ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

唯一絶対の当たり前なんてなくて

「当たり前のものが、当たり前じゃなくなった」
「早く元通りの生活に戻りたい」
この1年、よくそんな匿名の声を見聞きした。 

確かに、生活は変わった。

何よりも、ソーシャル・ディスタンス。人との間に、物理的な距離を設けること。人と直接会う機会を減らすこと。
そうすることで格段に減ったというか、「ゼロ」になったのが、飲み会やランチなど、飲食を伴う交流、コミュニケーションだった。

いつからか、交友とか親睦の場が、必然的に飲食を伴うものになった。それ以前は、ただ一緒にいて、ぐだぐだ話すだけで成り立っていたものも、飲食がメイン、あるいはサブセットで。
飲み会やランチというのは、食べ物、飲食行為、そのための時間と空間を共有することで、さして共通項のないもの同士、あるいはかつてあった共通項が薄れたもの同士が、「一緒に過ごした」ことを認めることができる、最も手っ取り早い手段なのだろう。

一方わたしは、飲食それ自体への興味関心が薄いばかりか、どちらかと言うとあまり得意ではなくて(楽しむものというより、がんばるもの)、そういったものとセットになった交流の形式は、どれほど親しい間柄でもどこか儀礼的なような気がして、関係性が薄まれば薄まるほど、集団になればなるほど、気が重いものだった。だけどそれは「当たり前」のことで、みんなどこかしらそういうものなのだろうと諦めの気持ちでいた。

だから、そういったものが取り払われたこの1年は、衝撃的だった。そんな「当たり前」があるのか、と。

本当に連絡を取りたい人とは、「どうしてる?」、「大丈夫?」とむしろ気軽に連絡が取れる。「困ったら飛んでいくよ」と、友だちでも恋人でもなく言い合う関係を、自分が持っていたことも、これまでなら気づかなかった。

人と会うのが嫌なのではない。飲み食いしたくない、というのでもない。ただ、わたしにとって心地よいと思える時間的・空間的な距離と、これまでの「当たり前」があまりにかけ離れすぎていた、そのことにしっかりと気づいてしまっただけ。

わたしにとっては、数ヶ月に一度、手紙を送り合ったり、小中学校の登下校のように、示し合わせたわけではなく、ただ同じ時間帯だったとか、同じ方向だったとか、それくらいの理由で、喋ったり黙ったりしながら歩いたりする、そんな距離感が心地い。

わたしにとっては、会っていない時間、連絡を取っていない期間も含めて丸ごとが、その人との関係性なのだと思う。

 

f:id:kirinno_miruyume:20191130144650j:plain

 

この1年で、「当たり前」は変化した。よく手を洗うこと、消毒すること、常にマスクを着用し、非着用時は距離を保ち、換気も忘れないこと。そういった「当たり前」をそれ以前の「当たり前」と比較した時、「当たり前が失われた」と言うのだろう。

 

だけど、本当にそうなのか?

「当たり前」は、それほど「当たり前」なのか?

多くの人が「当たり前」と思っていたことと、自分の思う「当たり前」が違うと気づくように、「当たり前」の共有範囲は、思うほど広くないし、万能ではない。そして、今回のように、外的要因によって、まるっと別の「当たり前」に置き換わることだってある。それほど劇的なものでなくても、時代や文化・社会、世代によっても移り変わるだろう。

 

そう考えると、「当たり前が、当たり前じゃなくなった」ことは、むしろ当たり前のことじゃないのか?

それぞれに大切にしたい「当たり前」が違うだけで。むしろこれまで、「当たり前」とか「普通」という暗黙の了解や圧力によって、ある人にとって心地よい「当たり前」を、そうでない人にも押し付けていたなんてことはなかったか。そして今、新しい「当たり前」を、もどかしく思う人にもそれが正しいからと、強要してしまっていたりしないだろうか。よくよく話も聞くことなしに。

 

「当たり前」というのは、いつ何時もそこにあるもので、それだからこそ安心し、信頼し、日々を過ごすことができる。それが人によって違う、こうも簡単に移り変わり得るというのなら、もっと丁寧に扱い、見つめ直した方がいいのかもしれない。

自分にとっての「当たり前」は、あの人にとっても「当たり前」か?

自分の「当たり前」を、誰彼構わず押し付けることが「当たり前」になっていないか?

快くない「当たり前」は、本当に自分が守るべき「当たり前」か?安心、信頼たり得るものか?

もっと、「当たり前」と思うもの、されるものに、意識的にならなくてはいけないんじゃないか。

 
もちろん、「当たり前」が大きく揺らいだということは、安心、信頼できる生活が揺れ動いたということ。見つめ直すなんて、悠長なことは言っていられない。それぞれ、安心、信頼できる「当たり前」を取り戻さなくてはいけないわけだけど、どうかそれが一辺倒なものにならず、複数の「当たり前」が共存することが「当たり前」となりますように。

そして、仕方ないと思っていた「当たり前」だってひっくり返るのだということが世界同時的に共有されたこと、その種々の「当たり前」から遠ざかることができたこと、それによって、とても深く息ができる気がしたこと——ここから何かが変わっていくとしても、この変化自体、しっかりと確かめることのできた自分にとっての「当たり前」があること自体は、忘れずにいたい。

 

 

お題「#この1年の変化