ゾウになる夢を見る

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恋愛・結婚・出産してもしなくても、自分を「満たん」にできれば大丈夫

思いがけず、恋愛・結婚・出産について(ほそぼそと)考えた一年になりました。

改めて考えてみると、不思議なことだらけ。なぜ(比較的)人気なのか、恋愛・結婚・出産(育児)したりする人としない人が経験することってそんなに違うんだろうか――

そんなあれこれを、ちょこちょこ考え続けた結果行き着いたのは、
「してもしなくても、やっていること、目指していることは同じ」というもの。
そして、恋愛・結婚・出産のどれもが、結局は「自分のため」なのだから、それらをしなくても、自分を満たしていくことができれば全然大丈夫ということ。

見えてきた構造のようなものをちょっと書き記してみることにします。

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ざっくり概観

「 選ぶ道やたどり着く方法はさまざまだけど、目的地は一緒」ということが、世の中たくさんあります。たぶん通勤経路のようなものから、生き方まで。

恋愛・結婚・出産がもたらすものは何かを具体的なところで考えると、愛やパートナー、誰かと一緒に過ごす時間、新しい命などなど…とても他の方法では得られないものばかりのように見えます。
でも、「結局それらによって得られたものとは何なのか?」ということを抽象的に考えてみると、幸福感だったり、安心感、時には生きている意義だったりと、感情的な部分に行き着きます。
それらは全部、「自分を満たしてくれるもの」です。

恋愛・結婚・出産が自分の幸せのためなのか、自分の生きていく意味のためなのか――それは人それぞれでしょう。でも、どれも(今この時代、この国では)「自分のため」のものという点では同じと見てよさそうです。

だったら、別に恋愛・結婚・出産でなくてもいいはずです。
それなのに、どうしてこの3つは比較的人気だったり、人に勧められたりするものなのでしょう?
心理的な理由、社会的・文化的な理由、生物的な理由――理由はたくさんあると思いますが、今回はちょっと違った角度から考えてみました。その3つのどんな構造が人々を満たすのかという点です。

考えられる要素と構造は次のようなものです。

  • 恋愛・結婚・出産は、どうしようもなく「自分のため」
  • 「自分のため」だけれど、そこから「人のため」が派生しやすい
  • 良好な関係や時間を築くためには、「自分のため」と「人のため」を超えた「祈り」が必要となることがある
  • 「自分のため」、「人のため」、「祈り」の重なりは、必要以上に「自分」を見つめ、満たし続けることから遠ざけてくれる

一つずつ、説明していきたいと思います。

恋愛・結婚・出産は全部、どうしようもないくらい「自分のため」

いろいろ考え方はあるでしょうが、わたしはこの世に生まれたのなら、とことん「自分のため」に生きていいくのでいいと思っています。
たぶん誕生したのは「人のため」だったはずなので、その時点で「人のため」は十分果たしたのではないかと思うからです。 

恋愛にしても、結婚にしても、出産にしても、結局はより良く生きたい「自分のため」に選択されるものの一つにすぎないのだとすれば、誰にも強制できるものではないし、心から望むのでない限り、急かされるように選ぶものでもないと思います。
もしそれらを執拗に勧める人がいるとしたら、その「勧める」ということだって勧めている人自身の「自分のため」です。スルーしてしまって大丈夫。

「自分のため」から「人のため」へ、の恋愛・結婚・出産

ではなぜ、どうしようもないくらい「自分のため」なものがもてはやされるのでしょう?
それは恋愛・結婚・出産が、自分を満たすことと「人のため」になるということがセットでかなえられるものだからだと思います。

恋愛・結婚・出産における「自分のため」・「人のため」を見る前に、そもそも「自分のため」と「人のため」がどのような関係にあるのか、ざっと確認しておきましょう。

「全部「自分のため」でいいよ」と言われても、「それはなんだかな」と思ったりしないでしょうか。100%「自分のため」は何も悪くないのですが、それだと100%「自分」のことを気にかけ続けなければいけません。それはそれで、きついものです。
そこで手をのばしたくなるのが「人のため」。ところがこの「人のため」、「自分のため」からしか生じないのではないか、と思うのです。 

