ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

アセクシャルかどうか、迷ったときには

アセクシャル」という言葉と出会って、一年が経ちました。

「自分はAロマンティックでAセクシュアルなんだろうな」と思えるまでに、時間がかかったなと思います。この一年、ほとんど「アセクシャル(仮)」状態だったし、今思うと迷走してたなと思う時期もあります。周りとの違いに悩むよりも、言葉を知るのが先だったからかもしれません。

もちろん、どういう経緯で知ったのであれ、どんなセクシュアリティであれ、「本当にそうかな、どうかな」と考えるプロセスは必ずあって、「これだ」と思えるにはそれなりの時間が必要になります。そんな風に迷っていた時、他の人はどんなことに迷って、どうやって「やっぱりそうだ」と思ったのか知れたらよかったなと思います。ちょうどいい区切りだし、「こんな感じだったよ」、「こうすればよかったな」ということを一つの事例として残しておこうかなと思います。「そういう人もいる」くらいに見ていただけたら幸いです。

※以下、アセクシャルAセクシュアルと表記します。

 

f:id:kirinno_miruyume:20181229171442j:plain
 

 

なぜ確定が難しいのか

そもそも何に迷っていて、どうしてAセクシュアルだと言い切ることが難しいんでしょう。セクシュアリティとは変化し得るもので定まらなくてもおかしくない、というのは今回脇においておきます。)

理由を探すまでもなく、セクシュアリティを自認するということ自体、どう考えても難しいことです。選んだわけでもなく、急に「あれ?」と気づくんですから。

もしヘテロセクシュアル異性愛者)、いわゆる「普通」と言われるセクシュアリティだったなら、「あの人のことが好きで好きでたまらない」とか、「あの人は私のことどう思ってるんだろう…」と悩むことはあっても、「私、異性のことを好きになったみたいなんだけど、私ってヘテロセクシュアルなのかな?」と思い悩むことはないはず。

世の中のセクシュアリティの基準は想像以上にヘテロセクシュアルに偏っています。
そしてそれは、自分が思う以上に知らない間に「普通」として染み込んでいます。
ヘテロセクシュアルの人々が自分のセクシュアリティを疑問視することが少ないのは、それは違和感を伴うようなものではなく、ごくごく「普通」で当たり前のことだから。自問自答して自認しなければならないのは、自分自身の感覚や経験がヘテロセクシュアルから見た「普通」に合致しない場合です。

そんなセクシュアリティの自認には、葛藤や不安がつきもの。
ただし、それぞれのセクシュアリティに対して形成されているイメージや共有されている知識は様々なので、セクシュアリティの自認を阻む要因や葛藤にもセクシュアリティによる違いがあります。

では、Aセクシュアル(他者への性的欲求なし)を自認する難しさというのは、どういったところにあるのでしょうか。思いつく限りあげてみると、

  1. 他者への性的欲求が「ある」という感覚を実感として理解できないので、本当に「ない」のかどうかがわからない(アロマンティックの場合、恋愛感情も同じ状態)
  2. もしかしたら気のせいかもしれないし、別の原因があるのかもしれないけれど確かめようがない(ex. 無意識に抑え込んでいる、努力が足りないのでは?、原因となる(克服可能かもしれない)出来事がある、まだ経験していないだけかもしれない、ただの言い訳なのかも etc...)
  3. できることなら、「普通」でありたい
  4. 一般的な説明や共有されている感覚に合致しない部分がある
  5. 説明としてはあてはまるが、自認の必要性を感じていない
  6. 説明としてはあてはまりそうだが、なんとなくもやもやが残る

こんな感じでしょうか。(こんなのもあるよ、というのがあればぜひ教えてください)
実際はこれらの要因が複雑に混ざり合って、「Aセクシュアルだ」とは言い切れないのだと思います。

1や2は核心をつく部分でありながら、「確かめようがない」という厄介な点。
人によっては自分で色々試してみる、なんて人体実験のようなこともできるかもしれませんが、それでわかるという保証もありません。
この場合、Aセクシュアル以外の人、Aセクシュアルの人と話してみる、あるいは実際にやり取りしなくても情報収集をすることで、「これは近いな」、「やっぱり違うな」など、共通点や違いを見つけることの方が現実的でしょう。

3の場合、自分がAセクシュアルかどうかという問題だけでなく、自認しようとしているセクシュアリティへの嫌悪感、あるいはこれまで自分が思い描いてきたものがひっくり返されてしまうような不安、孤独感など、「Aセクシュアルかもしれないけれど、認めるのが難しい」という心理的なハードルがあると言えるでしょう。

