ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

今、これからのためにできること

 今、必要なものをあげるときりがない。医療体制にワクチン、検査体制、誰もが取り残されない方針、支援、それらすべてを支える予算やマンパワー、そしてそれらのすべてに関わる人たちが必要な補償や休息を取れること。きっともっとたくさんある。いくらでもある。

 今、私にできることは少ない。手洗いうがい、マスクの着用、外出頻度を下げ、人との接触を少なくすること、機会があればワクチンを接種すること、リスクの高いことに対して「今はやめよう」と断ること、よく食べよく眠ること、適度に体を動かすこと、情報の正誤を判断できるようになること、不調を感じたら然るべきところに連絡すること——これまで通りだ。

 「こういうことならできる」、「こうすればいい」と簡単に言うこともできない。できることが少ない今、理想論でしかないとしても、縮こまらずに、悲観しすぎず進むために、偽善的すぎるくらいの「理想」が欲しい。今、これからのために必要なことについて考えてみることにした。

 

 

最低限必要なもので、今足りないもの

 今必要なものがすべて賄われるとして、それでも足りないもの、絶対的に欠けているもの——それは、「声を受け止めること、受け止めて何かしらの反応を返すこと」だと思う。

 

 人と顔を合わせたら挨拶をしなさい、何かを受け取ったらありがとうと、間違いを犯してしまったらごめんなさいと言いなさい。言葉の意味もよくわからない頃から、ことあるごとに教わってきた。「ありがとうは?」、「ごめんなさいは?」と。それは礼儀である以前に、「見えていますよ」、「わかっていますよ」という合図、最もシンプルなコミュニケーション(やり取り)なのだと思う。あなたがいることは見えていますよ、あなたがしてくれたこと、私がしてしまったこと、ちゃんとわかっていますよと表明するための。

 だけど今、それがない。個人や専門家からの「それ」は聞いた記憶があっても、みんなを代表する人、引っ張っていく人たちの「それ」を聞いたことを思い出すことができない。  一番シンプルであるはずのことが、一番難しいことになっている。

 

認めるから続けられることもある

 ゴールが見えれば、走り切ることも、残る力を出し切ることもできる。だからここまで、「あと少し」、「一年後は、いや半年後は…」そんな気持ちで、一人ひとりがゴールを見つけ出し、近づいたかに見えるそれを断腸の思いで引き延ばすということをなんとか続けてくることができたのだと思う。

 私は専門家ではないけれど、素人目に見ても、これはすごいことなんじゃないかと思う。一人ひとりの善意としか言いようのないもので、ここまで来ることができた。それぞれができる形でがんばってきた。得られた結果は芳しいものではなく、その意味では「がんばりが足りない」のかもしれない。結果のない努力に価値はないと言う人もいるだろう。それでも、よくがんばってきたと思う。

 私たちの走りは、がんばりは見えているだろうか。届いているだろうか。ゴールが見えていても困難、見えなかったり、引き延ばされたりするのはなおさら苦しい。伴走し、士気を高めるコーチのような存在である私たちのリーダーは、「お願いします」と言う。「もっとがんばってください、がんばりが足りません」と言う。きっと、リーダーにはリーダーの、私たちにはわからない、見えない苦労があるのだと思う。でも、こんな時だからこそ、いつまでどう走り続ければいいのかわからない時だからこそ、感謝をとは言わないから、せめて「見ていますよ、ちゃんと見えていますよ」そういった声かけが必要だったんじゃないか。

 別の国の、別の文化のリーダーのように熱烈なスピーチでなくていい。馴染みのない文化の慣れない語り方を真似ても、同じように心に響くとは限らないから。必要なのは、そんなに複雑なものじゃない。「ありがとう、おかげで今回はなんとかなった」、「十分でない中、よくやってくれている。あともう少し」、そういう、「なんの足しにもならない」と笑われそうなものでいい。

 私たちの多くは、ヒーローやヒロインではない。日常の中でやってきたこと、続けてきたことが突如スポットライトを浴び、ヒーロー/ヒロインであるように見える時があるとしても、一日いちにちをつないでいるひとりの人間にすぎない。生きていくために学び、働き、時に気力体力を満たすだけで精一杯になり、毎日が少しでも楽しく、よろこびを感じられるものであることを求めているだけの。

 生まれつきの、志願してのヒーロー/ヒロインではないのだから、すべての苦しみを引き受けることはできないし、問題を解決するために闘い続けることもできない。誰かと分け合い、時々休むことができて、終わりの見えない闘いに意味を見出すことができなければ、走り続けることは不可能だ。

 

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私たちが作ってきたもの

 今に始まったことじゃない。同じようなことは、日常の中にうんざりするほどある。誰かに責任やがんばりを押し付けることで「うまくいった」だけなのに、うまくいかない人に「がんばりが足りない」と言う。サービスをしてくれる人への、身の回りの世話をしてくれる人への、安く不十分な待遇で働く人への、腕力や地位を持たない人への、あの横柄な態度。

