ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

マイノリティを名乗りたいわけではない、だけどそれでも

マイノリティ、特にセクシュアリティに関する記事が出たり、訴訟があったり、運動があったりすると、「好きにすればいい」、「自由じゃないか」、「そんなに細分化/カテゴライズしたいのか」なんて言葉が、定型句のようにコメント欄に並んでいたりする。ネットでの発言は偏りがあるというのはわかっているし、その偏りについておおよそ想像はつくけど、「ふつう」はどんな風に受け止めるんだろうと、つい見てしまう。

そうか、と思う。
偏っているにしても、そこにある空気感と、日々境界をなくそう(ごまかそう)と意識している空気感とは、そんなに違わないのかもしれない。

「色んな人がいる」、「違って当たり前」、「自由にすればいい」——それは、その通りなのだ。そう思う人たちはある意味寛容で、だからこそ、ときどきポコッと湧き上がるこの手の話題にうんざりなのだろう。わかる。
「わざわざそんな、分けたらきりがないことを言わなくても」、「なんでも自由でないと気が済まないんだね」、「他人の嗜好(or指向)とか、聞きたくもない」という率直なもの(嗜好の話じゃないんだけどな…)も多い。その通りだろう。わかる。

わかる。
だって、「ふつう」に対して、似たようなことを思っていたから。
同じなのだ。

「「ふつう」はそういうものなんだろう」
「それぞれ違う(自分は自分)」
「誰が誰と付き合ってる/結婚したとか聞いても…」
少数派が多数派にそう思うのと、多数派の人が少数派に対してそう思うのと、何が違うのか。線引きして、そちらはそちら、こちらはこちらで済まそうとしている点では、どちらも結局同じこと。だから、そういうことをやってるわけではない。わざわざ、ちょっと音量大きめに物申す時は。

 

じゃあ、なんなのか。
どんな話をしているのか。しようとしているのか。

 

セクシュアリティに限らず、一人一人に色んな性質があって、その中にはメジャーなものも、そうでないものも、色々ある。それらが全部組み合わさっての「自分」なので、「自分」と同じ人にそうそう出会えないことも、出会えなさそうに見えて、思いがけないところでばったり、なんてこともある。つまり、圧倒的に「違う」という隔たりがデフォルトでありながら、それと矛盾しない形で、何か大きなものの一部でもあるということ。全員がバラバラというのでも、バラバラの中で小さな集団がいくつも形成されているのでもなく、バラバラでありながら、全体。それが自然なように思えるし、たぶん理想。

じゃあ、「自由なんだから、好きにしたらいい」は、どうなのか。
違いがあるということが認識、あるいはある程度許容されているという意味では、バラバラ。だけどそれは、たぶんずっと、バラバラなまま。「好きにしてたらいいよ、こちらも好きにするからね」、たぶんそういうこと。そんなバラバラは、似た者同士でくっついていく。一つ一つはバラバラなはずなんだけど、気づけばいつしか、大きな塊ができていて、そこに背を向けるか、その大きな塊の中の「バラバラ」のどこか近いところと「似た者同士」になって、くっついて、「全体」になる。圧倒的な数の差がある中での「好きにしたらいいよ」は、つまり、そういうこと。

 

別にそれが、いいとか悪いとかそういうんじゃない。
主張するとか、認めて欲しいとか、理解して欲しいとかそういうんでもない。
「〜して欲しい」とか、違いを表明することを目指す時点で、それは「バラバラ」を、つまりは隔たりを作って、分裂して、かろうじてある偽物の「全体」を解体していくということでしかない。それは、大きな群れから離れ、孤立し、「自由」に一人でやっていきますよ、ということで、非力な勢力には、はじめから結果のわかった負け戦で、そんなものを目指すほど純粋でも、孤高でも、志高くもないし、ましてやそこまで自惚れてもいないし、馬鹿でもない。

 

その真逆で、闘いたくないのだ。
だから、白旗だと思ってくれていい。いや、闘ってるんですよ、邪魔しないでください、という人もいるかもしれないので、「わたしは」と言っておいた方がいいかもしれないけど。「わたしは」、もし、「自分はこうなのだ」と言うことがあるとするなら、それは降参するため。もう「全体」にくっついているのは疲れて、とても自分の両腕じゃしがみついていれなくなったから、この手をいったん離すよ、ということ。それは、負けとか、助けて欲しいとか、そんなことではなくて、なんかもう、「それしかなかった」、そういう感じなんじゃないか。違ったら、ごめん。

