ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

今、これからのためにできること

 今、必要なものをあげるときりがない。医療体制にワクチン、検査体制、誰もが取り残されない方針、支援、それらすべてを支える予算やマンパワー、そしてそれらのすべてに関わる人たちが必要な補償や休息を取れること。きっともっとたくさんある。いくらでもある。

 今、私にできることは少ない。手洗いうがい、マスクの着用、外出頻度を下げ、人との接触を少なくすること、機会があればワクチンを接種すること、リスクの高いことに対して「今はやめよう」と断ること、よく食べよく眠ること、適度に体を動かすこと、情報の正誤を判断できるようになること、不調を感じたら然るべきところに連絡すること——これまで通りだ。

 「こういうことならできる」、「こうすればいい」と簡単に言うこともできない。できることが少ない今、理想論でしかないとしても、縮こまらずに、悲観しすぎず進むために、偽善的すぎるくらいの「理想」が欲しい。今、これからのために必要なことについて考えてみることにした。

 

 

最低限必要なもので、今足りないもの

 今必要なものがすべて賄われるとして、それでも足りないもの、絶対的に欠けているもの——それは、「声を受け止めること、受け止めて何かしらの反応を返すこと」だと思う。

 

 人と顔を合わせたら挨拶をしなさい、何かを受け取ったらありがとうと、間違いを犯してしまったらごめんなさいと言いなさい。言葉の意味もよくわからない頃から、ことあるごとに教わってきた。「ありがとうは?」、「ごめんなさいは?」と。それは礼儀である以前に、「見えていますよ」、「わかっていますよ」という合図、最もシンプルなコミュニケーション(やり取り)なのだと思う。あなたがいることは見えていますよ、あなたがしてくれたこと、私がしてしまったこと、ちゃんとわかっていますよと表明するための。

 だけど今、それがない。個人や専門家からの「それ」は聞いた記憶があっても、みんなを代表する人、引っ張っていく人たちの「それ」を聞いたことを思い出すことができない。  一番シンプルであるはずのことが、一番難しいことになっている。

 

認めるから続けられることもある

 ゴールが見えれば、走り切ることも、残る力を出し切ることもできる。だからここまで、「あと少し」、「一年後は、いや半年後は…」そんな気持ちで、一人ひとりがゴールを見つけ出し、近づいたかに見えるそれを断腸の思いで引き延ばすということをなんとか続けてくることができたのだと思う。

 私は専門家ではないけれど、素人目に見ても、これはすごいことなんじゃないかと思う。一人ひとりの善意としか言いようのないもので、ここまで来ることができた。それぞれができる形でがんばってきた。得られた結果は芳しいものではなく、その意味では「がんばりが足りない」のかもしれない。結果のない努力に価値はないと言う人もいるだろう。それでも、よくがんばってきたと思う。

 私たちの走りは、がんばりは見えているだろうか。届いているだろうか。ゴールが見えていても困難、見えなかったり、引き延ばされたりするのはなおさら苦しい。伴走し、士気を高めるコーチのような存在である私たちのリーダーは、「お願いします」と言う。「もっとがんばってください、がんばりが足りません」と言う。きっと、リーダーにはリーダーの、私たちにはわからない、見えない苦労があるのだと思う。でも、こんな時だからこそ、いつまでどう走り続ければいいのかわからない時だからこそ、感謝をとは言わないから、せめて「見ていますよ、ちゃんと見えていますよ」そういった声かけが必要だったんじゃないか。

 別の国の、別の文化のリーダーのように熱烈なスピーチでなくていい。馴染みのない文化の慣れない語り方を真似ても、同じように心に響くとは限らないから。必要なのは、そんなに複雑なものじゃない。「ありがとう、おかげで今回はなんとかなった」、「十分でない中、よくやってくれている。あともう少し」、そういう、「なんの足しにもならない」と笑われそうなものでいい。

 私たちの多くは、ヒーローやヒロインではない。日常の中でやってきたこと、続けてきたことが突如スポットライトを浴び、ヒーロー/ヒロインであるように見える時があるとしても、一日いちにちをつないでいるひとりの人間にすぎない。生きていくために学び、働き、時に気力体力を満たすだけで精一杯になり、毎日が少しでも楽しく、よろこびを感じられるものであることを求めているだけの。

 生まれつきの、志願してのヒーロー/ヒロインではないのだから、すべての苦しみを引き受けることはできないし、問題を解決するために闘い続けることもできない。誰かと分け合い、時々休むことができて、終わりの見えない闘いに意味を見出すことができなければ、走り続けることは不可能だ。

 

