ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

おめでとうのピグマリオン

ある年齢を過ぎると、おめでとうを言うことが増える。結婚とか、出産とか。

大人になると、おめでとうを言われる機会は減る。小さな頃はなんでもがおめでたいけど、大人になるとなんでもが当たり前になるから。

節目節目を通過し尽くしたり、通過しないことを選んだり、選ばざるを得なかったりすると、おめでとうを言う側になる。それ自体は悪くない。誰かの願っていたものが形になって、それに心からおめでとうと言えるのは、ちょっとうれしいくらいだ。

 

問題は、よくわかっていないこと。おめでとうの意味や、おめでとうを言われる人の気持ちがどんなかを。
たとえば転職がうまくいったとか、やっと資格試験に合格したとか、そういうのは自分が願ったものとは違うとしても、ちょっとわかる。ちょっとじゃないな、その大変さがわからないことがすごくわかるから、すごいなと思う。それは間違いなく「よかったね!本当によかった!」の「おめでとう」だ。

だけど、恋人ができたとか、結婚したとか、子どもが生まれるとか、そういうことの「おめでとう」はよくわからない。世間一般によろこばしいこと、慶事だというのはいやというほどわかってる。おめでとうの相手が、それをどれだけ望んでいたかがわかっている場合は、やっぱり「よかったね!」の「おめでとう」。だけど、もやもやしているかもしれないし、望んでいないかもしれないし、それはきっとゴールではないし……なんて色々理屈を並べてはみるけど、結局わたしは、それを「望む」ということ自体がよくわからないから、「(よくわからないけど、きっとうれしいことだよね)おめでとう」になる。

 

相手の表情や文面に気をつけて、おめでとうを言う。うれしい気持ちを損なっていないかな、大げさになりすぎてないかな。おはようとか、ありがとうとか、ごめんねとかみたいに、「あるべき加減」であるのかどうかわからなくて、いつもちょっとどきどきする。さらっと流させる関係なら、全然問題ない。それは他のおめでとうも、挨拶も同じこと。さらっと流せないから、損ないたくない関係やその場の空気だから、迷うのだ。

 

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マウントでも嫌味でもなく、純粋に「結婚したい相手がいたら、こうすると(お互いの意思確認ができて)いいよ」と、結婚を目前にした人に言われた時、素直に「へぇ」と思ったから、「なるほどー」と相槌を打った。だけどそれは不自然だったようで、「なるほどって思ってなさそうだね」と言われたことがある。決して攻撃的ではなく、やさしく、笑いを含んだ感じで。

表情から、よろこんでいるのかどうなのかがわからなかったから、「妊娠してるんだ」に、さらっと「おめでとう」と返した。やっぱり攻撃的ではなく、冗談ぽく「塩反応だね」と笑われた。もともと感情の起伏が乏しいから、それを含めてのことだと思う。いつもの感じだね、くらいの。

 

突発的にやってくる「おめでとう」の時に、わたしは咄嗟に嘘をつく。大事な人たちの大事な節目を、わかっているふりをして、「こんな感じかな」という借り物の自分でお祝いする。そんなの気にしすぎでしょ、そういうことは誰しもあるでしょう、と言われれば「その通りだ」としか言いようがない。

羨ましいのでもない、強がっているのでもない、取り残されたと感じるのでもない。
ただ、わからないから、自分じゃないものになる。自分じゃない自分になって、誰かの「うれしい」かもしれないことを、うれしいように振る舞う。そんな感覚。

 

そんな風に振る舞う程度の関係なんでしょう、と思われるかもしれない。わたしもそう思ったことがある。本当に大切だったら、その場でそう言えばいいんじゃないか。あるいは、とっくにそんな話をすませてるんじゃないかって。

でもたぶん、そういうことじゃない。「大切」が打ち明け話の有無で決まるのなら、わたしは今ある関係性のほとんど全てをなかったこと、「その程度のもの」にしなきゃいけないわけだから。それでも、これからも関係を続けていきたい人には、取り繕うのはやめにしたいなと思う。それは「おめでとう」を言わないということではなくて、わたしはこういうものだと話しておくこと。カミングアウト。

 

だけどそれは、しょっちゅうやってくるわけでもない「おめでとう」の場を取り繕うより、ずっと不自然だ。呼吸に関わる酸素と二酸化炭素みたいに、いちいち考えないくらいの大前提で、その大前提を「今、酸素吸ってるよね」なんて話したりしない。大切とか、大切じゃないとかではなくて。

わたしは、AロマンティックでAセクシャル(他者に恋愛的に、性的に惹かれない)である前にわたしだ。自分がどのあたりにいるのかを知るためには便利な言葉も、いざ自分を表すものとして示そうとすると、がっちり枠組みを作ってしまうような、「そういうことじゃない」感が溢れ出す。