 

 

言葉を知らない時の方が自由で、あれこれ考えなくて済んでいたんじゃないか。そんな気がして、カテゴリーとか、関連するネットツールから離れてみた。奇しくもソーシャル・ディスタンスなご時世で、小さな集団のみならず、まるっと大きな世界からも離れることができた。爽快で、自分というものが小高い山の上の小さな小屋に住まう者だとしたら、突如全ての窓が開いて、心地よい風と綺麗な景色が飛び込んできたような開放感で、たぶん、生きてきて一番幸せな時間だったと思う。

まず「全体」ありきではなくて、まず自分がいる。外との境界はなくて、自分丸ごとが世界。世界の中に自分がいる。ちょっと話が大きくなりすぎたけど、要は、いかに無意識にがんばっていたかということだ。自分じゃなくて「自分」を。うまくいかないなんて思っていた「自分」は、よくがんばってた自分だったんだなと思った。

大なり小なり、みんなそうだ、と言われればその通り。社会というのは、ある決まりごとに法ってやっていかないと成立しないわけで、その決まりごとは最大公約数よりも賛成多数である方がいい。うまくいく。だから、それに適合しない場合はしょうがないし、でもそれだとあんまりだから、倫理的・道徳的に解決されたりする。運がよければ。

だから、「しょうがない」というのは、ある程度みんな思っている。東からのぼる太陽に西からのぼれとは言わないし、東からのぼるのならわたしが東に行きましょう、そういうこと。初めから東に住まう人にとっては、「そんなの当たり前」かもしれない。だって、太陽は東からしかのぼりようがないんだし。でも、そうでない世界もある。それは、月とか火星とか別の銀河系とか、よくわからないけど、そういう次元のことではなくて、同じ地球でのお話。最初から東にいる人は「好きにしたらいいよ」、と言う。それなら、わたしも、はじめから東にいたかった。西から東に、走るんじゃなくて。

「みんなそういうもの」だとしたら、言えるだろうか。
「みんなそういうものだから、我慢しろ」
「みんなそういうものなのに、最近はやたら自由を求めちゃって」
「みんなそういうものだけど、どうしてわざわざ?」
みんなそういうものだから、わたしの知らない「そういうもの」が、どれだけたくさん、この世界にあるのだろうとわたしは思う。時々飛び込んでくる、わたしとは違う「そういうもの」にちょっと居心地が悪くなって、どう捉えればいいのかわからなくなって、でも誰かにとって「そういうもの」が当たり前にあって、わたしには理解できそうもないことが、この世界には到底知り尽くせそうもないくらいにあるのだと、「そういうもの」を自分の世界の片隅に置いてみたりする。好きになったり、仲良くなったりできないかも知れないけど、「そういうもの」で世界はできていることに、ときどき思いを馳せられるように。

そういう、想像力。
たぶん、全然足りてない。

 

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補う方法は、いくつかある。

「全体」を気にせず、自由に生きる。カテゴリーに縛られず、自分として生きていく。自分の中で、全体を作り変えていく。これが挑んでみているところで、わたしにとっての理想。だけど、「全体」にしがみつくのと同じか、それ以上に労力がいる。「自由にすれば」と言われても、そう簡単なことではない。自分の言葉で、自分のコミュニティーに通じるように翻訳しながら、コミュニケーションを繰り返していく必要がある。たとえば、母語は日本語なのに、気づけば周りはベンガル語話者で、Google翻訳やら、文明の利器を駆使しながら、なんとかそれらしく話している感がある。頷いているから、通じているんだろう、そんな感じ。それでも自分で話そうとするし、わからなければわからないと言う。そこが、「全体」にしがみつくのと違うところ。自分の圧倒的弱さを認めるところから、晒すところから、スタート。