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私たちが作ってきたもの

 今に始まったことじゃない。同じようなことは、日常の中にうんざりするほどある。誰かに責任やがんばりを押し付けることで「うまくいった」だけなのに、うまくいかない人に「がんばりが足りない」と言う。サービスをしてくれる人への、身の回りの世話をしてくれる人への、安く不十分な待遇で働く人への、腕力や地位を持たない人への、あの横柄な態度。

 努力の結果だと言うものは、そういったもので成り立っているのに、それすらさも自分の努力や能力であるかのように振る舞い、感謝や労いの言葉はない。せめて、見えているよ、わかっているよと示すことがあれば…なんて思うのも虚しく、そんな可能性や事実があるとは夢にも思わない。少なくともこの国は、そういうことが当たり前のようにそこここにある。私だって偉そうなことは言えない。こうなるまで気づかなかったこと、「当たり前」に思ってきたことがたくさんある。

 結局、私たちは声を受け止め、返す側でもあるのだ。返すことの積み重ねが、この今や社会全体の空気を作ってきた。

 

私たちは受け止め、返してきたか

 その全体を作り変える最もオーソドックスで、重要な方法は選挙だろう。その点、私たちは適切な方法で反応してこなかったとも言える。

 ただし、「受け止め、返す」というのは選挙だけの話ではない。選挙は一つの通過点にすぎない。だから、多くの人が選挙には行かないけれど必要な義務や努力という形で、選ばれた人たちの声に応えてきたとも言える。なんて真面目なんだろうと思う。そういう意味では、選挙に行った人も、行かなかった人も、選挙以外の日々、特に「自粛」を求められたこの一年半、声に応え続けてきたと言えるだろう。

 もちろん、選ばれた人は選んでくれた人だけに答えればいいというものでもないだろう。選挙や政治は「買ってくれたら、ノベルティをプレゼント」というものではないはずだから。選挙では「これから」が選ばれる。「これから」は年単位のもので、選ばれた人たちは1億人くらいの人の「これから」を背負っていることになる。選ばなかった人も、選べなかった人も含めての代表であるはずだ。そうでないなら、それはただの人気投票でしかない。

 けれど、実際は選んでくれた人たちの声だけに応え続けている。「人気投票」に参加しなかった人たちは、相手にされない。相手にされなくなった人たちは、余計に見ること、選ぶことから遠ざかる。乱雑に扱ってくる人に立ち向かい続けることは、誰にでもできることじゃない。

 反応は連鎖し、状態は悪化する。ハラスメントに似ている。最初は些細なことに思えた悪意や攻撃が当たり前になって、誤魔化すように笑って受け止め続けるしか無くなるような状況。そんなことは全く望んでいないのに。そこから離れない限り、自分が使い物にならなくなるまで地獄は続く。受け取らないし、返さないという反応の連鎖。

 それだけではない。見放し続けることは、その人の後に続くかもしれない人のことも間接的に見放すことにつながっていく。間接的に見放されるのは、「まともな人」や「ふさわしい人」だ。多くの人が見向きもせず、見放されるとわかっている立場に、進んで志願する人はいるだろうか。選択肢はいくつもあるのに、ブラックとわかっている職場に身を置こうとする人材はまさにヒーロー/ヒロインだ。救世主は、そんなに都合よく現れたりしない。

 

私たちが作っていくもの

 直接「No」と言うことができないなら、間接的に「No」と言うしかない。仲間を見つけ、助けを求める。それが最善ではなくても、別の誰か声に応えること、支持、応援することで、少しでも「マシ」な方に進んでいくことはできる。この一年半、些細なことが連鎖し、現状を作ってきた。目に見えないようなものが全体を変え得るなら、同じように正の連鎖も起こり得るはずだ。負のものに比べて、その波及効果は見えづらいとしても。 

 国の中に私たちはいるし、私たち一人ひとりの集合が国を作っている。どちらか一方の秩序が乱れれば、もう一方も形を変える。人の寿命を考えると、国全体の新陳代謝は比較的緩やかなのだろう。急には変われない。

 だからなおのこと、日常の少しずつの意識が大切だと信じたい。毎日繰り返されるものは、目立たないけれど、積み重ねられた時、とても大きな結果につながることがある。サグラダ・ファミリアとか、五百円玉貯金とか、筋トレみたいに。そういうものが全体を、自分を含む大きなものを作っていく。