わたしは自分を変だとか、おかしいとか、特別とか、そうじゃなかったらよかったなんてことは少しも思わない。むしろ、これがわたしにとっての普通で、心地よいところで、自分が自分でよかったなと思う。だからこそ、「こんな感じかな」と取り繕う時、誰に頼まれたわけでもないのに、自分で自分を存在しなかったことにしていて、自分で選んでそうしたことに、自分で傷ついている。

 

言わなくても困らないから、言わない。ずっとそう思ってた。でも最近は、もしチャンスがあったら話しておこうと考えるようになった。わたしの「良かれ」が、今のわたしと同じような気持ちを生むのだとしたら、それは今のこの気持ちなんて霞むくらい我慢ならない。

わたしに続く、他の誰かが同じように虚しさを感じなくていいように。偽善的なのは、わかってる。でも、「そういう人もいるんだな」と思った人の数だけ、「そういう人」は存在するようになるかもしれない。この日常の延長線上に。

曇り一つない純粋な「善意」であるからこそ、曖昧に笑うしかないみたいに、わたしの思う「いいはずのこと」が、同じように誰かを傷つけているかもしれないから。ちゃんとした「おめでとう」になっているかどうか迷うことは、わたしにとって最大限の「善」だけど、受け取る人にはそうじゃないことがある。わたしが精一杯伝えたつもりのことでも、「どうしてそっけないんだろう」と相手を落ち着かなくさせることがあるかもしれない。いや、現にそうなっているはず。みんなやさしいから、言わないだけで。「良かれ」と思ってのことにどうしようもなく苦しくなるのと同じに、わたしの「良かれ」も誰かをきっと傷つけている。傷つけないようにと気をつけるということは、互いにその可能性があるということ。だって、そういう立場の違い、大前提が違う同士だから。

大抵の人は、気にしすぎでしょう、考えすぎでしょうと思うことはわかっている。実際、ちょっとお人好しすぎるかもしれない。そこには予め約束された反応への「期待」があるから。

もちろん、そんなことを気にしなくていい関係性の中で生きることも、不可能ではない。でも、さっきも書いたけれど、わたしはAロマでAセクである以前に、そうと知る以前からずっとわたしで、そうであるかどうかで切り捨てられないものの方がたくさんあるのだ。この先のことはわからないけど、今この瞬間は。

ならば、そもそもこの問題も属性云々の話ではなく、関係性やコミュニケーション、「努力」の問題なのではと思われるかもしれない。実際、属性に関係なく、望むものがあり、望まないものがある。誤解が生じかねないので断っておくと、AロマでAセクだからおめでとうが難しいんじゃない。そういう一つの考え方にすぎない。だけど、色々なものが複雑に絡み合っていて、うまく取り出してみせることはできない。「おめでとう」に限らず、「おめでとう」に連なる色々なものが不可解で、それなのに紛れもなく「善」で「やさしい」。そんなものに、すぐ近くにあるのに触れられない遠さとか、ひやっとする冷たいものを突きつけられる。「善」で「やさしい」だけに、たちが悪い。

「住む世界が違う」とか、「価値観が違う」とか、「人と人とはそう簡単に分かり合えないものだ」とか、そういうことで片付けられるならよかった。だけど、そういうことじゃない。そういうものとは違う。それは、日常の安全とか安心の関係と地続きの中にあって、大丈夫だと疑いもしなかったものが、ある瞬間、部分的にひっくり返って、今触れていると思っていた世界が、触れられない層にあると気づくようなことだから。だけどそれは圧倒的な「善」で、触れていると思っていたのも、触れられていないことに気づいているのも、自分だけといった感じの。

それはもう、どうしようもないこと。何十年か先、自分か周りが変わっているかもしれないけど、今は仕方ないこと。理解して欲しいわけでもなく、悲劇のナントカぶりたいのでもなく、なかったことにしてごめん、と自分に言い訳したくて、これを書いた。

とは言え、どうしようもないから、それは誰かにとっての「善」で、やさしさで愛で、だからしょうがないよねとも、もう思えない。それを受け取り、期待に応えるための「努力」がわたし自身を損ない続けるのだとしたら、それを選ばないことを選んでいくしかない。多くの人が認める善で、やさしさで、愛であっても、それは誰かに与えられるべきものではなくて、最初から自分の内にあるものだと思うから。誰かの期待に応えるのも間違ってない。だけど、わたしが一番応えたいのは、わたし自身のわたしへの期待だということ。せめて自分は、自分を存在しないことにしない、という期待。そのことで他の誰かを否定しないという期待と信頼。なかなか難しいんだけどね。今回もなかったことにしてしまったけど、ちゃんとわかってるから。今すぐには難しいけど、きっといつか。