ひとりでできることは知れているので、少数のみんなも一緒に、ということであれば、もっと違う方法が必要になる。逐語訳的にコミュニケーションを、というのは、誰もが気力と意欲を持ち続けられなくて当然だし、誰かひとりが自由になれても、それはその人が幸運だったとしか言いようがない再現性の低いものなので。
手っ取り早いのは、狼煙を上げることだろう。ここにいるよ、ここにいますよ、と。それは、はぐれてしまった誰かに送る合図であり、別の集団に送るメッセージでもある。少しだけ、インパクトがある。だけど、「何かやってるな」で終わる可能性の方が高いだろう。ちょっと近づけば、白旗を上げているのが見えるかもしれないんだけど、そこは行きます、こちらから。でも、そこまでしても、結局違いを作り出して、隔たりを生み出して、「何かやってるな」と思われておしまいならいい方で、ご丁寧に「そんな無駄なこと」がもれなくセットで。

そういう、八方塞がりな状態なのだ。どうあがいても、がんばっても。
がんばっても、がんばらなくても。
でもなんか、たぶん限界なのだ。「自由だよ」、「違うものだよ」、「いいじゃん、それでも」——そういうことじゃない。許可も認証も求めていない。ただもう、そこから降りたいのだ。そして、「違って当たり前だよ」と言えるくらいに、「当たり前」に浸ってみたりしたいのかも。当然のことだけど、それは息をするみたいに自然で、くつろげて、最高だから。

じゃあ、どうすればいいのか。どうしたいのか。どうして欲しいのか。
それは、わからない。ずっと考えているんだけど。途方もないことのように、どうしようもないことのように思う。
だけど、それは少しずつ、時間をかけて広まっていくものであることも確かで。人種とか、年齢とか、性別とか。自分ではどうしようもないことが、自分以外のところから変わっていく。だから、その最初の一歩くらいに思って、「おー」とか、「なんだこれは?」とか、見たこともないものを驚いて見るくらいでいいんじゃないか。ジャッジしないで。許可を与えようかどうしようかとか、考えないで。マインドフルネスに、受けて流して、通過していくものとして。そうすればとりあえず、壁は作られない。余裕があれば、驚きの世界のことを想像してみたりして。
ちょっと居心地悪いのは、お互いさまだ。

 

声を上げずに済むなら、カテゴライズせずに済むなら、それが一番いい。でも、ひとりではどうしようもなくなったから、そういうものがあるのだと思う。いずれなくなるかもしれないし、そうなるのが理想だけど。
喧嘩しようとしてるのでもない、主張したいのでも権利がどうのこうのというのでもない(あるとすれば、それは本当にその権利があるからで)、理解して欲しいのでも、認めて欲しいのでもない。自分一人が、このカテゴリーが、この性質が、というのでもなくて、たぶん根っこにあるのは、結局のところは、「もっとみんなが生きやすいように」だと思うのだ。「なんかまた言ってる」と思ったら、「きっと、もっといい世界にしたいんだな」と平和な気持ちで拡大解釈していただけたら理想だなと思うけど、それすら高望みしすぎだということは、十分よくわかっている。

Aロマンティックな自分がすきだ

無敵じゃん、と思っていた。
Aロマンティック(他者に恋愛感情を抱いたことがない)みたいだけど、恋人やパートナーが欲しいわけでもなければ、結婚・出産・育児願望があるわけでもないし、恋愛沙汰に巻き込まれる可能性も極めて低い。

要するに、「自分はAロマンティックなんだろうな」と思いながら、そのことを意識せずにいられる特殊な条件下にいたということ。真空状態でのみ成り立つ実験結果、みたいな感じで。

自分が望みさえすれば、たぶんずっと、そのままでいられる。
でもそれは、Aロマンティックとして生きている、というのとはちょっとちがう。
自動的に何かを意識しないでいられるのと、何かを自分の意思で選択してそうあるのとは、無計画にだらだらしてしまった!と後悔するのと、意識的にくつろいでリフレッシュできた!と満足するのと同じくらいちがうことだと思う。
もちろん、どちらがいいとか、悪いとか、そういうんじゃなくて。

 

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わたしはAロマンティックなんだなと気づいて以来、それでいいじゃん、と思ってきた。
だけど、ときどき、それで本当にいいと思ってる?なんて自分が自分に聞いてくる。
それってさ、逃げじゃないの?なんて。