 できることが少なく、ひたすら耐え忍び、待つことしかできないこともある。けれどその中でも日常というものが続くのであれば、そこには必ず誰かのがんばりや我満、やさしさや思いやりといったものが途絶えずにある。一足飛びにいかないということは、馬鹿らしいくらい些細なこと、誰にでもできること、その積み重ねでもあるということ。そういうものを見つけて、ありがとう、よくやってくれているよ、まずはそんな風に受け止められるものを受け止め、返せることを返していくしかないんじゃないか。全体としてひと塊りに捉えることなく、決めつけることなく一つひとつの小さなこと、一人ひとりの声を見ていくこと。

 時間はかかるし、すでに厄介な状況だ。それでも、私たちはよくやっている、よくがんばっていると思う。偉そうに、と思われるかもしれないけど、何もできない今、それでも日々の生活が送れているのも事実だ。まずはそのことを受け止め、それを可能にしてくれている人たちの連なりを想像してみることも、今、これからのためにできることの一つだと思いたい。

 

 

 

 

"You’re doing a good job
Don’t get too down
The world need you now
Know that you matter"


www.youtube.com

CNN放送版(映像が良い)

Good Job - Alicia Keys (Official Live Performance on CNN) - YouTube

 

花粉はどこに消えるのか

 花粉症ですね、と言われてから20年くらい。花粉症ではなくなったかもしれない。

なる時はある年から突然なる、なんて聞くけれど、その逆はじわじわとやってくるみたいだ。
年々症状が軽くなり、まぁそれでもこんな調子でいくのだろうレベルがだらだらと続いていたところ、ここ数年格段と軽くなり、今シーズンに至っては、それらしき症状が見当たらない。このシーズンならではのむくみも、多少あるかな、くらいで。

 

「実は、花粉症で…」なんて言葉を聞くと、さぞ辛かろうと、できることなら症状という症状を取り除いてあげたい気持ちにかられる(なんの資格も術もない)。今の治療法や薬の効き具合、副作用はわからないけど、どんなに手を尽くしても、花粉症である場合とそうでない場合とではパフォーマンスが全く別物だと思う。

わたし自身、一番症状のひどかった中高生時代、薬を飲もうが鼻がつまり、息ができず、集中力もだだ下がりで、目や鼻、口、耳、喉など、あらゆる場所が痒く、苦しかった。できることなら顔や身体のパーツをすべて取り外して、まるっと洗ってしまいたい、と何度思ったことか。とっくに解放された苦しさなのに、今でもリアルだ。

 

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ネットでざっとみる限り、花粉症は完全に治るというものでもないらしい。治ったとしても、あるいは原因を取り除いたとしても、何かしら別のものに反応する可能性もあるのだとか。

仕組み自体をぼんやりとしか把握していないのでわからないけど、ありうるなと思う。
思えば、花粉症が姿を現したのは、アレルギー性の気管支炎が影を潜めだした頃だった。その前には食物アレルギーもあったようだし、アレルギー・マーチというものなのかもしれない。

花粉症があまりにひどかったため、当時は珍しかったと思われる減感作療法というものも数年ほど取り組んだ。アレルゲンの入った注射、計4本を週に1回打つことからスタートし、次第に2週間に1回、月に1回と様子を見ながら間隔をあけていく。

最悪の状態は脱したかもしれないが、続けている割に目に見えた成果はなかったように思う。それらを終えて数年経って「軽くなったかな?」と思うようになったので、それを「効いた」というのかもしれないけれど、わからない。治療中、思ったほど反応が小さくならなかったし、結局は何にでも過剰反応する体質なのかもしれなかった。

 

では、何が効いたのかというと……わからない。強いていうなら、バランスかな、と思う。

この10年ほど、別の疾患で漢方薬とその考え方に助けられてきた。
漢方の先生に、あなたの体力レベルは水たまりのようなものです、と何度となく言われた。健康な体力が湖だとすれば、わたしのそれは水たまりなのだと。ちょっとした要因で、すぐに干上がってしまう。この水を溜めていくことができなければ、頻繁に不調を繰り返し続ける、だからたっぷり寝てください、仕事諸々7割の力で、ということを繰り返し説かれ続けた。

何が自分にとってベターで、心地よいのかを探った。何かを諦めたり、大切にしたり。
そうして、湖とまではいかないけれど、水たまりの一段上には行けたのかもしれない。週ごとに調子がコロコロ変わっていたところから、半月になり、ひと月になり、数ヶ月、半年、一年と。それを体質が変わったと言うのかもしれないけど、体質が変わったから元気になったのではなく、考え方や摂取するもの、行動が変わったから、体質も変化したのだろうと思う。

 

正解はない。わたしによかったものが、誰にとってもいいわけではない。人間の体の構造なんて、まぁだいたい同じなのだから、と思われるでしょうが、それほど単純ではないどころか繊細だ。