逃げのしあわせ、その先のこと

逃げることでしあわせなら、とことん逃げればいい。逃げのしあわせ、最高じゃん。
そう思っていた。

もし、いいこと、うれしいことが起こる確率が9割、いやなこと、苦しいことが起こる確率が1割だとしても、その1割にどうしてもぶつかりたくなくて、9割のしあわせよりも、1割のいやなことから逃げ切るしあわせを選ぶ。
1割の方を引いてしまう可能性があるのなら、いい方の可能性が9割だろうが、9割9分だろうが、それはちっともいいものには思えないから。

よく考えてみると、すべてがそうだ。
突き詰めていくと、もし生まれる前に選べるとしたら、生まれない方を選ぶ。十分しあわせだけど、それとこれとは別の話で。

いやなことからだけ逃げる。とにかく、そんな発想がなかった。
丸ごとぜんぶから、逃げ切ってしまえばいいって。そういう発想。

 

だけど、何かがおかしいとは思っていた。
どう考えても9割の方を目の前にしているのに、わたしは逃げる。
9割の方かどうか、見極められる自信はないし、おそらく9割だろうと思っても1割の記憶がちらつく。

もし、体内に、「キョウフ」という成分があるのだとしたら、それは血液中のヘモグロビンみたいに酸素と結合して、身体中を駆け巡る。胸のあたりがキュっとなって、手や足の先がジリジリとする。

逃げるということはつまり、その「キョウフ」を察知することだ。逃げる対象を把握することなしに、逃げることは始められない。9割を前にしようが、1割を前にしようが、逃げ続けることを選択している限り、わたしは一生、「キョウフ」を認識し続けることになる。

そのことに気づいて、なんだかそれはおかしい、と今更ながら思った。逃げのしあわせというのは、思っていたほど最強の選択肢ではなかったのだ。

 

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あれこれ調べて、行き当たったYoutubeの人が言っていた。
「何が大丈夫かは、わたしが決めるし、わたしには、Noと言う権利がある」

 

そんなの当たり前でしょ、と思うでしょう。もちろん、それくらいのことはわかっていた。
でも、わかっていたのは、そういうことじゃなかった。

 

問題は、どこに緑の枠が付いているか、だ。

よく使うようになったオンライン会議システムは、話している人に緑の枠が付くようになっている。誰かが喋るのに合わせて、緑の枠は、行ったり来たりを繰り返す。

そんなものが、日常にもあるのだとすれば、わたしはたぶん、緑の枠の外にいた。カメラだけオンにして、音声はミュートにして、にこにこしてる。自分でミュートを外して、緑の枠を表示させることができるのに、できることはわかっているのに、敢えてそうしない。それどころか、いつでもカメラもオフにできるように、あるいは存在自体をログオフできるように、スタンバイしてる。そういうこと。

双方向のコミュニケーションが成立しているのなら、緑の枠は、等しくそれぞれの人の画面をまわっていく。それが、あるべき姿だ。

だけど、それが成り立たないことがたまにある。たとえば、緑の枠の行き来が、一人の人の手に委ねられるとか。そんな時、すべてをミュートにする、あるいはその場から何も言わずに退出するのも一つの手。ただしそれは、緑の枠が巡らないことを、認めるのと同じだ。持っているはずの権利を、自分の手でなかったことにすること。永遠に。

 

いやなことにはいやと言えばいい。そんなの間違ってると。

逃げるなら、そうやって逃げるべきだった。自分の存在を初めからなかったことにするのは、自分のことを守っているようで、自分で自分を追い込み、傷つけている。逃げることを選んだつもりでいるだけで、初めから、逃げるという主体性すら持つことを許されていない。自分で、選んだわけではなくて、選ぶことを放棄した結果が「逃げる」なのだ。

本当は、立ち去るべきだった。それは大丈夫じゃない、それはいやだ。そう言って、その場を後にすること。それは「逃げる」と同じように見えて全然違う。それは自分にとっていいものじゃない、あなたにとってすばらしいものだとしても、わたしにとってはそうじゃない。そうやって、くっきりと線を引く。それは、逃げるのではなく、ふさわしくない扉を閉じること。安全な世界を選んで、そこにい続けること。

 

逃げれば勝ちだと、逃げ続ければしあわせだと、本気で思っていた。そんなブログ記事の下書きもある。

一時的に逃げる、避難することはとても大切だ。でも、それをずっと、永遠に続けることなんてできない。正直それは、とてもしんどい。

逃げることのひずみは、次第に逃げようとしていないものにまで及んでくる。すべてのつじつまを合わせるために、関係のないしあわせまでもが侵食されていく。それが進みに進んで、初めて気づくのだ。

逃げ続けることは、正解じゃない。

 

そろそろ、その先に行かないといけない。
先のYoutubeの人も言っていた。最初の段階は、あなたに非はない、逃げ切るべきだと。でも、逃げ切って、安全地帯にたどり着いたら、そこから先はあなたに責任がある、と。わたしには、わたしを変える責任がある。それは、逃げ続けることをやめて、逃げ続けなくてもいい、まったく別の世界、別のステージに行くという責任だろう。

