ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

大人だから、可能性が広がる

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就活ぶりに、どうやって生きていこうかというのを考えている。
人から見れば、あのころより状況は悪くなったように見えるだろうと思う。でも、わたしにとってはあのころよりも、とても可能性が広がったような気がする。

 

 学部時代、さぁ、スタートだ!と意気込んで臨んだ初めての説明会で、がつんとやられた。「これで、これからの人生が決まるんです!」と大学に来た某就活サイトの女性が何度も繰り返した。なんでもオリンピックに出た経験があって、キャリアについてあれこれアドバイスしてきたらしい。すばらしい経歴を積んできた人の話のはずなのに、未来へのわくわくが急速にしぼんでいったのを、今でもくっきりはっきり覚えている。ここでうまくいかなければ、人生終わりですからね。そう言われている感じだった。

そんなはずはない、と思った。うまくいったかどうかなんて、きっと何十年も経たないとわからない。平均寿命が80年くらいなのに、生まれて20年ですべてが決まってしまうなんてどうかしてる、と。でも半分以上は、きっとその就活サイトの人の言う通りなのだろうと思うから、大人になるということはどんどん選択肢が減って、可能性が狭まっていくことなのかもと不安になった。

 

それからいろいろな本を読んだし、身近な人がアドバイスをくれた。

ある本は、年を取るほど可能性が狭まるのか?というわたしの疑問にぴったり重なっていた*1。詳しくは忘れてしまったけど、とにかく「なんだ、大丈夫じゃん」と安心したのは覚えている。

縁あって出会ったアーティストさんは「ゆっくり考えたらいいよ」と言ってくださったし、指導教官は「迷ったら、可能性の高い方を選ぶといいですよ」とアドバイスしてくださった。

なぜかfacebookで知り合ったトルコの人は、「結局いいキャリアっていうのはさ、自分の思う一番いいひとになることなんだよ」と言ってくれた。

他にも「本当にそれでいいんですか?もう一度じっくり考えるのもいいですよ」と言ってくださった面接官、「なんにも決まっていない、なんにでもなれるのはとてもいいですね」とお世話になった先生。

研究室の同期の進路も多彩だった。芸術系の大学に入りなおす人、教員採用をもう一度受けるけど、それまで特に何もしないよ、という人、とりあえず地元に戻って公務員試験を受けるという人、就職する人、留年する人、退学する人、何年もかけて卒業する人、漫画家になった人。そういう社会状況だったのか、たまたまそういう学年だったのか、後にも先にも例がない多彩さだった。

そうだよね、その通りだと思うことを言う人の目は、真剣で、でもきらきらしていた。企業のブースをまわって、唯一その目をしていたのは、地元の小さな養豚会社の社長さんだった。目の静かな輝きと顔のしわ、仕事について話す物腰が、「あぁ、生きることと仕事をすることって、こういうことなんだ」と思える、唯一の人だった。できることなら、そこで働きたいと思った。

 迷いに迷った挙句、大学院に進学することにした。それは「ないな」と思っていた進路だった。でも、まわりをよくよく見てみると、正解らしきものはなかったし、みんなそれぞれ喜んだり、四苦八苦したりしていた。

結果として、可能性は広がったと思う。一般的には、この状況を「可能性が狭まった」と言うのかもしれない。でも、その狭まったという「可能性」だって、たくさんある「可能性」の中のほんの一部の領域でしかない。
誰かにこの道を行くべきかと訊かれれば、「おすすめはしない」と言うと思う。自分でも、もう一度選択するかと訊かれればちょっと迷う。それでも、総じてよかったなと思っている。

 

今こんな話を書こうと思ったのは、もちろん自分がもう一度考えるべき時に来ているから。でもそれだけではなくて、これからますます世界の変化がはやくなって、型通りにいかないことも増えるんじゃないか、と思ったからだ。

スマホが普及したこの10年だけでも、いろいろなことがスピードアップした。まぁ、産業革命などに比べれば、それほど劇的な変化じゃないのだろうけど。

次の変化として注目されているのは、AIだろうか。未来を読む AIと格差は世界を滅ぼすか (PHP新書)という本では、技術変化の恩恵を受けるのはごく一部の層で、ますます格差が広がると指摘されていた。わたしたち人間は情報の一部になるし、人生の途中で、何度も学びなおしをし、その変化についていく必要があるのだとも言われている。どう生きていくか、何を幸せと思うかを、若者から高齢者まで問い続ける時代になるのかもしれない。