だって、目に見えない花粉やウイルスに右往左往しているのだ、今だって。なぜかそれにひどくダメージを受ける人と、受けない人がいて、その違いはざっくりと説明できなくもないけど、絶対こうですとはたぶん言い切れない。

たとえば、風邪には葛根湯とか、納豆は身体にいいとか、1万歩歩こう、1日2リットル水を飲もうとか、色々あるけど、結局どれも人それぞれ。

 

身体のことに、「こうすればこうなる」なんて公式はない。
そのことを、わたしたちは忘れがちだ。

それは、誰のせいでもない。自由なようで、あらかじめ決められていることがあまりにも多すぎるからだ。

1日の労働時間や始業時間、休日とそうでない日、簡単にアクセスできる情報とそうでないもの、暮らしを最低限維持するのに必要な金銭などなど。わたしたちの生活を規定するのは、繊細で常に変化するこの生身の身体ではなくて、誰基準?と思ってしまうような外側から与えられたルールや価値観。ぴったりこないどころか、自分をボロボロにしてくれてしまうようなものであっても、そこから完全に自由になることは難しい。

唯一無二の「わたし」というもののバランスをいかに把握し、いかに調子よく保つか——わかっていても、外側の基準に身を委ねるしかないことばかりでうまくいかない。外側の基準、つまり大きな枠組みの中に組み込まれたわたしたちは、その中で各々の役目を果たし、全体のバランスを保とうとしている。そのはずなのだけど、実際はがんじがらめになって、小さな花粉一つに右往左往する。一人一人がバランスを失って、その一人一人からなる全体も調子を崩しているのかも。

内でも外でもいい、とにかくバランスの取れた状態を一つ用意すべきなんだと思う。そうすれば、たとえば花粉自体は消えなくても、まるで花粉が消えたかのように快適に過ごせるようになる。そうでないなら、花粉なんて気にならないくらいの、外側のバランスを手に入れるか。

できればみんなで、花粉が消えても消えなくても、花粉以外の何かが悪さをしてもしなくても、それが何?という顔をしていたい。

 

今週のお題「花粉」

唯一絶対の当たり前なんてなくて

「当たり前のものが、当たり前じゃなくなった」
「早く元通りの生活に戻りたい」
この1年、よくそんな匿名の声を見聞きした。 

確かに、生活は変わった。

何よりも、ソーシャル・ディスタンス。人との間に、物理的な距離を設けること。人と直接会う機会を減らすこと。
そうすることで格段に減ったというか、「ゼロ」になったのが、飲み会やランチなど、飲食を伴う交流、コミュニケーションだった。

いつからか、交友とか親睦の場が、必然的に飲食を伴うものになった。それ以前は、ただ一緒にいて、ぐだぐだ話すだけで成り立っていたものも、飲食がメイン、あるいはサブセットで。
飲み会やランチというのは、食べ物、飲食行為、そのための時間と空間を共有することで、さして共通項のないもの同士、あるいはかつてあった共通項が薄れたもの同士が、「一緒に過ごした」ことを認めることができる、最も手っ取り早い手段なのだろう。

一方わたしは、飲食それ自体への興味関心が薄いばかりか、どちらかと言うとあまり得意ではなくて(楽しむものというより、がんばるもの)、そういったものとセットになった交流の形式は、どれほど親しい間柄でもどこか儀礼的なような気がして、関係性が薄まれば薄まるほど、集団になればなるほど、気が重いものだった。だけどそれは「当たり前」のことで、みんなどこかしらそういうものなのだろうと諦めの気持ちでいた。

だから、そういったものが取り払われたこの1年は、衝撃的だった。そんな「当たり前」があるのか、と。

本当に連絡を取りたい人とは、「どうしてる?」、「大丈夫?」とむしろ気軽に連絡が取れる。「困ったら飛んでいくよ」と、友だちでも恋人でもなく言い合う関係を、自分が持っていたことも、これまでなら気づかなかった。

人と会うのが嫌なのではない。飲み食いしたくない、というのでもない。ただ、わたしにとって心地よいと思える時間的・空間的な距離と、これまでの「当たり前」があまりにかけ離れすぎていた、そのことにしっかりと気づいてしまっただけ。

わたしにとっては、数ヶ月に一度、手紙を送り合ったり、小中学校の登下校のように、示し合わせたわけではなく、ただ同じ時間帯だったとか、同じ方向だったとか、それくらいの理由で、喋ったり黙ったりしながら歩いたりする、そんな距離感が心地い。

わたしにとっては、会っていない時間、連絡を取っていない期間も含めて丸ごとが、その人との関係性なのだと思う。

 

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この1年で、「当たり前」は変化した。よく手を洗うこと、消毒すること、常にマスクを着用し、非着用時は距離を保ち、換気も忘れないこと。そういった「当たり前」をそれ以前の「当たり前」と比較した時、「当たり前が失われた」と言うのだろう。

 

だけど、本当にそうなのか?