 

いやなことだけを、取り除いていけばいい。何もかも、大雑把にまとめていくのではなくて。
いいと思うものだけを、手元に残していけばいい。

簡単なことなのに、気づかなかったし、簡単なようで、すごく難しいことだった。
選ぶというのは、逃げではない。逃げる以上の効果がある。安全、安心がある。

一度選んでしまえば、一つの扉が閉じて、別の扉の世界に入っていける。その扉は強固で、次に同じような扉が出現しない限り守られているし、選び方を覚え、正しく選ぶことができていれば、同じような扉に出会うことすらなくなっていく。安全な場所を選ぶ限り、安全な世界はちゃんと存在する。

 

「大きなハグを」

と画面の向こうで、Youtubeの人が微笑んでいる。正しい方に来たのだな、とほっとする。

マイノリティを名乗りたいわけではない、だけどそれでも

マイノリティ、特にセクシュアリティに関する記事が出たり、訴訟があったり、運動があったりすると、「好きにすればいい」、「自由じゃないか」、「そんなに細分化/カテゴライズしたいのか」なんて言葉が、定型句のようにコメント欄に並んでいたりする。ネットでの発言は偏りがあるというのはわかっているし、その偏りについておおよそ想像はつくけど、「ふつう」はどんな風に受け止めるんだろうと、つい見てしまう。

そうか、と思う。
偏っているにしても、そこにある空気感と、日々境界をなくそう(ごまかそう)と意識している空気感とは、そんなに違わないのかもしれない。

「色んな人がいる」、「違って当たり前」、「自由にすればいい」——それは、その通りなのだ。そう思う人たちはある意味寛容で、だからこそ、ときどきポコッと湧き上がるこの手の話題にうんざりなのだろう。わかる。
「わざわざそんな、分けたらきりがないことを言わなくても」、「なんでも自由でないと気が済まないんだね」、「他人の嗜好(or指向)とか、聞きたくもない」という率直なもの(嗜好の話じゃないんだけどな…)も多い。その通りだろう。わかる。

わかる。
だって、「ふつう」に対して、似たようなことを思っていたから。
同じなのだ。

「「ふつう」はそういうものなんだろう」
「それぞれ違う(自分は自分)」
「誰が誰と付き合ってる/結婚したとか聞いても…」
少数派が多数派にそう思うのと、多数派の人が少数派に対してそう思うのと、何が違うのか。線引きして、そちらはそちら、こちらはこちらで済まそうとしている点では、どちらも結局同じこと。だから、そういうことをやってるわけではない。わざわざ、ちょっと音量大きめに物申す時は。

 

じゃあ、なんなのか。
どんな話をしているのか。しようとしているのか。

 

セクシュアリティに限らず、一人一人に色んな性質があって、その中にはメジャーなものも、そうでないものも、色々ある。それらが全部組み合わさっての「自分」なので、「自分」と同じ人にそうそう出会えないことも、出会えなさそうに見えて、思いがけないところでばったり、なんてこともある。つまり、圧倒的に「違う」という隔たりがデフォルトでありながら、それと矛盾しない形で、何か大きなものの一部でもあるということ。全員がバラバラというのでも、バラバラの中で小さな集団がいくつも形成されているのでもなく、バラバラでありながら、全体。それが自然なように思えるし、たぶん理想。

じゃあ、「自由なんだから、好きにしたらいい」は、どうなのか。
違いがあるということが認識、あるいはある程度許容されているという意味では、バラバラ。だけどそれは、たぶんずっと、バラバラなまま。「好きにしてたらいいよ、こちらも好きにするからね」、たぶんそういうこと。そんなバラバラは、似た者同士でくっついていく。一つ一つはバラバラなはずなんだけど、気づけばいつしか、大きな塊ができていて、そこに背を向けるか、その大きな塊の中の「バラバラ」のどこか近いところと「似た者同士」になって、くっついて、「全体」になる。圧倒的な数の差がある中での「好きにしたらいいよ」は、つまり、そういうこと。

 

別にそれが、いいとか悪いとかそういうんじゃない。
主張するとか、認めて欲しいとか、理解して欲しいとかそういうんでもない。
「〜して欲しい」とか、違いを表明することを目指す時点で、それは「バラバラ」を、つまりは隔たりを作って、分裂して、かろうじてある偽物の「全体」を解体していくということでしかない。それは、大きな群れから離れ、孤立し、「自由」に一人でやっていきますよ、ということで、非力な勢力には、はじめから結果のわかった負け戦で、そんなものを目指すほど純粋でも、孤高でも、志高くもないし、ましてやそこまで自惚れてもいないし、馬鹿でもない。

 

