをすれば、それは「虚構的真理」(クマが虚構的に存在する)ということが成り立つのだ。
虚構世界を絵空事だと過小評価してもいいが、実際のごっこ遊びで「クマ」に遭遇したら、子どもたちはきっと、きゃーきゃー言って逃げるだろう。
大人だってハリー・ポッターの世界を楽しめるように、ある取り決めの中であれば、それを「虚構的真理」として真実味を持たせることはできるのだ。

 でも、ウォルトンが言うには、「虚構」の中で正しいということと、「現実」において正しいということは区別しないといけないのだそうだ。
ハリー・ポッターの世界の中でホグワーツ魔法学校が存在することやクィディッチという競技があることは全然おかしくないけれど、その世界の外で(アトラクションではなくて)本当にそれらが存在するというのは違和感がある。

「虚構」だとしてもそれはそれとして存在できるならいいじゃないか、と思われるかもしれない。
確かに、それでいいのではないか、とわたしも思っていた。
でも、どこか違和感がある。

おそらく、「現実」に対する「虚構」として見ている限り、両者の距離は縮まらないのだ。「虚構」を成立させる条件があるからといって、それが「現実」で通用するとは限らない。むしろ、通用しない場合がほとんどだろう。
「虚構」の世界で魔法をかけることができた杖で、「現実」でも魔法が使えるとはなかなか思えないのと同じで。

誰かの「現実」を「虚構」にしてしまうことで、「虚構」としてその人に近づくことができるのなら、それはそれでいいことなのだろう。
けれど、それではいつまでたっても「現実」のこととして考えられないし、「現実」と「現実」をつなげて可能性を広げていくこともできない。

 

「現実」に含めるために、何ができるのか

では、どうすればいいのだろう。
そう簡単に解決しないということは、すでにわかりきっている。

何十年と時間をかけて、いまだ解決していない問題だって山積みなのだ。

だから、今さらおこがましいのだけど、可能性を列挙してみる。
どれだけ可能かとか、その方法が既存のいい関係を損ねないのかとか、そういったことはわからない。ただ、可能性として。

 

方法1:「虚構」を「現実」として経験してみる

VRを使えば、実際の「現実」とは別の「現実」を体験できるようになってきた。

「虚構」はちっとも悪くない。むしろ、すごい力を持っている。
ハリー・ポッターの世界を「現実」として認めるとおかしなことになるけれど、「虚構」という認識があれば、大人だって大盛り上がりできる。USJとかで。
ハリー・ポッターの世界をのぞくように、まずは「虚構」として触れるのでもいい。
たとえ「虚構」としてだとしても、とにかくその世界のことを知ることができたら、ずいぶん違ってくるのではないか。

 

たとえば、マイノリティの視点を体感できるVRというのがあるらしい。

www.moguravr.com

こういったツールが広く使われるようになれば、「虚構」のように向き合ってきた他者の「現実」を一つの「現実」として見ることもできるようになるかもしれない。

 

方法2:「虚構」を壊し、新しい共通「現実」を作り出す

方法1と関連するが、マイノリティの中で「マイノリティ」になってみるという経験も役立つかもしれない。

セクシュアル・マイノリティの集まりにセクシュアル・マジョリティが参加した時の両社の関係性について扱った興味深い論文がある。(下記リンク先で無料ダウンロード可)

ci.nii.ac.jpあ

他者から否定的に捉えられるアイデンティティを「スティグマ」と言うそうだ。
セクシュアル・マイノリティと言われるセクシュアリティを持つ人々は、そのような「スティグマ」を積極的に開示しない(外見からはわからないスティグマを「潜在的スティグマ」と言う)ことが多い。開示しないわけなので、場合によっては本来のアイデンティティには反する振る舞いを選択することになる。

この論文では、そのような「潜在的スティグマ」が当たり前に開示されているような場で、「マジョリティ」(異性愛者)はどのように振舞い、両者の関係性はどのように変わるのかを、LGBのセルフヘルプ・グループとLGBへのインタビューの分析から検討したものである。

セクシュアル・マイノリティの交流の場にいわゆる「異性愛者」が加わるわけだが、記述された対話の様子から、両者の関係性が微妙に変わっていくことが読み取れる。
両者の歩み寄りを可能にする背景は、次の二つだと言う。

1つはセクシュアルマイノリティの経験を異性愛者が「疑 似体験」すること、2つ目に異性愛者の苦悩をセクシュアルマイノリティが知ることであ る。

セクシュアル・マイノリティの集まりにおいて、異性愛者は数の上で「マイノリティ」となる。
普段なら異性愛者であることが前提に話が進められ、「異性愛者です」と開示する必要はない。ところが、マイノリティが多数を占め、(ここでは)同性愛者であることが前提となっている場では、自分のセクシュアリティの開示が必要になるのだ。
マイノリティの中で「マイノリティ」であることを経験するは、「立場が<転位>」した世界を疑似体験することを意味する。