「当たり前」は、それほど「当たり前」なのか?

多くの人が「当たり前」と思っていたことと、自分の思う「当たり前」が違うと気づくように、「当たり前」の共有範囲は、思うほど広くないし、万能ではない。そして、今回のように、外的要因によって、まるっと別の「当たり前」に置き換わることだってある。それほど劇的なものでなくても、時代や文化・社会、世代によっても移り変わるだろう。

 

そう考えると、「当たり前が、当たり前じゃなくなった」ことは、むしろ当たり前のことじゃないのか?

それぞれに大切にしたい「当たり前」が違うだけで。むしろこれまで、「当たり前」とか「普通」という暗黙の了解や圧力によって、ある人にとって心地よい「当たり前」を、そうでない人にも押し付けていたなんてことはなかったか。そして今、新しい「当たり前」を、もどかしく思う人にもそれが正しいからと、強要してしまっていたりしないだろうか。よくよく話も聞くことなしに。

 

「当たり前」というのは、いつ何時もそこにあるもので、それだからこそ安心し、信頼し、日々を過ごすことができる。それが人によって違う、こうも簡単に移り変わり得るというのなら、もっと丁寧に扱い、見つめ直した方がいいのかもしれない。

自分にとっての「当たり前」は、あの人にとっても「当たり前」か?

自分の「当たり前」を、誰彼構わず押し付けることが「当たり前」になっていないか?

快くない「当たり前」は、本当に自分が守るべき「当たり前」か?安心、信頼たり得るものか?

もっと、「当たり前」と思うもの、されるものに、意識的にならなくてはいけないんじゃないか。

 
もちろん、「当たり前」が大きく揺らいだということは、安心、信頼できる生活が揺れ動いたということ。見つめ直すなんて、悠長なことは言っていられない。それぞれ、安心、信頼できる「当たり前」を取り戻さなくてはいけないわけだけど、どうかそれが一辺倒なものにならず、複数の「当たり前」が共存することが「当たり前」となりますように。

そして、仕方ないと思っていた「当たり前」だってひっくり返るのだということが世界同時的に共有されたこと、その種々の「当たり前」から遠ざかることができたこと、それによって、とても深く息ができる気がしたこと——ここから何かが変わっていくとしても、この変化自体、しっかりと確かめることのできた自分にとっての「当たり前」があること自体は、忘れずにいたい。

 

 

お題「#この1年の変化

おめでとうのピグマリオン

ある年齢を過ぎると、おめでとうを言うことが増える。結婚とか、出産とか。

大人になると、おめでとうを言われる機会は減る。小さな頃はなんでもがおめでたいけど、大人になるとなんでもが当たり前になるから。

節目節目を通過し尽くしたり、通過しないことを選んだり、選ばざるを得なかったりすると、おめでとうを言う側になる。それ自体は悪くない。誰かの願っていたものが形になって、それに心からおめでとうと言えるのは、ちょっとうれしいくらいだ。

 

問題は、よくわかっていないこと。おめでとうの意味や、おめでとうを言われる人の気持ちがどんなかを。
たとえば転職がうまくいったとか、やっと資格試験に合格したとか、そういうのは自分が願ったものとは違うとしても、ちょっとわかる。ちょっとじゃないな、その大変さがわからないことがすごくわかるから、すごいなと思う。それは間違いなく「よかったね!本当によかった!」の「おめでとう」だ。

だけど、恋人ができたとか、結婚したとか、子どもが生まれるとか、そういうことの「おめでとう」はよくわからない。世間一般によろこばしいこと、慶事だというのはいやというほどわかってる。おめでとうの相手が、それをどれだけ望んでいたかがわかっている場合は、やっぱり「よかったね!」の「おめでとう」。だけど、もやもやしているかもしれないし、望んでいないかもしれないし、それはきっとゴールではないし……なんて色々理屈を並べてはみるけど、結局わたしは、それを「望む」ということ自体がよくわからないから、「(よくわからないけど、きっとうれしいことだよね)おめでとう」になる。

 