結論から言えば、逃げだっていいじゃん、だ。
でもたぶん、自分が自分に聞いているのは、そういうことじゃない。

「自分はAロマンティックだから」で説明できないことは、たくさんある。「Aロマンティックだから」で説明できることより、ずっと多く。

そんな「たくさん」のことも、「Aロマンティックだから」で都合よく、線引きしちゃってないだろうか、そういう感じのこと。
もっと言うなら、「Aロマンティックだから」と言って、自分で狭めてしまっている可能性があるんじゃないか、ということになるかな。

 

そんなもやもやがあったからなのか、単なる好奇心なのか、それとも気分が良く外向きな気持ちになっていたからなのか…自分でもよくわからないけど、普段なら一刀両断しそうな話にOKを出していた。

友人が異性を紹介してくれて(まったく頼んでいなかった)、「友達作り感覚でいいから」を7.5割くらい本気にして、とりあえずやり取りをすることになったのだ。

もちろん、後からとても後悔した。
大したやり取りもしていないのに、食欲は一気になくなり、体重は激減した。 

解決方法は簡単だ。適当な理由をつけてやめてしまえばいいのだ。
そんなにストレスになっていて、その結果が明らかにわかっているのなら、どう考えたって、そうしたほうがいい。
でもそれは、嫌な記憶を一つ増やすだけのような気もした。本当に自分ではどうしようもないことなら、逃げてしまった方が絶対いい。だけど、これは、自分で勝手に思い込んで嫌になっているものなんじゃないか、そんな考えも浮かんだ。

 

何がそんなにも苦痛なのか。
異性として見られること/振舞うこと。
恋愛を意識しなければいけなさそうなこと、だけど自分は、どれだけ時間をかけてもそんな風には考えられなさそうなこと。
忘れたと思っていたはるかかなたの記憶が、関連づけられてしまうこと。
こんな感じ。

 どうしたものかと悩んでいたとき、しばらく追えていなかったTwitterのタイムラインに目を通した。
びっくりするくらい、気分の悪さが消えて、なんの根拠もなく「やっぱりここなんだな」という気がした。

とりあえずやり取りがひと段落した途端、身体中の力が抜けて、眠くなって、とてもお腹が空いた。

それで、ちょっとわかったのだ。
わたしはたぶん、Aロマンティックじゃない自分になろうとしていた。自分で勝手に決めつけて。
異性として見られることはあるかもしれないし、ないかもしれないけど、とりあえず自分が異性として振舞わなきゃいけないなんて、そんな必要ないのに。
誰かが恋愛を意識したとして、自分も意識しなきゃいけないなんて、そんなはずあるわけないじゃん。
何かに似ているからって、同じなわけないよ。

 

「このシチュエーションは、こういうものだ」
そんな「暗黙の了解」みたいなものは、あちこちにある。
いろんなことを省略できて、物事はスムーズに進む。
でもそれは、絶対じゃない。その通りなんて保証はないし、その通りじゃなきゃいけないわけでもない。うわべだけで、記号的に進めなきゃいけないものでないなら、なおさら。

 

身体中の力が抜けたとき、自分に戻ったような感じがした。
ひとりでも楽しくて、リラックスできて、うれしい感じが満ちてくる。
わたしはしょうがなくそうしてきたのではなくて、こんな状態が、こんな自分が、すきだったんだ、と思った。

はじめからわかっていたんだけど、わたしは、わたし以外のものになんてなれない。
もちろん、自分の立場や置かれた環境によって、それらしき自分を使い分ける必要はある。
だけど、自分で選んだことの中でくらい、嘘をつかなくたっていいと思うのだ。

 

だから、今まで通りに戻るのはやめにした。
今まで通り、というのは、自分に向かないなと思うものを、積極的に避けていくこと。そして、1対1の親しい関係の中で、嘘をつき続けることも。

人生から恋愛に発展しそうな事柄を排除する、ということは、実は恋愛に発展しない有意義なコミュニケーションや関係性も「恋愛につながるかも」と決めつけて、取り除くことと同じような気がする。
たとえその予測の方が圧倒的に正しいのだとしても、その「決めつけ」は、わたしの考えではない。
長い時間の中で、多くの人が「そういうものだ」と共有してきたことに合わせようとているだけ。なんで「そういうもの」なのか、考えもせずに。