また、この集まりで異性愛者がセクシュアリティ以外の悩みを吐露することで、「セクシュアルマイノリティ異性愛者に説明をするという図式が揺らぎ、〈マイノリティ〉と〈マジョリティ〉の境界が〈融解〉する瞬間 がみられる」らしい。

通常、マジョリティとマイノリティは<あっちの世界>と<こっちの世界>で隔てられている。どちらも互いに対して固定観念を持っているが、こうした対話や立場の入れ替えがあることで、マジョリティ/マイノリティ像に例外が生まれ、これまで互いに持っていた固定観念(虚構)も少しずつ崩れていくのかもしれない。

 

方法3:丁寧に、前提の違う「現実」として伝える

伝え方の問題もあるのかもしれない、と思う。
ここまで書いてきたように、マジョリティとマイノリティでは、前提としている「現実」が結構違う。
それなのに、「現実」の構成要素の部分のことばかり説明されれば、「いや、普通そんなことは起きない」とか「気にしすぎなのではないか」なんて言葉を返したくもなるかもと思う。

だって、「わたしの現実」では「そんなこと」が起きるようにはなっていないからだ。

自分にとって当たり前の「現実」を当たり前でない「現実」からも見えやすく伝えるのは、かなり難しい。
簡単だったらとっくに解決しているし、そもそも問題にすらなっていない。

だから、背景から問題まで、懇切丁寧に伝える必要があるのだと思う。なぜ、その負担をマイノリティが負わねばならないのか、という不満は残るだろうけど、大きな枠組みで見ることができていない以上、あるレベルまではそうした活動が欠かせないのだ。

じゃあ、どうすればいいのか。
下記事の下のほうで、インタビュイーである遠藤さんがおもしろいことを言っている。(記事全体もとてもいい)

www.huffingtonpost.jp

もうひとつは「通訳」をしたいです。差別は、ダメ人間だからすることじゃないんですよね。だれもがしているものだと思います。差別について語るとき、どうしてもお互いのボキャブラリーは限られてしまう。多数派の人は、自分を語る言葉さえ持っていません。そんな中で、立場のちがいに関するボキャブラリーをふやすための「通訳」者が増えて、もっとオープンにみんながいろんなことを話せるようになれば、状況はきっと変わるはずです。

そうなのだ、「通訳」。同じ言葉を共有していて、同じ社会で生きているようだけど、全然見えているものが違っていたりする。
それはもちろん、マジョリティ、マイノリティに限った話ではなくて、一人一人が本当はそういうものなんだけど。
「通訳」するくらいの気持ちでいれば、少し違ってくるんじゃないか。

それって、本当は珍しいことでもない。
誰しも、相手は(そのことを)よく知らないだろうという場面では、わかるように言葉を変えたり、足したりしながら説明する。

たとえば、研究というのはすごく細分化された分野で行われている。素人から見たら同じに見えるものも、少しずれていればその内容を理解するのにかなりの労力を必要とする場合がある。

それでも、研究費を獲得したい場合、専門外の人にも納得してもらう必要があるし、分野を発展させるためにも近隣諸分野との連携は欠かせない。
そんな時、研究者は言葉や内容を厳選し、懇切丁寧に説明することを心掛ける。専門家じゃなくてもわかるように。

それと同じで、どこまでなら感覚として共有できるのか、どこにどんな補足がいるのか、それをよくよく考えながら説明していくしかないのだと思う。適宜修正しながら。

 

おわりに

さて、長々とマジョリティとマイノリティの関係性とその改善方法を考えてきた。
明確な答えというのは存在しないし、これまでもたくさんの人が知恵を絞ってきた問題だから、そう簡単に何かを思いつけるはずもない。
でも少しくらい、そういうことを考えてみたって悪くはないだろう。

いろいろなことが、「青りんごより赤い方が好きです」「へぇ、そうなんだ」とか、「こういう理由でxxxが難しいです」「じゃあ、代わりにyyyはどう?」みたいになればいいけれど、なかなかハードルは高い。

いろいろ書いてきたわたし自身も、偏見や固定観念で頭がガチガチだ。
ここに書いた「マジョリティの反応」の二つや三つと言わず、わたし自身、なかなかひどい反応を繰り返してきた。

それでも、できるならいろいろなものとグラデーションの中でゆるくつながっていたい。
何かを自分はそうでないからという理由で突っぱねたり、遠ざけたりしたくない。

 

忘れてはいけないのは、マジョリティもマイノリティもみんなそれぞれ問題や悩みを抱えているし、その苦しさや痛みに優劣をつけることはできないということ。誰もが大切にされるべきだし、誰か一人が特定の理由で否定されることがあってはならない。
結局最後は、そういう思いやりというか、広く張り巡らされた「想像力」と「読解力」の問題になるような気がする。

でも、それらを普遍的な形で、集中的に育てることは一層難しいので、個別の問題に一つ一つ対処していくしかないのかな。

 

 

 

※本記事の内容は、適宜修正する予定です

*1:ケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か ごっこ遊びと芸術』田村均訳、名古屋大学出版会、2016年、第1章5「小道具と虚構的真理」