相手の表情や文面に気をつけて、おめでとうを言う。うれしい気持ちを損なっていないかな、大げさになりすぎてないかな。おはようとか、ありがとうとか、ごめんねとかみたいに、「あるべき加減」であるのかどうかわからなくて、いつもちょっとどきどきする。さらっと流させる関係なら、全然問題ない。それは他のおめでとうも、挨拶も同じこと。さらっと流せないから、損ないたくない関係やその場の空気だから、迷うのだ。

 

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マウントでも嫌味でもなく、純粋に「結婚したい相手がいたら、こうすると(お互いの意思確認ができて)いいよ」と、結婚を目前にした人に言われた時、素直に「へぇ」と思ったから、「なるほどー」と相槌を打った。だけどそれは不自然だったようで、「なるほどって思ってなさそうだね」と言われたことがある。決して攻撃的ではなく、やさしく、笑いを含んだ感じで。

表情から、よろこんでいるのかどうなのかがわからなかったから、「妊娠してるんだ」に、さらっと「おめでとう」と返した。やっぱり攻撃的ではなく、冗談ぽく「塩反応だね」と笑われた。もともと感情の起伏が乏しいから、それを含めてのことだと思う。いつもの感じだね、くらいの。

 

突発的にやってくる「おめでとう」の時に、わたしは咄嗟に嘘をつく。大事な人たちの大事な節目を、わかっているふりをして、「こんな感じかな」という借り物の自分でお祝いする。そんなの気にしすぎでしょ、そういうことは誰しもあるでしょう、と言われれば「その通りだ」としか言いようがない。

羨ましいのでもない、強がっているのでもない、取り残されたと感じるのでもない。
ただ、わからないから、自分じゃないものになる。自分じゃない自分になって、誰かの「うれしい」かもしれないことを、うれしいように振る舞う。そんな感覚。

 

そんな風に振る舞う程度の関係なんでしょう、と思われるかもしれない。わたしもそう思ったことがある。本当に大切だったら、その場でそう言えばいいんじゃないか。あるいは、とっくにそんな話をすませてるんじゃないかって。

でもたぶん、そういうことじゃない。「大切」が打ち明け話の有無で決まるのなら、わたしは今ある関係性のほとんど全てをなかったこと、「その程度のもの」にしなきゃいけないわけだから。それでも、これからも関係を続けていきたい人には、取り繕うのはやめにしたいなと思う。それは「おめでとう」を言わないということではなくて、わたしはこういうものだと話しておくこと。カミングアウト。

 

だけどそれは、しょっちゅうやってくるわけでもない「おめでとう」の場を取り繕うより、ずっと不自然だ。呼吸に関わる酸素と二酸化炭素みたいに、いちいち考えないくらいの大前提で、その大前提を「今、酸素吸ってるよね」なんて話したりしない。大切とか、大切じゃないとかではなくて。

わたしは、AロマンティックでAセクシャル(他者に恋愛的に、性的に惹かれない)である前にわたしだ。自分がどのあたりにいるのかを知るためには便利な言葉も、いざ自分を表すものとして示そうとすると、がっちり枠組みを作ってしまうような、「そういうことじゃない」感が溢れ出す。

わたしは自分を変だとか、おかしいとか、特別とか、そうじゃなかったらよかったなんてことは少しも思わない。むしろ、これがわたしにとっての普通で、心地よいところで、自分が自分でよかったなと思う。だからこそ、「こんな感じかな」と取り繕う時、誰に頼まれたわけでもないのに、自分で自分を存在しなかったことにしていて、自分で選んでそうしたことに、自分で傷ついている。

 

言わなくても困らないから、言わない。ずっとそう思ってた。でも最近は、もしチャンスがあったら話しておこうと考えるようになった。わたしの「良かれ」が、今のわたしと同じような気持ちを生むのだとしたら、それは今のこの気持ちなんて霞むくらい我慢ならない。

わたしに続く、他の誰かが同じように虚しさを感じなくていいように。偽善的なのは、わかってる。でも、「そういう人もいるんだな」と思った人の数だけ、「そういう人」は存在するようになるかもしれない。この日常の延長線上に。

曇り一つない純粋な「善意」であるからこそ、曖昧に笑うしかないみたいに、わたしの思う「いいはずのこと」が、同じように誰かを傷つけているかもしれないから。ちゃんとした「おめでとう」になっているかどうか迷うことは、わたしにとって最大限の「善」だけど、受け取る人にはそうじゃないことがある。わたしが精一杯伝えたつもりのことでも、「どうしてそっけないんだろう」と相手を落ち着かなくさせることがあるかもしれない。いや、現にそうなっているはず。みんなやさしいから、言わないだけで。「良かれ」と思ってのことにどうしようもなく苦しくなるのと同じに、わたしの「良かれ」も誰かをきっと傷つけている。傷つけないようにと気をつけるということは、互いにその可能性があるということ。だって、そういう立場の違い、大前提が違う同士だから。