だからといって、「Aロマンティックです」なんて、説明してまわる必要もない。
わかったふりして、笑っていなくてもいい。
わたしが思うまま、仲良くしたいのならすればいいし、わからないことはわからないと言えばいいのだ。
結局、人と人が向き合っている。恋愛する人としない人ではなくて。
だから、自分の思うままにとはいかないだろうけど、話せるなら、話せばいい。どう考えているのか、何を悩んでいるのか。

そんなに簡単ではないことは、わかっている。
でも、自分に嘘をつくより、「まだ出会ってないだけ」と同じように「恋愛はこうだから」と決めつけるより、気持ちは軽くなるんじゃないか。

わたしは、ロマンティックな要素のない人生が、なかなかすきみたいだから、せめてそれを、自分自身で塗りつぶしてしまわないようにしようと思う。

誰かのしあわせがうれしい、というのはうれしい

金曜日の夕方に、誰かにとっての「いい知らせ」が聞けるとうれしい。ほっこりとした気分で家路について、ほくほくとにやつきながら、夕食とお風呂を済ませることができる。そんな気持ち、わかるでしょうか。

何をいい人ぶって、なんて言いたくなる気持ちはわからなくもない。文字にしてみるときれいすぎて、うそっぽい。だけど、ご安心を。誰かの「いい知らせ」は心からよろこびましょうね、そうすべき、なんて微塵も思っていないから。

だけどあるでしょう、どうしようもない気持ち、理屈では説明できないけれど湧き上がる感情というの?それと同じで、自分でもなぜかわからないけどうれしい。自分のときの「いい知らせ」より。自分でもちょっと戸惑う。

どうしてだろう。自分にとっての「いい知らせ」がこれまでなかったとは言わない。言わないけれど、感情の揺れ動きからすれば、自分事の方が他人事みたいだ。客観的に「これはいいことだ」というのはわかる。だけど、それについてうれしいとか、ほっこりとほくほくした気持ちのまま週末を迎えるなんてことは、できない逆立ちを成功させるより起こりえない気がする。

ずいぶんと大人になって「実はサンタクロースは実在したことが判明した」と聞いてほくほくするようなものかもしれない。「いや、そんなのどうだっていいでしょう」と鼻で笑っちゃう大人がほとんどで、そのほとんどの大人の数よりも、「そんなの」に目もくれないし、気づきもしない人の方がずっと多いにちがいないけど、でもたぶんそんな感じ。

子どもはちょっとそわそわするだろう。「うっそだぁ」なんてかっこつけながら、内心どきどきするにちがいない。「うちにも来たりして、なぁんてね…」と想像してみたりして、うれしそう。もし、そのそわそわな子どもの反応を物陰から見ることができたら、ほっこりほくほくしてしまう大人、絶対いると思うのだ。サンタがいようがいまいが、大人の自分にはちっとも関係ないはずなのだけど、それはなぜだかほっこりほくほくさせてくれる。

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あるいは、きれいごとついでにきれいの上塗りをさせてもらえば、それはちょっとした希望だからうれしいのだろうか。もしかしたら、そんな思いがけないことが突然降って湧くことってなくはないのかも、と思えるから。

サンタの例だと、はんっと笑うしかできないわ、と言うのなら、もっと俗っぽい話はどうでしょう。たとえば、好きとか嫌いとか言うほど親しいわけではない身近な人が、ほんの思いつきで買った宝くじを当てたらしい、だから最近すごく穏やかで幸せそうだと小耳にはさんだとしたら。いや、高額宝くじが当選したことを吹聴してまわるとろくなことがないわけで、そんな話はやっぱりあり得ないと言われればそれまで。だけど仮にそういうことがあったとしたら、「宝くじって本当に当たるんだ。ちょっと買ってみようかな、思いつきで」なんて思わないだろうか。(と書きながら、わたしはたぶん買わないけど)

宝くじを買ったことはないから推測にすぎないけれど、宝くじを買おうと思う人の大半は身近に高額当選者がいるわけではないはずで。だけど、見ず知らずの人が当選しているという事実は、「まぁ当たるわけないだろうけど、当たるかもしれないし…当たったらラッキーだな」と夢を見させてくれるんじゃないか。それが見ず知らずの人のものであろうと、誰かの「いい知らせ」が存在するという事実は、ちょっとした希望になることがあると思う。

でも、単に「希望になるからうれしい」というのもちょっとちがうかもしれない。希望にはなるけれど、「自分にも同じようにいいことがあるかも、あってほしい」と思うから「うれしい」わけではない気がする。自分が徳をするわけでもない話、たとえば自分自身にその「いい知らせ」が降りかかってほしいなんて微塵も思わないのにうれしくなることだってあるから。それは、どうして?