 努力の結果だと言うものは、そういったもので成り立っているのに、それすらさも自分の努力や能力であるかのように振る舞い、感謝や労いの言葉はない。せめて、見えているよ、わかっているよと示すことがあれば…なんて思うのも虚しく、そんな可能性や事実があるとは夢にも思わない。少なくともこの国は、そういうことが当たり前のようにそこここにある。私だって偉そうなことは言えない。こうなるまで気づかなかったこと、「当たり前」に思ってきたことがたくさんある。

 結局、私たちは声を受け止め、返す側でもあるのだ。返すことの積み重ねが、この今や社会全体の空気を作ってきた。

 

私たちは受け止め、返してきたか

 その全体を作り変える最もオーソドックスで、重要な方法は選挙だろう。その点、私たちは適切な方法で反応してこなかったとも言える。

 ただし、「受け止め、返す」というのは選挙だけの話ではない。選挙は一つの通過点にすぎない。だから、多くの人が選挙には行かないけれど必要な義務や努力という形で、選ばれた人たちの声に応えてきたとも言える。なんて真面目なんだろうと思う。そういう意味では、選挙に行った人も、行かなかった人も、選挙以外の日々、特に「自粛」を求められたこの一年半、声に応え続けてきたと言えるだろう。

 もちろん、選ばれた人は選んでくれた人だけに答えればいいというものでもないだろう。選挙や政治は「買ってくれたら、ノベルティをプレゼント」というものではないはずだから。選挙では「これから」が選ばれる。「これから」は年単位のもので、選ばれた人たちは1億人くらいの人の「これから」を背負っていることになる。選ばなかった人も、選べなかった人も含めての代表であるはずだ。そうでないなら、それはただの人気投票でしかない。

 けれど、実際は選んでくれた人たちの声だけに応え続けている。「人気投票」に参加しなかった人たちは、相手にされない。相手にされなくなった人たちは、余計に見ること、選ぶことから遠ざかる。乱雑に扱ってくる人に立ち向かい続けることは、誰にでもできることじゃない。

 反応は連鎖し、状態は悪化する。ハラスメントに似ている。最初は些細なことに思えた悪意や攻撃が当たり前になって、誤魔化すように笑って受け止め続けるしか無くなるような状況。そんなことは全く望んでいないのに。そこから離れない限り、自分が使い物にならなくなるまで地獄は続く。受け取らないし、返さないという反応の連鎖。

 それだけではない。見放し続けることは、その人の後に続くかもしれない人のことも間接的に見放すことにつながっていく。間接的に見放されるのは、「まともな人」や「ふさわしい人」だ。多くの人が見向きもせず、見放されるとわかっている立場に、進んで志願する人はいるだろうか。選択肢はいくつもあるのに、ブラックとわかっている職場に身を置こうとする人材はまさにヒーロー/ヒロインだ。救世主は、そんなに都合よく現れたりしない。

 

私たちが作っていくもの

 直接「No」と言うことができないなら、間接的に「No」と言うしかない。仲間を見つけ、助けを求める。それが最善ではなくても、別の誰か声に応えること、支持、応援することで、少しでも「マシ」な方に進んでいくことはできる。この一年半、些細なことが連鎖し、現状を作ってきた。目に見えないようなものが全体を変え得るなら、同じように正の連鎖も起こり得るはずだ。負のものに比べて、その波及効果は見えづらいとしても。 

 国の中に私たちはいるし、私たち一人ひとりの集合が国を作っている。どちらか一方の秩序が乱れれば、もう一方も形を変える。人の寿命を考えると、国全体の新陳代謝は比較的緩やかなのだろう。急には変われない。

 だからなおのこと、日常の少しずつの意識が大切だと信じたい。毎日繰り返されるものは、目立たないけれど、積み重ねられた時、とても大きな結果につながることがある。サグラダ・ファミリアとか、五百円玉貯金とか、筋トレみたいに。そういうものが全体を、自分を含む大きなものを作っていく。

 できることが少なく、ひたすら耐え忍び、待つことしかできないこともある。けれどその中でも日常というものが続くのであれば、そこには必ず誰かのがんばりや我満、やさしさや思いやりといったものが途絶えずにある。一足飛びにいかないということは、馬鹿らしいくらい些細なこと、誰にでもできること、その積み重ねでもあるということ。そういうものを見つけて、ありがとう、よくやってくれているよ、まずはそんな風に受け止められるものを受け止め、返せることを返していくしかないんじゃないか。全体としてひと塊りに捉えることなく、決めつけることなく一つひとつの小さなこと、一人ひとりの声を見ていくこと。

 時間はかかるし、すでに厄介な状況だ。それでも、私たちはよくやっている、よくがんばっていると思う。偉そうに、と思われるかもしれないけど、何もできない今、それでも日々の生活が送れているのも事実だ。まずはそのことを受け止め、それを可能にしてくれている人たちの連なりを想像してみることも、今、これからのためにできることの一つだと思いたい。

 

 

 

 

"You’re doing a good job
Don’t get too down
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