大抵の人は、気にしすぎでしょう、考えすぎでしょうと思うことはわかっている。実際、ちょっとお人好しすぎるかもしれない。そこには予め約束された反応への「期待」があるから。

もちろん、そんなことを気にしなくていい関係性の中で生きることも、不可能ではない。でも、さっきも書いたけれど、わたしはAロマでAセクである以前に、そうと知る以前からずっとわたしで、そうであるかどうかで切り捨てられないものの方がたくさんあるのだ。この先のことはわからないけど、今この瞬間は。

ならば、そもそもこの問題も属性云々の話ではなく、関係性やコミュニケーション、「努力」の問題なのではと思われるかもしれない。実際、属性に関係なく、望むものがあり、望まないものがある。誤解が生じかねないので断っておくと、AロマでAセクだからおめでとうが難しいんじゃない。そういう一つの考え方にすぎない。だけど、色々なものが複雑に絡み合っていて、うまく取り出してみせることはできない。「おめでとう」に限らず、「おめでとう」に連なる色々なものが不可解で、それなのに紛れもなく「善」で「やさしい」。そんなものに、すぐ近くにあるのに触れられない遠さとか、ひやっとする冷たいものを突きつけられる。「善」で「やさしい」だけに、たちが悪い。

「住む世界が違う」とか、「価値観が違う」とか、「人と人とはそう簡単に分かり合えないものだ」とか、そういうことで片付けられるならよかった。だけど、そういうことじゃない。そういうものとは違う。それは、日常の安全とか安心の関係と地続きの中にあって、大丈夫だと疑いもしなかったものが、ある瞬間、部分的にひっくり返って、今触れていると思っていた世界が、触れられない層にあると気づくようなことだから。だけどそれは圧倒的な「善」で、触れていると思っていたのも、触れられていないことに気づいているのも、自分だけといった感じの。

それはもう、どうしようもないこと。何十年か先、自分か周りが変わっているかもしれないけど、今は仕方ないこと。理解して欲しいわけでもなく、悲劇のナントカぶりたいのでもなく、なかったことにしてごめん、と自分に言い訳したくて、これを書いた。

とは言え、どうしようもないから、それは誰かにとっての「善」で、やさしさで愛で、だからしょうがないよねとも、もう思えない。それを受け取り、期待に応えるための「努力」がわたし自身を損ない続けるのだとしたら、それを選ばないことを選んでいくしかない。多くの人が認める善で、やさしさで、愛であっても、それは誰かに与えられるべきものではなくて、最初から自分の内にあるものだと思うから。誰かの期待に応えるのも間違ってない。だけど、わたしが一番応えたいのは、わたし自身のわたしへの期待だということ。せめて自分は、自分を存在しないことにしない、という期待。そのことで他の誰かを否定しないという期待と信頼。なかなか難しいんだけどね。今回もなかったことにしてしまったけど、ちゃんとわかってるから。今すぐには難しいけど、きっといつか。

逃げのしあわせ、その先のこと

逃げることでしあわせなら、とことん逃げればいい。逃げのしあわせ、最高じゃん。
そう思っていた。

もし、いいこと、うれしいことが起こる確率が9割、いやなこと、苦しいことが起こる確率が1割だとしても、その1割にどうしてもぶつかりたくなくて、9割のしあわせよりも、1割のいやなことから逃げ切るしあわせを選ぶ。
1割の方を引いてしまう可能性があるのなら、いい方の可能性が9割だろうが、9割9分だろうが、それはちっともいいものには思えないから。

よく考えてみると、すべてがそうだ。
突き詰めていくと、もし生まれる前に選べるとしたら、生まれない方を選ぶ。十分しあわせだけど、それとこれとは別の話で。

いやなことからだけ逃げる。とにかく、そんな発想がなかった。
丸ごとぜんぶから、逃げ切ってしまえばいいって。そういう発想。

 

だけど、何かがおかしいとは思っていた。
どう考えても9割の方を目の前にしているのに、わたしは逃げる。
9割の方かどうか、見極められる自信はないし、おそらく9割だろうと思っても1割の記憶がちらつく。

もし、体内に、「キョウフ」という成分があるのだとしたら、それは血液中のヘモグロビンみたいに酸素と結合して、身体中を駆け巡る。胸のあたりがキュっとなって、手や足の先がジリジリとする。