「うれしい」の理由は、具体的なところを取り去ったところにあるんだろうか。がんばっている人が認められてよかったな、世の中捨てたもんじゃないな、というような。だけど、「だから自分もがんばろう、きっといいことあるぞ」とはならない。やっぱり、自分の身にいいことが起こるかどうかは大切じゃないのだ。

そうすると、うれしそうな人が近くにいたらうれしい、それしか思い浮かばない。しあわせそうな人が、あるいはその人のまわりまでしあわせにできちゃうようなハッピーな人が近くにいるのだとしたら、それだけでうれしい。愛する人がしあわせだとそれで十分、みたいな話があるけど、その対象がちょっとばかり広いだけなのかもしれない。自分がどうとかこうとか、そういうのは関係なくて。
ラッキーだなと思う。自分の「いい知らせ」の数よりも、誰かの「いい知らせ」の数の方がずっと多いだろうから。その方が、何倍も多くの「うれしい」を堪能できる。

たまに、「いい知らせ」なのに「あまりよろこぶと悪いから…」と変な気遣いを見せる人もいる。へたによろこぶと、「なによ自分だけ浮かれちゃって」と言われてしまうのだろうか。「あなただけ、ずるい」って。もしそれで「大したことないんだけど…」なんて言葉を「いい知らせ」にかぶせてしまうのなら、それは同じ食事を前にしながら、「あまりおいしくないんだけど…でもおいしいね」と言っているような奇妙さがある。だから、(自分のことは棚に上げるけど)うれしいことは目一杯うれしそうにしていてほしい。他人がどう思うかなんて気にせずに。あるいは、わたしが目一杯よろこんで、うれしそうなところを引き出したい。そしたらもっとほくほくできるので。

自分の「いい知らせ」をいかによろこぶかは今後の課題にするとして、今度の月曜日には「金曜の夜こんなにいい気分だった」と伝えてみることにしよう。あ、これも目一杯うれしいことを示すことに入れてもいいのかな。

恋愛のない世界のこと

誰かに恋愛感情を持つことがないってこんな感じ、というのを書いてみたい。
(当初は誰かに性的欲求も抱かないというのもセットにしていたころ、あまりに長くなったのでそちらはまたいつか)

恋愛感情を持たないといっても、もちろんひとりひとり感じ方、考え方はちがう。それはきっと、恋愛の中身がひとつひとつちがうようなもので、あの人の思う「恋愛」とその人の言う「レンアイ」がちがうかもしれないのと同じこと。

じゃあどうして改めて?というと、それはわたしが恋愛感情と性的欲求のある世界のことを知りたいなと思うからだ。できれば親しいだれかと、「そう感じるんだ」とか、「へぇ、そんな風なんだ」とか突き合わせてみたい。そんな機会はなかなかやってきそうにないけれど。

でも、もしかしたらわたしとは逆に、「それってどんな感じ?」と思う人も、とても少ないながらいるんじゃないかと思う。だからこれは、同じ気持ちを共有しようというよりも、「なにそれ?」と思う人向けかもしれない。

 

  • 「ない」っていうのは、カット&ペーストみたいに単純じゃない
  • 透明な箱の中から、「普通」の世界を見下ろしているみたい
  • 「すき」はひとつじゃない
  • 宇宙飛行士にあこがれるみたいに、恋愛にあこがれている
  • きっと、不可解な世界
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セクマイといちごジャム

何年ぶりだろう、いちごジャムを作った。
いちごジャムを作れる年はそうそうやってこない。スーパーでお行儀よく並んでつやつやテカテカしてるイチゴは、ジャムにするにはもったいない。ときどき産直に加工用のイチゴが出ているけど、加工用と言うわりにきれいだしお高い。ジャムにいいのは、形は悪くても味が濃いもの。できればすっぱめがいい。

