ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

おめでとうのピグマリオン

ある年齢を過ぎると、おめでとうを言うことが増える。結婚とか、出産とか。

大人になると、おめでとうを言われる機会は減る。小さな頃はなんでもがおめでたいけど、大人になるとなんでもが当たり前になるから。

節目節目を通過し尽くしたり、通過しないことを選んだり、選ばざるを得なかったりすると、おめでとうを言う側になる。それ自体は悪くない。誰かの願っていたものが形になって、それに心からおめでとうと言えるのは、ちょっとうれしいくらいだ。

 

問題は、よくわかっていないこと。おめでとうの意味や、おめでとうを言われる人の気持ちがどんなかを。
たとえば転職がうまくいったとか、やっと資格試験に合格したとか、そういうのは自分が願ったものとは違うとしても、ちょっとわかる。ちょっとじゃないな、その大変さがわからないことがすごくわかるから、すごいなと思う。それは間違いなく「よかったね!本当によかった!」の「おめでとう」だ。

だけど、恋人ができたとか、結婚したとか、子どもが生まれるとか、そういうことの「おめでとう」はよくわからない。世間一般によろこばしいこと、慶事だというのはいやというほどわかってる。おめでとうの相手が、それをどれだけ望んでいたかがわかっている場合は、やっぱり「よかったね!」の「おめでとう」。だけど、もやもやしているかもしれないし、望んでいないかもしれないし、それはきっとゴールではないし……なんて色々理屈を並べてはみるけど、結局わたしは、それを「望む」ということ自体がよくわからないから、「(よくわからないけど、きっとうれしいことだよね)おめでとう」になる。

 

相手の表情や文面に気をつけて、おめでとうを言う。うれしい気持ちを損なっていないかな、大げさになりすぎてないかな。おはようとか、ありがとうとか、ごめんねとかみたいに、「あるべき加減」であるのかどうかわからなくて、いつもちょっとどきどきする。さらっと流させる関係なら、全然問題ない。それは他のおめでとうも、挨拶も同じこと。さらっと流せないから、損ないたくない関係やその場の空気だから、迷うのだ。

 

f:id:kirinno_miruyume:20190308191928j:plain

 

マウントでも嫌味でもなく、純粋に「結婚したい相手がいたら、こうすると(お互いの意思確認ができて)いいよ」と、結婚を目前にした人に言われた時、素直に「へぇ」と思ったから、「なるほどー」と相槌を打った。だけどそれは不自然だったようで、「なるほどって思ってなさそうだね」と言われたことがある。決して攻撃的ではなく、やさしく、笑いを含んだ感じで。

表情から、よろこんでいるのかどうなのかがわからなかったから、「妊娠してるんだ」に、さらっと「おめでとう」と返した。やっぱり攻撃的ではなく、冗談ぽく「塩反応だね」と笑われた。もともと感情の起伏が乏しいから、それを含めてのことだと思う。いつもの感じだね、くらいの。

 

突発的にやってくる「おめでとう」の時に、わたしは咄嗟に嘘をつく。大事な人たちの大事な節目を、わかっているふりをして、「こんな感じかな」という借り物の自分でお祝いする。そんなの気にしすぎでしょ、そういうことは誰しもあるでしょう、と言われれば「その通りだ」としか言いようがない。

羨ましいのでもない、強がっているのでもない、取り残されたと感じるのでもない。
ただ、わからないから、自分じゃないものになる。自分じゃない自分になって、誰かの「うれしい」かもしれないことを、うれしいように振る舞う。そんな感覚。

 

そんな風に振る舞う程度の関係なんでしょう、と思われるかもしれない。わたしもそう思ったことがある。本当に大切だったら、その場でそう言えばいいんじゃないか。あるいは、とっくにそんな話をすませてるんじゃないかって。

でもたぶん、そういうことじゃない。「大切」が打ち明け話の有無で決まるのなら、わたしは今ある関係性のほとんど全てをなかったこと、「その程度のもの」にしなきゃいけないわけだから。それでも、これからも関係を続けていきたい人には、取り繕うのはやめにしたいなと思う。それは「おめでとう」を言わないということではなくて、わたしはこういうものだと話しておくこと。カミングアウト。

 

だけどそれは、しょっちゅうやってくるわけでもない「おめでとう」の場を取り繕うより、ずっと不自然だ。呼吸に関わる酸素と二酸化炭素みたいに、いちいち考えないくらいの大前提で、その大前提を「今、酸素吸ってるよね」なんて話したりしない。大切とか、大切じゃないとかではなくて。

わたしは、AロマンティックでAセクシャル(他者に恋愛的に、性的に惹かれない)である前にわたしだ。自分がどのあたりにいるのかを知るためには便利な言葉も、いざ自分を表すものとして示そうとすると、がっちり枠組みを作ってしまうような、「そういうことじゃない」感が溢れ出す。