自分というのが空っぽの容器だとしたら、「自分のため」というのはその容器を満たしていくことです。注ぎ入れるものはなんだってかまいません。
恋愛・結婚・出産でも。仕事、ボランティア、趣味、おいしいもの、きれいなものでも。
その容器(自分)から溢れかえるものがあって初めて、「人のため」ということが可能になるような気がします。

 

このことを踏まえて恋愛・結婚・出産を見てみると、恋愛・結婚・出産では相手がいることで自分を満たし、自分を満たすことで相手を満たすことができるようです。「自分のため」→「人のため」、「人のため」→「自分のため」を叶えてくれる持ちつ持たれつ、一石二鳥なものなのです。
だから多くの人が選ぶし、恋愛・結婚・出産をすれば「寂しくない」と思われるのかもしれません。  

でもこれはちょっとだけ危うい関係です。それぞれのバランスがうまく取れなくなった時、「自分のため」すらままならなくなります。
だから理想としては、自分自身で一程度自分を満たすことができた先に、恋愛・結婚・出産など、互いに満たし合えるような関係があるのがいいのでしょう。 

「自分のため」・「人のため」の先にあるもの

「自分のため」→「人のため」という構造は、他のものにもあるはずです。ではなぜ他の何でもなく、恋愛・結婚・出産が多くの人に選ばれる、あるいは「良いもの」とみなされるのでしょうか。

一つには、多くの人が選んできたもので、実例が豊富、わかりやすいという理由があると思います。まわりにたくさん実例があるので、自分を満たして「人のため」となっていくことがイメージしやすいです。

でもそれだけでは、そもそもなぜ「自分のため」→「人のため」が必要となるのかがわからないですよね。

推測でしかないですが、人は「自分のため」から離れたいとどこかで思っているからではないか、という気がしています。自分のことに注意を払い続けるよりも、よろこびや悩みを含む「自分」というものからある程度距離を置く方が楽になれるからです。

ここからは仮説であり、理屈っぽいです。
「人のため」が可能になれば、自分から少し離れることができます。ですが、「人のため」も「自分のため」から溢れ出たものにすぎないため、「人のため」が存在する限り、「自分のため」から完全に距離を置くことはできないということになってしまいます。
そこで、「自分のため」でも「人のため」でもないものが必要になるのではないか、というのがこの記事の仮説です。

わかりやすいものは宗教でしょうか。
わたしは特に何も信仰していないのでこれまた推測でしかありませんが、宗教というのは人間を超えた存在や世界、あるいは自分を超えた人類全体、世界全体に思いをはせる、つまり「祈る」ことのできる場を与えてくれるものです。
教会などに行き、高い天井を見上げると「祈る」ということが日常にあるか、ないかというは大きな違いのように感じることがあります。

もし宗教ではなく「祈る」ということがあるとすれば、それは自分ではどうにもできないことに対して「うまくいきますように」とか「幸せでありますように」と思いを強めることではないでしょうか。

その点、恋愛・結婚・出産は最適です。
いくら約束した相手でも、いくら待ち望んだ子どもであっても、自分の思い通りにいかないことや、自分の力ではどうにもしてあげられないということが、その時々に降りかかってきます。「人のため」を想うのに、想っても想ってもどうしようもない時というのは必ずあります。そんな時、人は祈るしかない。「どうかうまくいきますように」「幸せでありますように」と。

「自分のため」+「人のため」+「祈り」。
これこそが恋愛・結婚・出産で得られる重要なもので、人々が目指しているところのような気がします。
「祈り」が加わることで、「自分のため」や「人のため」はかすみ、3つの要素が重なり合ったところはすべてを帳消しにしてくれます。光の三原色みたいに。