その真逆で、闘いたくないのだ。
だから、白旗だと思ってくれていい。いや、闘ってるんですよ、邪魔しないでください、という人もいるかもしれないので、「わたしは」と言っておいた方がいいかもしれないけど。「わたしは」、もし、「自分はこうなのだ」と言うことがあるとするなら、それは降参するため。もう「全体」にくっついているのは疲れて、とても自分の両腕じゃしがみついていれなくなったから、この手をいったん離すよ、ということ。それは、負けとか、助けて欲しいとか、そんなことではなくて、なんかもう、「それしかなかった」、そういう感じなんじゃないか。違ったら、ごめん。

 

 

言葉を知らない時の方が自由で、あれこれ考えなくて済んでいたんじゃないか。そんな気がして、カテゴリーとか、関連するネットツールから離れてみた。奇しくもソーシャル・ディスタンスなご時世で、小さな集団のみならず、まるっと大きな世界からも離れることができた。爽快で、自分というものが小高い山の上の小さな小屋に住まう者だとしたら、突如全ての窓が開いて、心地よい風と綺麗な景色が飛び込んできたような開放感で、たぶん、生きてきて一番幸せな時間だったと思う。

まず「全体」ありきではなくて、まず自分がいる。外との境界はなくて、自分丸ごとが世界。世界の中に自分がいる。ちょっと話が大きくなりすぎたけど、要は、いかに無意識にがんばっていたかということだ。自分じゃなくて「自分」を。うまくいかないなんて思っていた「自分」は、よくがんばってた自分だったんだなと思った。

大なり小なり、みんなそうだ、と言われればその通り。社会というのは、ある決まりごとに法ってやっていかないと成立しないわけで、その決まりごとは最大公約数よりも賛成多数である方がいい。うまくいく。だから、それに適合しない場合はしょうがないし、でもそれだとあんまりだから、倫理的・道徳的に解決されたりする。運がよければ。

だから、「しょうがない」というのは、ある程度みんな思っている。東からのぼる太陽に西からのぼれとは言わないし、東からのぼるのならわたしが東に行きましょう、そういうこと。初めから東に住まう人にとっては、「そんなの当たり前」かもしれない。だって、太陽は東からしかのぼりようがないんだし。でも、そうでない世界もある。それは、月とか火星とか別の銀河系とか、よくわからないけど、そういう次元のことではなくて、同じ地球でのお話。最初から東にいる人は「好きにしたらいいよ」、と言う。それなら、わたしも、はじめから東にいたかった。西から東に、走るんじゃなくて。

「みんなそういうもの」だとしたら、言えるだろうか。
「みんなそういうものだから、我慢しろ」
「みんなそういうものなのに、最近はやたら自由を求めちゃって」
「みんなそういうものだけど、どうしてわざわざ?」
みんなそういうものだから、わたしの知らない「そういうもの」が、どれだけたくさん、この世界にあるのだろうとわたしは思う。時々飛び込んでくる、わたしとは違う「そういうもの」にちょっと居心地が悪くなって、どう捉えればいいのかわからなくなって、でも誰かにとって「そういうもの」が当たり前にあって、わたしには理解できそうもないことが、この世界には到底知り尽くせそうもないくらいにあるのだと、「そういうもの」を自分の世界の片隅に置いてみたりする。好きになったり、仲良くなったりできないかも知れないけど、「そういうもの」で世界はできていることに、ときどき思いを馳せられるように。

そういう、想像力。
たぶん、全然足りてない。

 

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補う方法は、いくつかある。

「全体」を気にせず、自由に生きる。カテゴリーに縛られず、自分として生きていく。自分の中で、全体を作り変えていく。これが挑んでみているところで、わたしにとっての理想。だけど、「全体」にしがみつくのと同じか、それ以上に労力がいる。「自由にすれば」と言われても、そう簡単なことではない。自分の言葉で、自分のコミュニティーに通じるように翻訳しながら、コミュニケーションを繰り返していく必要がある。たとえば、母語は日本語なのに、気づけば周りはベンガル語話者で、Google翻訳やら、文明の利器を駆使しながら、なんとかそれらしく話している感がある。頷いているから、通じているんだろう、そんな感じ。それでも自分で話そうとするし、わからなければわからないと言う。そこが、「全体」にしがみつくのと違うところ。自分の圧倒的弱さを認めるところから、晒すところから、スタート。

ひとりでできることは知れているので、少数のみんなも一緒に、ということであれば、もっと違う方法が必要になる。逐語訳的にコミュニケーションを、というのは、誰もが気力と意欲を持ち続けられなくて当然だし、誰かひとりが自由になれても、それはその人が幸運だったとしか言いようがない再現性の低いものなので。
手っ取り早いのは、狼煙を上げることだろう。ここにいるよ、ここにいますよ、と。それは、はぐれてしまった誰かに送る合図であり、別の集団に送るメッセージでもある。少しだけ、インパクトがある。だけど、「何かやってるな」で終わる可能性の方が高いだろう。ちょっと近づけば、白旗を上げているのが見えるかもしれないんだけど、そこは行きます、こちらから。でも、そこまでしても、結局違いを作り出して、隔たりを生み出して、「何かやってるな」と思われておしまいならいい方で、ご丁寧に「そんな無駄なこと」がもれなくセットで。