わたしは自分を変だとか、おかしいとか、特別とか、そうじゃなかったらよかったなんてことは少しも思わない。むしろ、これがわたしにとっての普通で、心地よいところで、自分が自分でよかったなと思う。だからこそ、「こんな感じかな」と取り繕う時、誰に頼まれたわけでもないのに、自分で自分を存在しなかったことにしていて、自分で選んでそうしたことに、自分で傷ついている。

 

言わなくても困らないから、言わない。ずっとそう思ってた。でも最近は、もしチャンスがあったら話しておこうと考えるようになった。わたしの「良かれ」が、今のわたしと同じような気持ちを生むのだとしたら、それは今のこの気持ちなんて霞むくらい我慢ならない。

わたしに続く、他の誰かが同じように虚しさを感じなくていいように。偽善的なのは、わかってる。でも、「そういう人もいるんだな」と思った人の数だけ、「そういう人」は存在するようになるかもしれない。この日常の延長線上に。

曇り一つない純粋な「善意」であるからこそ、曖昧に笑うしかないみたいに、わたしの思う「いいはずのこと」が、同じように誰かを傷つけているかもしれないから。ちゃんとした「おめでとう」になっているかどうか迷うことは、わたしにとって最大限の「善」だけど、受け取る人にはそうじゃないことがある。わたしが精一杯伝えたつもりのことでも、「どうしてそっけないんだろう」と相手を落ち着かなくさせることがあるかもしれない。いや、現にそうなっているはず。みんなやさしいから、言わないだけで。「良かれ」と思ってのことにどうしようもなく苦しくなるのと同じに、わたしの「良かれ」も誰かをきっと傷つけている。傷つけないようにと気をつけるということは、互いにその可能性があるということ。だって、そういう立場の違い、大前提が違う同士だから。

大抵の人は、気にしすぎでしょう、考えすぎでしょうと思うことはわかっている。実際、ちょっとお人好しすぎるかもしれない。そこには予め約束された反応への「期待」があるから。

もちろん、そんなことを気にしなくていい関係性の中で生きることも、不可能ではない。でも、さっきも書いたけれど、わたしはAロマでAセクである以前に、そうと知る以前からずっとわたしで、そうであるかどうかで切り捨てられないものの方がたくさんあるのだ。この先のことはわからないけど、今この瞬間は。

ならば、そもそもこの問題も属性云々の話ではなく、関係性やコミュニケーション、「努力」の問題なのではと思われるかもしれない。実際、属性に関係なく、望むものがあり、望まないものがある。誤解が生じかねないので断っておくと、AロマでAセクだからおめでとうが難しいんじゃない。そういう一つの考え方にすぎない。だけど、色々なものが複雑に絡み合っていて、うまく取り出してみせることはできない。「おめでとう」に限らず、「おめでとう」に連なる色々なものが不可解で、それなのに紛れもなく「善」で「やさしい」。そんなものに、すぐ近くにあるのに触れられない遠さとか、ひやっとする冷たいものを突きつけられる。「善」で「やさしい」だけに、たちが悪い。

「住む世界が違う」とか、「価値観が違う」とか、「人と人とはそう簡単に分かり合えないものだ」とか、そういうことで片付けられるならよかった。だけど、そういうことじゃない。そういうものとは違う。それは、日常の安全とか安心の関係と地続きの中にあって、大丈夫だと疑いもしなかったものが、ある瞬間、部分的にひっくり返って、今触れていると思っていた世界が、触れられない層にあると気づくようなことだから。だけどそれは圧倒的な「善」で、触れていると思っていたのも、触れられていないことに気づいているのも、自分だけといった感じの。

それはもう、どうしようもないこと。何十年か先、自分か周りが変わっているかもしれないけど、今は仕方ないこと。理解して欲しいわけでもなく、悲劇のナントカぶりたいのでもなく、なかったことにしてごめん、と自分に言い訳したくて、これを書いた。

とは言え、どうしようもないから、それは誰かにとっての「善」で、やさしさで愛で、だからしょうがないよねとも、もう思えない。それを受け取り、期待に応えるための「努力」がわたし自身を損ない続けるのだとしたら、それを選ばないことを選んでいくしかない。多くの人が認める善で、やさしさで、愛であっても、それは誰かに与えられるべきものではなくて、最初から自分の内にあるものだと思うから。誰かの期待に応えるのも間違ってない。だけど、わたしが一番応えたいのは、わたし自身のわたしへの期待だということ。せめて自分は、自分を存在しないことにしない、という期待。そのことで他の誰かを否定しないという期待と信頼。なかなか難しいんだけどね。今回もなかったことにしてしまったけど、ちゃんとわかってるから。今すぐには難しいけど、きっといつか。