その点だけ見れば、いいことばかりのようには思えない。場合によっては、「人間の可能性」が狭まってしまうのかも。だけどうまく付き合っていけば、こうした変化は、大人の可能性を広げてくれる一つのツールになる気がする。

今だって、無料で使える情報発信手段、編集ソフト、商品や能力のマーケットがある。一昔前ならたった一人、しかも詳しい知識なしではできなかったことが、お金も難しい勉強もなしにできるようになった。やってみたいな、と思いさえすれば、たいていのことは実行できてしまえる。

 

わたしにも、ひっそりと憧れていることがあった。なんとかできないかと本気で考えるレベルではなくて、「こんなことができる人ってかっこいい」と思うレベル。
それは音楽で、特に自分で作曲してしまえることだった。わたしはというと少しピアノが弾けるくらいで、ちゃんと習ったことはなかった。あと、たどたどしくウクレレのコードを押さえられるくらい(子供のころ、どうやらサンタの予算じゃギターは無理そうだと踏んだ結果のウクレレ)。楽譜の音階は読めるけど、音符のリズムはあやしい。

インターネットに情報がもりだくさんになったおかげで、弾きたい曲のわからないリズムは、その曲を検索して聞けばわかるようになった。記号の意味を忘れてしまっても、何度でも調べることができる。

ただ、やっぱり曲を作るというのはもっと勉強しないとだめなんだろうと思い込んでいた。コード進行とか和声(?)とか。それでも最近、即興演奏を聴く機会があって、生き物のようなすごさに憧れは高まった。

そんな時、TEDで見つけた動画に背中を押された。


How to find and do work you love | Scott Dinsmore | TEDxGoldenGatePark (2D)

 何かを「自分にはできない」と思う時、それは自分や周りが決めた限界にすぎない。どんな偉業もすぐれた業績も、どれかが成し遂げるまでは「不可能」なことだったのだ。最近、ロシアの女子シングル・フィギュアスケートのジュニア選手が4回転ジャンプに3回転をつけたコンビネーション・ジャンプを成功させたというニュースがあった。それだってちょっと前なら「不可能」なことだった。でも、これを皮切りに、10年後には信じられないようなレベルのジャンプを男子も女子も、シニアもジュニアも跳んでいるかもしれない。今の自分(人間)には無理だと思うことをちょっと切り開けば、可能性はぐんと広がるのだ。

そんなこんなで、初めて曲というものを作ってみた。それまでも頭の中に自分のものだか、どこかで聞いたものだかわからない旋律を思い浮かべてみることはあった。でも、音を拾えないし、リズムをどう表すのかもわからなかった。
ふと、わたしでも使えるフリーの打ち込みソフトがあるのでは?と思って探してみると、選びきれないくらいあった。使いやすそうなものを選んで、入力してみた。入力すると再生できるので、自分の思っていた音やリズムとあっているかどうかを一つ一つ確かめることができる。実際に自分で演奏できなくても大丈夫だった。

頭の中のものとは少し違うものになったけど、それでも自分が一番びっくりな、ちゃんと曲らしきものができあがった(※知識のない一曲目にしては、という意味)。いろいろ修正したり、付け加えたりすれば、もっとそれらしくできるかも。初めて記念に、そしてやりたいと思えばできるよ、ということで貼り付けてみる。

できないと思っていたことも、技術の力を借りれば案外実現可能かもしれない。
そして、それは様々な経験を持っている大人こそ、有利なはずだ。

大人と子どもの違いの一つに、経験の蓄積の総量がある。いろいろなツールを使えばその差を埋めることは不可能ではないけれど、時間の性質上、たぶん完全には実現しない(経験というデータを身体にインストールできれば可)。そうなると、大人のアドヴァンテージは、「思いもかけないものが全く別の新しいことに役立つという可能性」を持っている点ということになる。

これまで何気なく見聞きしていたもの、うれしかったこと、悲しかったこと、真剣に向かい合ってきたことの数々。無駄なものなど一つもなくて、「これまで」すべてが「可能性」に変わる。子どもの可能性が「まだ何も決まっていないが故の選択肢の多さ」というものだとすれば、大人の可能性は「無数のこれまでを組み合わせて新しい選択肢を創り出せること」なのだと思う。

どちらの可能性もすごい。だけど、あの時「大人」たちが語っていた可能性よりも、今手にした、大人になってからの「可能性」の方がずっとわくわくできるものだと思う。

*1:たぶん、「これから就活を始める君たちへ」という本。