逃げるということはつまり、その「キョウフ」を察知することだ。逃げる対象を把握することなしに、逃げることは始められない。9割を前にしようが、1割を前にしようが、逃げ続けることを選択している限り、わたしは一生、「キョウフ」を認識し続けることになる。

そのことに気づいて、なんだかそれはおかしい、と今更ながら思った。逃げのしあわせというのは、思っていたほど最強の選択肢ではなかったのだ。

 

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あれこれ調べて、行き当たったYoutubeの人が言っていた。
「何が大丈夫かは、わたしが決めるし、わたしには、Noと言う権利がある」

 

そんなの当たり前でしょ、と思うでしょう。もちろん、それくらいのことはわかっていた。
でも、わかっていたのは、そういうことじゃなかった。

 

問題は、どこに緑の枠が付いているか、だ。

よく使うようになったオンライン会議システムは、話している人に緑の枠が付くようになっている。誰かが喋るのに合わせて、緑の枠は、行ったり来たりを繰り返す。

そんなものが、日常にもあるのだとすれば、わたしはたぶん、緑の枠の外にいた。カメラだけオンにして、音声はミュートにして、にこにこしてる。自分でミュートを外して、緑の枠を表示させることができるのに、できることはわかっているのに、敢えてそうしない。それどころか、いつでもカメラもオフにできるように、あるいは存在自体をログオフできるように、スタンバイしてる。そういうこと。

双方向のコミュニケーションが成立しているのなら、緑の枠は、等しくそれぞれの人の画面をまわっていく。それが、あるべき姿だ。

だけど、それが成り立たないことがたまにある。たとえば、緑の枠の行き来が、一人の人の手に委ねられるとか。そんな時、すべてをミュートにする、あるいはその場から何も言わずに退出するのも一つの手。ただしそれは、緑の枠が巡らないことを、認めるのと同じだ。持っているはずの権利を、自分の手でなかったことにすること。永遠に。

 

いやなことにはいやと言えばいい。そんなの間違ってると。

逃げるなら、そうやって逃げるべきだった。自分の存在を初めからなかったことにするのは、自分のことを守っているようで、自分で自分を追い込み、傷つけている。逃げることを選んだつもりでいるだけで、初めから、逃げるという主体性すら持つことを許されていない。自分で、選んだわけではなくて、選ぶことを放棄した結果が「逃げる」なのだ。

本当は、立ち去るべきだった。それは大丈夫じゃない、それはいやだ。そう言って、その場を後にすること。それは「逃げる」と同じように見えて全然違う。それは自分にとっていいものじゃない、あなたにとってすばらしいものだとしても、わたしにとってはそうじゃない。そうやって、くっきりと線を引く。それは、逃げるのではなく、ふさわしくない扉を閉じること。安全な世界を選んで、そこにい続けること。

 

逃げれば勝ちだと、逃げ続ければしあわせだと、本気で思っていた。そんなブログ記事の下書きもある。

一時的に逃げる、避難することはとても大切だ。でも、それをずっと、永遠に続けることなんてできない。正直それは、とてもしんどい。

逃げることのひずみは、次第に逃げようとしていないものにまで及んでくる。すべてのつじつまを合わせるために、関係のないしあわせまでもが侵食されていく。それが進みに進んで、初めて気づくのだ。

逃げ続けることは、正解じゃない。

 

そろそろ、その先に行かないといけない。
先のYoutubeの人も言っていた。最初の段階は、あなたに非はない、逃げ切るべきだと。でも、逃げ切って、安全地帯にたどり着いたら、そこから先はあなたに責任がある、と。わたしには、わたしを変える責任がある。それは、逃げ続けることをやめて、逃げ続けなくてもいい、まったく別の世界、別のステージに行くという責任だろう。

 

いやなことだけを、取り除いていけばいい。何もかも、大雑把にまとめていくのではなくて。
いいと思うものだけを、手元に残していけばいい。

簡単なことなのに、気づかなかったし、簡単なようで、すごく難しいことだった。
選ぶというのは、逃げではない。逃げる以上の効果がある。安全、安心がある。

一度選んでしまえば、一つの扉が閉じて、別の扉の世界に入っていける。その扉は強固で、次に同じような扉が出現しない限り守られているし、選び方を覚え、正しく選ぶことができていれば、同じような扉に出会うことすらなくなっていく。安全な場所を選ぶ限り、安全な世界はちゃんと存在する。

 

「大きなハグを」

と画面の向こうで、Youtubeの人が微笑んでいる。正しい方に来たのだな、とほっとする。