4の「合致しない部分」は、Aセクシュアルの間でも意見が別れるような難しい点かもしれません。本当は「こうであればAセクシュアル」という正しい基準のようなものはなく、「正真正銘Aセクシュアル」と言えるような人が存在するわけでもないです。
セクシュアリティが同じでも、考え方、感じ方は人それぞれ。当てはまる/当てはまらないで考えるのはとても難しいです。

さて、残るは5、6ですが、5の自認の必要性を感じていないのであれば、「Aセクシュアルかどうか」はそれほど問題にならないかもしれません。実は6のはっきりしない部分というのが多くを占めているかもしれませんが、「もやもや」の正体がわからないというのはすぐに解決できない厄介なところです。

ちなみに、わたしが迷っていた要因は1、2、6が近いです。参考までに、Aセクシャルという言葉を知って、やっぱりそうだろうなと思うまでの過程を振り返ってみます。

Aセクシュアル」を知ってからの一年

わたしがAセクシュアルを知ってから現在までのプロセスを図で表すと、下のような感じになります。ざっくりしてますが、近づいたり離れたりしているところがポイントです。一番右が現在。f:id:kirinno_miruyume:20190120175310j:plain

左から順に、

  1. Aセクシュアルという言葉を知る(アセクシャルかもと思う)
  2. Aセクシュアルとその周辺を深く知ろうとする(本当にそうかなと考える)
  3. Aセクシュアルから少し距離をとる(「普通」に対して違和感を覚える)
  4. やっぱり(今のところ)Aセクシュアルだろうなと思う

というプロセスをたどりました。

各段階の順番、その段階にとどまる時間的長さはきっと人それぞれ。たとえば、3から入り、1,2を同時的に経験し、4のような「自分はAセクシュアルである」に至ったとしても、また2や3の段階に戻ることも考えられます。

Aセクシュアル」という言葉を知る

それぞれの段階をもう少し詳しく見ていきます。

わたしが「アセクシャルAセクシュアル)」という言葉に出会ったのは漫画の中でした。
主人公が自分を説明する言葉として「アセクシャル」が登場し、「え、それってどういうことだろう?」とすぐに検索し、「あれ、これって?」と思ったのがAセクシュアルとの出会いです。

たまたまタイトルが気になった無料の漫画を読んでみてのことなので、今思えばなんとも偶然の出来事でした。そんな偶然がなければ、今も「アセクシャル」を知らないままだったかもしれません。

「Aセクかも!?」で一人盛り上がった時期

Aセクシュアル」を知ってからは、ネットでいろいろと調べました。
Aセクシュアル(そしてAロマンティックも)に関する情報は、合点のいくことばかり。今まで考えていたのとは違う見え方を手に入れて、なるほどと納得したり、わくわくしたりしました。

知ったこと、考えたことをまとめたくて、ブログも始めました。最初の1~2か月は検索して得られる情報がメインだったので、自分もそんな風に自分のことを整理してみたくなったからです。

その後アセクシュアルの方のブログからTwitterも見るようになり、初めてTwitterのアカウントも作成することになりました。ブログよりもTwitterを使っている方の方が圧倒的に多く、リアルタイムの情報を得られるようになりました。 

ここまでが、およそ半年と少しくらいの出来事です。ただ、「Aセクシュアルである」という確証は持てずにいて、この間プロフィールには「(仮)」をつけていました。

Aセクシュアルから距離をとった時期

ところが、「自分にとって当たり前」のものを、同じく「それが当たり前」の人々と照らし合わせることになったので、ちょっとした混乱が生じるようになります。正直なところ、もっと共感できると思っていたのです。初めこそ、「そうだよね」と思っていたものの、それはずっと自分にとっての「普通」だったので、すり合わせることの意味がわからなくなってきました。もし日常的に違和感を感じていたなら、ほっとしていたところでしょう。もちろん少しもほっとしなかったと言えば嘘になりますが、わたしの場合やや特殊な環境で過ごしてきたので、恋愛や結婚絡みですごく嫌な思いをした、ということがたぶん少なかったのです。そのせいか、Aセクシュアルを知ること自体のわくわくが落ち着いてくると、どこかすっきりしない気持ちになりました。