そういう、八方塞がりな状態なのだ。どうあがいても、がんばっても。
がんばっても、がんばらなくても。
でもなんか、たぶん限界なのだ。「自由だよ」、「違うものだよ」、「いいじゃん、それでも」——そういうことじゃない。許可も認証も求めていない。ただもう、そこから降りたいのだ。そして、「違って当たり前だよ」と言えるくらいに、「当たり前」に浸ってみたりしたいのかも。当然のことだけど、それは息をするみたいに自然で、くつろげて、最高だから。

じゃあ、どうすればいいのか。どうしたいのか。どうして欲しいのか。
それは、わからない。ずっと考えているんだけど。途方もないことのように、どうしようもないことのように思う。
だけど、それは少しずつ、時間をかけて広まっていくものであることも確かで。人種とか、年齢とか、性別とか。自分ではどうしようもないことが、自分以外のところから変わっていく。だから、その最初の一歩くらいに思って、「おー」とか、「なんだこれは?」とか、見たこともないものを驚いて見るくらいでいいんじゃないか。ジャッジしないで。許可を与えようかどうしようかとか、考えないで。マインドフルネスに、受けて流して、通過していくものとして。そうすればとりあえず、壁は作られない。余裕があれば、驚きの世界のことを想像してみたりして。
ちょっと居心地悪いのは、お互いさまだ。

 

声を上げずに済むなら、カテゴライズせずに済むなら、それが一番いい。でも、ひとりではどうしようもなくなったから、そういうものがあるのだと思う。いずれなくなるかもしれないし、そうなるのが理想だけど。
喧嘩しようとしてるのでもない、主張したいのでも権利がどうのこうのというのでもない(あるとすれば、それは本当にその権利があるからで)、理解して欲しいのでも、認めて欲しいのでもない。自分一人が、このカテゴリーが、この性質が、というのでもなくて、たぶん根っこにあるのは、結局のところは、「もっとみんなが生きやすいように」だと思うのだ。「なんかまた言ってる」と思ったら、「きっと、もっといい世界にしたいんだな」と平和な気持ちで拡大解釈していただけたら理想だなと思うけど、それすら高望みしすぎだということは、十分よくわかっている。

Aロマンティックな自分がすきだ

無敵じゃん、と思っていた。
Aロマンティック(他者に恋愛感情を抱いたことがない)みたいだけど、恋人やパートナーが欲しいわけでもなければ、結婚・出産・育児願望があるわけでもないし、恋愛沙汰に巻き込まれる可能性も極めて低い。

要するに、「自分はAロマンティックなんだろうな」と思いながら、そのことを意識せずにいられる特殊な条件下にいたということ。真空状態でのみ成り立つ実験結果、みたいな感じで。

自分が望みさえすれば、たぶんずっと、そのままでいられる。
でもそれは、Aロマンティックとして生きている、というのとはちょっとちがう。
自動的に何かを意識しないでいられるのと、何かを自分の意思で選択してそうあるのとは、無計画にだらだらしてしまった!と後悔するのと、意識的にくつろいでリフレッシュできた!と満足するのと同じくらいちがうことだと思う。
もちろん、どちらがいいとか、悪いとか、そういうんじゃなくて。

 

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わたしはAロマンティックなんだなと気づいて以来、それでいいじゃん、と思ってきた。
だけど、ときどき、それで本当にいいと思ってる?なんて自分が自分に聞いてくる。
それってさ、逃げじゃないの?なんて。

結論から言えば、逃げだっていいじゃん、だ。
でもたぶん、自分が自分に聞いているのは、そういうことじゃない。

「自分はAロマンティックだから」で説明できないことは、たくさんある。「Aロマンティックだから」で説明できることより、ずっと多く。

そんな「たくさん」のことも、「Aロマンティックだから」で都合よく、線引きしちゃってないだろうか、そういう感じのこと。
もっと言うなら、「Aロマンティックだから」と言って、自分で狭めてしまっている可能性があるんじゃないか、ということになるかな。

 

そんなもやもやがあったからなのか、単なる好奇心なのか、それとも気分が良く外向きな気持ちになっていたからなのか…自分でもよくわからないけど、普段なら一刀両断しそうな話にOKを出していた。

友人が異性を紹介してくれて(まったく頼んでいなかった)、「友達作り感覚でいいから」を7.5割くらい本気にして、とりあえずやり取りをすることになったのだ。

もちろん、後からとても後悔した。
大したやり取りもしていないのに、食欲は一気になくなり、体重は激減した。 

解決方法は簡単だ。適当な理由をつけてやめてしまえばいいのだ。
そんなにストレスになっていて、その結果が明らかにわかっているのなら、どう考えたって、そうしたほうがいい。
でもそれは、嫌な記憶を一つ増やすだけのような気もした。本当に自分ではどうしようもないことなら、逃げてしまった方が絶対いい。だけど、これは、自分で勝手に思い込んで嫌になっているものなんじゃないか、そんな考えも浮かんだ。

