逃げのしあわせ、その先のこと
逃げることでしあわせなら、とことん逃げればいい。逃げのしあわせ、最高じゃん。
そう思っていた。
もし、いいこと、うれしいことが起こる確率が9割、いやなこと、苦しいことが起こる確率が1割だとしても、その1割にどうしてもぶつかりたくなくて、9割のしあわせよりも、1割のいやなことから逃げ切るしあわせを選ぶ。
1割の方を引いてしまう可能性があるのなら、いい方の可能性が9割だろうが、9割9分だろうが、それはちっともいいものには思えないから。
よく考えてみると、すべてがそうだ。
突き詰めていくと、もし生まれる前に選べるとしたら、生まれない方を選ぶ。十分しあわせだけど、それとこれとは別の話で。
いやなことからだけ逃げる。とにかく、そんな発想がなかった。
丸ごとぜんぶから、逃げ切ってしまえばいいって。そういう発想。
だけど、何かがおかしいとは思っていた。
どう考えても9割の方を目の前にしているのに、わたしは逃げる。
9割の方かどうか、見極められる自信はないし、おそらく9割だろうと思っても1割の記憶がちらつく。
もし、体内に、「キョウフ」という成分があるのだとしたら、それは血液中のヘモグロビンみたいに酸素と結合して、身体中を駆け巡る。胸のあたりがキュっとなって、手や足の先がジリジリとする。
逃げるということはつまり、その「キョウフ」を察知することだ。逃げる対象を把握することなしに、逃げることは始められない。9割を前にしようが、1割を前にしようが、逃げ続けることを選択している限り、わたしは一生、「キョウフ」を認識し続けることになる。
そのことに気づいて、なんだかそれはおかしい、と今更ながら思った。逃げのしあわせというのは、思っていたほど最強の選択肢ではなかったのだ。
あれこれ調べて、行き当たったYoutubeの人が言っていた。
「何が大丈夫かは、わたしが決めるし、わたしには、Noと言う権利がある」
そんなの当たり前でしょ、と思うでしょう。もちろん、それくらいのことはわかっていた。
でも、わかっていたのは、そういうことじゃなかった。
問題は、どこに緑の枠が付いているか、だ。
よく使うようになったオンライン会議システムは、話している人に緑の枠が付くようになっている。誰かが喋るのに合わせて、緑の枠は、行ったり来たりを繰り返す。
そんなものが、日常にもあるのだとすれば、わたしはたぶん、緑の枠の外にいた。カメラだけオンにして、音声はミュートにして、にこにこしてる。自分でミュートを外して、緑の枠を表示させることができるのに、できることはわかっているのに、敢えてそうしない。それどころか、いつでもカメラもオフにできるように、あるいは存在自体をログオフできるように、スタンバイしてる。そういうこと。
双方向のコミュニケーションが成立しているのなら、緑の枠は、等しくそれぞれの人の画面をまわっていく。それが、あるべき姿だ。
だけど、それが成り立たないことがたまにある。たとえば、緑の枠の行き来が、一人の人の手に委ねられるとか。そんな時、すべてをミュートにする、あるいはその場から何も言わずに退出するのも一つの手。ただしそれは、緑の枠が巡らないことを、認めるのと同じだ。持っているはずの権利を、自分の手でなかったことにすること。永遠に。
いやなことにはいやと言えばいい。そんなの間違ってると。
逃げるなら、そうやって逃げるべきだった。自分の存在を初めからなかったことにするのは、自分のことを守っているようで、自分で自分を追い込み、傷つけている。逃げることを選んだつもりでいるだけで、初めから、逃げるという主体性すら持つことを許されていない。自分で、選んだわけではなくて、選ぶことを放棄した結果が「逃げる」なのだ。
本当は、立ち去るべきだった。それは大丈夫じゃない、それはいやだ。そう言って、その場を後にすること。それは「逃げる」と同じように見えて全然違う。それは自分にとっていいものじゃない、あなたにとってすばらしいものだとしても、わたしにとってはそうじゃない。そうやって、くっきりと線を引く。それは、逃げるのではなく、ふさわしくない扉を閉じること。安全な世界を選んで、そこにい続けること。
逃げれば勝ちだと、逃げ続ければしあわせだと、本気で思っていた。そんなブログ記事の下書きもある。
一時的に逃げる、避難することはとても大切だ。でも、それをずっと、永遠に続けることなんてできない。正直それは、とてもしんどい。
逃げることのひずみは、次第に逃げようとしていないものにまで及んでくる。すべてのつじつまを合わせるために、関係のないしあわせまでもが侵食されていく。それが進みに進んで、初めて気づくのだ。
逃げ続けることは、正解じゃない。
そろそろ、その先に行かないといけない。
先のYoutubeの人も言っていた。最初の段階は、あなたに非はない、逃げ切るべきだと。でも、逃げ切って、安全地帯にたどり着いたら、そこから先はあなたに責任がある、と。わたしには、わたしを変える責任がある。それは、逃げ続けることをやめて、逃げ続けなくてもいい、まったく別の世界、別のステージに行くという責任だろう。
いやなことだけを、取り除いていけばいい。何もかも、大雑把にまとめていくのではなくて。
いいと思うものだけを、手元に残していけばいい。
簡単なことなのに、気づかなかったし、簡単なようで、すごく難しいことだった。
選ぶというのは、逃げではない。逃げる以上の効果がある。安全、安心がある。
一度選んでしまえば、一つの扉が閉じて、別の扉の世界に入っていける。その扉は強固で、次に同じような扉が出現しない限り守られているし、選び方を覚え、正しく選ぶことができていれば、同じような扉に出会うことすらなくなっていく。安全な場所を選ぶ限り、安全な世界はちゃんと存在する。
「大きなハグを」
と画面の向こうで、Youtubeの人が微笑んでいる。正しい方に来たのだな、とほっとする。