おそらく、「すっきりしない」の中には、

  • Aセクシュアルを知ったことで、逆に自分の感覚の方が「普通」ではないということを直視しなければならない(「普通」と接する機会が極端に少なかったので、セクマイ的な感覚が普通だと思っていたところがあった)
  • 特徴としてはAセクシュアルに合致するものの、共有できることがあまりない(Aセクシュアルかどうかも判断できないので、どこまでがセクシュアリティ由来の問題なのかがわからない)
  • Aセクシュアルのように思える性質の原因が他にある可能性を否定できない
  • 特徴としてあてはまるとしても、自分が困っていることの原因は、Aセクシュアル以外のところにあるのではないか

という気持ちがありました。

「別に白黒つけなくていもいい」と思いながらも、一つ一つ検討してみたり、他の可能性を考えてみたりしました。結構真面目に考えていたので、ついには窮屈に感じるようになりました。この頃、けっこう迷走してたなと思います。

ブログでいうと、下の二つの記事あたりでしょうか。

kirins.hateblo.jp 

kirins.hateblo.jp

 

この頃Aセクシュアルにこだわるのはやめようと思い、 プロフィールに「aroace」を表記しなくなったりました。

「やっぱり自分はAセクだ」と思い至る

上述のような迷走を経て、 「自分の中には確かにAセクシュアル(そしてAロマンティックも)的な性質はあるけど、今は特にそれでどうということもなさそうだ」と思い、Aセクシュアルのコミュニティから1~2か月ほど離れていました。

もちろん、その間も関連する情報を追ったり、考えたりすることはストップしていませんでしたが、どちらかというと消極的でした。

ですがおもしろいことに、距離をとることになったからこそ、わかるようになったことというのがありました。
小説やドラマの中、街を歩く中で視界に入るもの…これまで「そういうものだ」と思ってきたもののはずなのに、「あれ、なんか違うんじゃない?」と引っ掛かりを覚えることが増えました。

Aセクシュアルを知る以前の「そういうものだ」は、初めから人と自分の間に見えない線引きのようなものをしていた気がします。無意識のうちに透明な壁を造っていて、だから目にもとまらなかったし、たとえ気付いたとしても「それは自分のことではないから」と深く考えることはありませんでした。無意識に蓋をしていた部分もあったと思います。

ですが、Aセクシュアルかもと思い、調べ、いったんそこから距離をとったことで、「自分にはない(らしい)もの」が逆に目につくようになりました。だからといってどうということはないけど、「そういうことだったのか」というのが離れて初めて実感できた気がします。

そういった期間を経てもう一度Aセクシュアル界隈のコミュニケーションを見てみると、どこかほっとしました。ともすればふらふらと彷徨いかねない自分の感覚の軸のようなものが、ぴしっと形を得られる気がしたのです。

そう思うと、最終的にAセクシュアルだというところにたどり着けたのは、はっきりと〇×つけられる項目があってのことではなくて、「この感覚を共有できるこの場所が心地よい」という気持ちだったのだろうと思います。

Aセクシュアル(orセクマイ)かも?」と迷ったら

もしAセクシュアルという言葉と出会わなかったら今頃どうしていたんだろう?と、ときどき思います。案外今まで通り「人は人、自分は自分」なんて思って、何も不思議に思わなかったかもしれません。あるいは、「ちょっと恋愛とか結婚とか真剣に考えた方がいいんじゃない??」と何かしらの行動を起こしていたかも。

どちらがよかったのかは比べようがないですが、今まで何も思わなかったからといって、それは問題ではなかったかというとそうでもないかもしれません。ただ違和感を感じて無意識に距離を置いていただけで、本当は「なかったこと」にしていただけなのかも。そう思うと、知ることができたのはやっぱりよかったなと思います。

わたしが「自分はAセクシュアルだ」と思えるには一年ほどかかりました。長いのか短いのか、よくわかりません。ですが、もし迷うようなことがあれば、次のことを大切にしたらよかったんじゃないかなと、振り返ってみて思います。

違和感を大切にする

「あれ、なんかちょっと周りと違うな」がスタートでもいいし、「Aセクシュアル?どういうことだろう?」でも、自分の感覚なり概念なりに何か「引っ掛かり」があったのなら、ぜひそれを大切にしてほしいと思います。

「あれ?」と思うことには結構な確率で理由があります。それがセクシュアリティに由来するものなのかどうかは判断が難しいですが、日々目にするもの、耳にするものの中で心地いいもの、悪いものがあるとすれば、なかったことにせず、ちょっと立ち止まって「どうしてだろう?」と考えてみる。「なんだ、そこか」とわかるなら大丈夫。でも、「そういうものだよね」となかったことにするのは避けたいところ。