 

何がそんなにも苦痛なのか。
異性として見られること/振舞うこと。
恋愛を意識しなければいけなさそうなこと、だけど自分は、どれだけ時間をかけてもそんな風には考えられなさそうなこと。
忘れたと思っていたはるかかなたの記憶が、関連づけられてしまうこと。
こんな感じ。

 どうしたものかと悩んでいたとき、しばらく追えていなかったTwitterのタイムラインに目を通した。
びっくりするくらい、気分の悪さが消えて、なんの根拠もなく「やっぱりここなんだな」という気がした。

とりあえずやり取りがひと段落した途端、身体中の力が抜けて、眠くなって、とてもお腹が空いた。

それで、ちょっとわかったのだ。
わたしはたぶん、Aロマンティックじゃない自分になろうとしていた。自分で勝手に決めつけて。
異性として見られることはあるかもしれないし、ないかもしれないけど、とりあえず自分が異性として振舞わなきゃいけないなんて、そんな必要ないのに。
誰かが恋愛を意識したとして、自分も意識しなきゃいけないなんて、そんなはずあるわけないじゃん。
何かに似ているからって、同じなわけないよ。

 

「このシチュエーションは、こういうものだ」
そんな「暗黙の了解」みたいなものは、あちこちにある。
いろんなことを省略できて、物事はスムーズに進む。
でもそれは、絶対じゃない。その通りなんて保証はないし、その通りじゃなきゃいけないわけでもない。うわべだけで、記号的に進めなきゃいけないものでないなら、なおさら。

 

身体中の力が抜けたとき、自分に戻ったような感じがした。
ひとりでも楽しくて、リラックスできて、うれしい感じが満ちてくる。
わたしはしょうがなくそうしてきたのではなくて、こんな状態が、こんな自分が、すきだったんだ、と思った。

はじめからわかっていたんだけど、わたしは、わたし以外のものになんてなれない。
もちろん、自分の立場や置かれた環境によって、それらしき自分を使い分ける必要はある。
だけど、自分で選んだことの中でくらい、嘘をつかなくたっていいと思うのだ。

 

だから、今まで通りに戻るのはやめにした。
今まで通り、というのは、自分に向かないなと思うものを、積極的に避けていくこと。そして、1対1の親しい関係の中で、嘘をつき続けることも。

人生から恋愛に発展しそうな事柄を排除する、ということは、実は恋愛に発展しない有意義なコミュニケーションや関係性も「恋愛につながるかも」と決めつけて、取り除くことと同じような気がする。
たとえその予測の方が圧倒的に正しいのだとしても、その「決めつけ」は、わたしの考えではない。
長い時間の中で、多くの人が「そういうものだ」と共有してきたことに合わせようとているだけ。なんで「そういうもの」なのか、考えもせずに。

だからといって、「Aロマンティックです」なんて、説明してまわる必要もない。
わかったふりして、笑っていなくてもいい。
わたしが思うまま、仲良くしたいのならすればいいし、わからないことはわからないと言えばいいのだ。
結局、人と人が向き合っている。恋愛する人としない人ではなくて。
だから、自分の思うままにとはいかないだろうけど、話せるなら、話せばいい。どう考えているのか、何を悩んでいるのか。

そんなに簡単ではないことは、わかっている。
でも、自分に嘘をつくより、「まだ出会ってないだけ」と同じように「恋愛はこうだから」と決めつけるより、気持ちは軽くなるんじゃないか。

わたしは、ロマンティックな要素のない人生が、なかなかすきみたいだから、せめてそれを、自分自身で塗りつぶしてしまわないようにしようと思う。

誰かのしあわせがうれしい、というのはうれしい

金曜日の夕方に、誰かにとっての「いい知らせ」が聞けるとうれしい。ほっこりとした気分で家路について、ほくほくとにやつきながら、夕食とお風呂を済ませることができる。そんな気持ち、わかるでしょうか。

何をいい人ぶって、なんて言いたくなる気持ちはわからなくもない。文字にしてみるときれいすぎて、うそっぽい。だけど、ご安心を。誰かの「いい知らせ」は心からよろこびましょうね、そうすべき、なんて微塵も思っていないから。

だけどあるでしょう、どうしようもない気持ち、理屈では説明できないけれど湧き上がる感情というの?それと同じで、自分でもなぜかわからないけどうれしい。自分のときの「いい知らせ」より。自分でもちょっと戸惑う。