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三つが重なった部分は、利己的でも利他的でもないので、「無私」や「無我」という感じなのだと思います。 「自分」に注意を向け続ける必要がなくなります。

自分を「満たんにする」、ただそれだけ

 「自分のため」∩(かつ)「人のため」∩「祈り」=「無我」

この構造が必要とされるのは、その方が楽だから(生きやすいから)なのだと思います。「自分」というものから距離を取ることができれば、苦しいことやや悲しいことからも距離を取ることができるからです。

当然ですが、これは恋愛・結婚・出産じゃなくても手に入ります。子どもだろうと、大人だろうと、望めばいつでも。 

後輩、知人の子ども、見知らぬ誰か、遠く離れた国のこと、見たこともない自然のこと――自分がうれしいとか、苦しいとかそういうこと抜きに、 「どうか誰かや何かが、うまくやっていけますように」と思う時がないでしょうか。 

そこにたどり着くのに必要なのは、やはり自分を満たすということです。恋愛・結婚・出産してもしなくても。 

このブログにいただいたコメントに、「今の状況が満たん」という言葉があって、その言葉と響きが好きなのですが、自分を満たすということは「今、自分は満たんだな」と思えることです。

自分を満たんにする方法はたくさんあるはずのに、ある年齢に至ると、その方法は恋愛・結婚・出産(に仕事が加わるくらい)に限定されてしまうようになります。 本当は恋愛・結婚・出産ではない「満たん」の仕方を、いくつも持っていていいはずなのに、です。

自分を「満たん」にする方法については、いつかまた別の記事で書きたいところですが、「満たん」にするためのスタートラインは、「自分」をよく知ることです。
自分が何によろこびを感じるのか。どういう時にリラックスできて、反対に心が落ち着かないのはどういう時か。何を追い求めているのか。どうしても譲れないものは何か。

簡単そうに見えて、ひょっとしたら一生かかるなんてこともあるかもしれません。

恋愛・結婚・出産はそれを容易にかなえてくれるようにも見えます。でも、実はそうでもないのでしょう。「しない」のと同じくらい、恋愛・結婚・出産で自分自身を満たすのは大変なことで、満たしきれていない人は山のようにいます。きっと、「満たん」な人はほんの一握りです。そんな人たちは、恋愛・結婚・出産してもしなくても、「満たん」のような気がします。

だから、恋愛・結婚・出産してもしなくても、とことん自分のことを「満たん」にできればそれでいいのだと思います。
両想いか片想いか、結婚に至ったのか至らなかったのか、子どもを持ったのか持たなかったのか――「満たんにする」という点からみれば、そんなことはほんの些細な差にしか見えません。ひょっとするとそれらは通過点でしかなくて、「満たん」のための手段ですらないのかも。

どんなもので「満たん」にしたっていいんです。
お菓子でもいいし、漫画でもアニメでもアイドルでもいいのです。わたしなんて、空腹を感じられて、食べてはいけないものがなくて、自分の足で移動できる、それだけで「満たん」だと感じられる時があります。量でも内容でもないのかもしれません。
ただ「本当に満たんなのか?無理してないか?」ということは、常に確認しておきたいところです。

 

「自分のため」を優先していては、「立派な大人」にはなれないのでしょうか?本当に?
「満たん」にしてハッピーでいれば、そのハッピーさが「人のため」になることだってあるかもしれません。
自分が「満たん」でハッピーだったら、浮かない顔をした人やこれからこの世界に飛び込んでくる小さな人たちに、抱えきれなくなったハッピーさを、おすそ分けしたくなるかもしれません。

それでいいんじゃないか、と思うのです。
自分を「満たん」にするって、そうそうできることじゃないです。
もし「満たん」にできたのなら、それは一種の余裕であり、ものすごい財産です。

もちろん、たった一人で目指さなくてはいけないものではありません。よくよく見てみると、まわりのいろいろなもの、たくさんの人たちが知らない間に自分を満たしてくれていたことに気づくこともあります。

だから大丈夫。一緒に全力で、「満たん」を目指しましょう。