「そういうものだ」と割り切るのは案外簡単です。でも、「そういうものだ」が積み重なっていくと、本当は一番大切にすべき自分の感覚が鈍っていってしまいます。

もし「Aセクシュアルかも」と思うなら、Aセクシュアルと思う視点、そうじゃないかもと思う視点でいろいろなものに目を向けてみるといいと思います。よくセクシュアリティなどを「仮置きしてみる」ということを聞きますが、とりあえず名乗ってみた先に見えるものを体験するのもおすすめです。

あれこれ取り付けたり取り外してみたりして、それによって見聞きするものがどんな風に変わるのか、変わらないのか、それを繰り返すことでなんとなくわかってくるものがあるような気がします。 

楽な気持になれる方に近づく

結局、Aセクシュアルかどうかをはっきりさせるかどうかは、それによって自分が楽になれるところ、心地よいと思えるものがあるかどうかではないかと思います。楽かどうかは、そのときどきで変化していいのだと思います。自分が今「こっちの方が楽だな」と思うのならそこに近づき、ちょっと窮屈だなと感じれば離れて、また戻ったっていいのです。

もしAセクシュアルであることやそれを名乗ることに意味を見出せなければ、たとえAセクシュアルであったとしてもはっきりさせる必要はないのかもしれません。でも、Aセクシュアルであること(を名乗ること)に何らかの価値を見出せるのなら、実際どうかは別にして、「Aセクシュアル」であっていいのだと思います。

Aセクシュアル」で解決することと、しないことがある

 それでももやもやが残るとしたら、そこには「Aセクシュアルかどうか」だけでは解決しないものがあるのかも。
わたし自身、今もはっきり断言できるわけではなくて、「こんな風に必要を感じたら、友人に打ち明けよう」とか、「こういうことで困ったら、ここで共有することができる」みたいに、困ったときの一つの拠り所として整理できてた感じです。

もちろん、セクシュアリティの問題というのは、「ここからここまではセクシュアリティが絡んでますよ」という風に切り取れません。セクシュアリティというのはその人を形成する重要な要素の一つで、他のいろいろな要素と複雑に絡み合っています。一見セクシュアリティが直接関係ないように見えるような問題でも、その根底にセクシュアリティによる違和感や差別が絡んでいることもあります。
でも当然のことながら、セクシュアリティが自分全体を支配しているわけでもありません。セクシュアリティだけであらゆる問題が解決できるというわけでもないのです。

Aセクシュアルかどうかを決めかねているということは、違和感や悩みの原因を何に求めればいいのかがわからないということなので、「Aセクシュアルってことと関係ないかもよ?」なんて言うのは元も子もないんですが…
それでも、「Aセクシュアルである」というのはその人そのものではなく、その人の一部の要素にすぎないので、思っているほど何かをまるっと解決してくれるものではないかもしれないよ、ということです。

そんなこともあるので、気負いすぎず、でもおおよその目安「そうかもしれない」がつけられたら、まずは大丈夫だと思います。

おわりに

初めてAセクシュアルという言葉を知ったときは、「こうだったらAセクシュアル、こうじゃなかったらそうではない」のような明確な基準があれば便利なような気がしたけど、そういうことじゃないんだよなと今は思います。

どんなに明確でわかりやすい説明があったとしても、それは真空状態で行われた実験結果のようなもので、いろいろな条件が複雑に絡み合った環境(ひとりひとりの人間)ではそっくりそのまま適用できるはずがありません。
だったらそういうものとして(血肉の一部に複雑に絡まってしまったものとして)、ごちゃごちゃなままの自分の中に見え隠れするものを「Aセクシュアル」と呼ぶしかないこともあるだろうと思います。

 Aセクシュアルセクシュアリティのことだけでなく、いろいろなことを見聞きし、誰かと話してみて、確かめていく以外にたぶん近道はないけれど、でもその中で、これまで気づかなかったものがそこここにあることを知ることもできるので、なかなか悪くないプロセスかもなとも思います。
どんなことに迷って、どう決めたのか、もしチャンスがあれば他の方のエピソードを聞いてみたいです。

 

 

2019.10.4 リライト

 

↓Aロマンティック関係の記事はこちら↓

kirins.hateblo.jp