どうしてだろう。自分にとっての「いい知らせ」がこれまでなかったとは言わない。言わないけれど、感情の揺れ動きからすれば、自分事の方が他人事みたいだ。客観的に「これはいいことだ」というのはわかる。だけど、それについてうれしいとか、ほっこりとほくほくした気持ちのまま週末を迎えるなんてことは、できない逆立ちを成功させるより起こりえない気がする。

ずいぶんと大人になって「実はサンタクロースは実在したことが判明した」と聞いてほくほくするようなものかもしれない。「いや、そんなのどうだっていいでしょう」と鼻で笑っちゃう大人がほとんどで、そのほとんどの大人の数よりも、「そんなの」に目もくれないし、気づきもしない人の方がずっと多いにちがいないけど、でもたぶんそんな感じ。

子どもはちょっとそわそわするだろう。「うっそだぁ」なんてかっこつけながら、内心どきどきするにちがいない。「うちにも来たりして、なぁんてね…」と想像してみたりして、うれしそう。もし、そのそわそわな子どもの反応を物陰から見ることができたら、ほっこりほくほくしてしまう大人、絶対いると思うのだ。サンタがいようがいまいが、大人の自分にはちっとも関係ないはずなのだけど、それはなぜだかほっこりほくほくさせてくれる。

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あるいは、きれいごとついでにきれいの上塗りをさせてもらえば、それはちょっとした希望だからうれしいのだろうか。もしかしたら、そんな思いがけないことが突然降って湧くことってなくはないのかも、と思えるから。

サンタの例だと、はんっと笑うしかできないわ、と言うのなら、もっと俗っぽい話はどうでしょう。たとえば、好きとか嫌いとか言うほど親しいわけではない身近な人が、ほんの思いつきで買った宝くじを当てたらしい、だから最近すごく穏やかで幸せそうだと小耳にはさんだとしたら。いや、高額宝くじが当選したことを吹聴してまわるとろくなことがないわけで、そんな話はやっぱりあり得ないと言われればそれまで。だけど仮にそういうことがあったとしたら、「宝くじって本当に当たるんだ。ちょっと買ってみようかな、思いつきで」なんて思わないだろうか。(と書きながら、わたしはたぶん買わないけど)

宝くじを買ったことはないから推測にすぎないけれど、宝くじを買おうと思う人の大半は身近に高額当選者がいるわけではないはずで。だけど、見ず知らずの人が当選しているという事実は、「まぁ当たるわけないだろうけど、当たるかもしれないし…当たったらラッキーだな」と夢を見させてくれるんじゃないか。それが見ず知らずの人のものであろうと、誰かの「いい知らせ」が存在するという事実は、ちょっとした希望になることがあると思う。

でも、単に「希望になるからうれしい」というのもちょっとちがうかもしれない。希望にはなるけれど、「自分にも同じようにいいことがあるかも、あってほしい」と思うから「うれしい」わけではない気がする。自分が徳をするわけでもない話、たとえば自分自身にその「いい知らせ」が降りかかってほしいなんて微塵も思わないのにうれしくなることだってあるから。それは、どうして?

「うれしい」の理由は、具体的なところを取り去ったところにあるんだろうか。がんばっている人が認められてよかったな、世の中捨てたもんじゃないな、というような。だけど、「だから自分もがんばろう、きっといいことあるぞ」とはならない。やっぱり、自分の身にいいことが起こるかどうかは大切じゃないのだ。

そうすると、うれしそうな人が近くにいたらうれしい、それしか思い浮かばない。しあわせそうな人が、あるいはその人のまわりまでしあわせにできちゃうようなハッピーな人が近くにいるのだとしたら、それだけでうれしい。愛する人がしあわせだとそれで十分、みたいな話があるけど、その対象がちょっとばかり広いだけなのかもしれない。自分がどうとかこうとか、そういうのは関係なくて。
ラッキーだなと思う。自分の「いい知らせ」の数よりも、誰かの「いい知らせ」の数の方がずっと多いだろうから。その方が、何倍も多くの「うれしい」を堪能できる。

たまに、「いい知らせ」なのに「あまりよろこぶと悪いから…」と変な気遣いを見せる人もいる。へたによろこぶと、「なによ自分だけ浮かれちゃって」と言われてしまうのだろうか。「あなただけ、ずるい」って。もしそれで「大したことないんだけど…」なんて言葉を「いい知らせ」にかぶせてしまうのなら、それは同じ食事を前にしながら、「あまりおいしくないんだけど…でもおいしいね」と言っているような奇妙さがある。だから、(自分のことは棚に上げるけど)うれしいことは目一杯うれしそうにしていてほしい。他人がどう思うかなんて気にせずに。あるいは、わたしが目一杯よろこんで、うれしそうなところを引き出したい。そしたらもっとほくほくできるので。

自分の「いい知らせ」をいかによろこぶかは今後の課題にするとして、今度の月曜日には「金曜の夜こんなにいい気分だった」と伝えてみることにしよう。あ、これも目一杯うれしいことを示すことに入れてもいいのかな。