この春に引っ越した先で小さな個人商店に通うようになって、「ここならいけるんじゃないか」と期待していた。もともと不揃いだけど味が濃いイチゴが並んでいるし、大きめの加工用のイチゴが店頭に出されていたから。

思った通り、今週も加工用のイチゴが出されていた。しかも少量、1パック100円。
こんなこともあろうかと、レモン果汁を用意しておいてよかった。
ただ、瓶だけがどうしても見つからなかった。イチゴを手に入れてしまったので、瓶を手に入れるためだけに、ちょっと離れたホームセンターに行くことにした。

準備は万端。

イチゴは洗って、大きいものは切って、砂糖とレモン汁にまぶしておく。数十分でいいらいいのだけど、気づけば4時間くらい経っていた。なかなかの果汁の出具合。

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途中、鍋が大きすぎたので小さなものに移し替えた。たくさん作れたらどうしよう、と期待しすぎだった。ついでに瓶も大きすぎ(期待しすぎ)で、半分も届かなかった。

 

ジャム作りというのはシンプルな分、その人の性格が出ると思う。わたしはいつもちょっと足りない。用心しすぎるからだと思う。
案の定煮詰め足りなくて、寝る前に煮たものが今朝起きるとイチゴシロップでしかなかった。

仕方ないので、煮詰めなおす。多少はやり直しが効くのもいいところ。
火を止めるタイミングになると、ジャムが宝石みたいにきらっとする気がする。

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無事、好みのゆるめのジャムに仕上がった。
早速出来立てをいただく。瓶に移し替えてもキラキラ。
きび砂糖を使ったせいか、思っていたより甘かった。それでも残る、耳の裏につんとくるような甘酸っぱさで迎える日曜の朝のしあわせ。

 

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昨晩ジャムを煮た後に見たドラマ、「きのう何食べた?」第2話で奇しくもいちごジャムを作っていた。その前日に見た第1話の買い物のシーンがまるで自分のようだと思っていたら、作っているものまでかぶっていて笑えた。

www.tv-tokyo.co.jp

ゲイのカップルが主人公で、西島秀俊さん演じるシロさんが晩御飯を作り、2人で食べるという話。

ドラマ自体はセクシュアル・マイノリティ云々ということが中心軸にあるのではなくて、きちんと食べて暮らすということの登場人物がゲイのカップルだったというだけのように見える。実際、ゲイということが料理の内容を左右するわけではないし、ゲイであるかどうかということが話の本質を大きく変えてしまうようにも思えない。主人公がゲイであるということが、原作である漫画や今回のドラマの視聴者層を根底から変えてしまうものかというと、これもまたそうでもない気がする。

そう思いながらも、「セクマイだからこそ」という部分が成り立たせているところもあるような気がして、ちょっと切ないような、悲しいような、でもだからこその幸福感のようなものが混ぜこぜになった。

わたしはゲイではないし、そもそも男性ですらない。
強いて言うならAロマンティックでAセクシュアル。恋愛感情を持ったことはないし、異性同性問わず誰かに性的に魅かれたこともない。
それで困ること、思い悩むことはあまりないけど、ふとした時に「普通」の世界を遠くに感じる。街中に異性同士のカップルや夫婦しか見かけないことも、ときどき不思議で、奇妙で、仕方がなくなる。

セクマイだろうが「普通」だろうが、生活や暮らしというものが生きている限り続く。何をしなくともおなかは減るし、洗濯物や部屋の埃も何もしなければ溜まっていく。
掃除ロボットを筆頭に毎日を助けてくれる家電があるし、便利な半調理品、家事外注サービスも人気だろう。モノやお金に頼らなくても「家事分担」という手だってある。
生活すること、暮らすことは消化してもしきれない「面倒」なことで、できれば簡単に済ませたい、思い悩まされたくない――というのが主流の考え方だろう。

わたしだって、そう思ってきた。どうにかならないものかと、あれこれ考えたりもした。でも、毎日「面倒なこと」が片付くことなく乗っかっているというのは、なんともすっきりしない。
生きること、生活すること、暮らすこと。それをただひたすら「こなす」ものとして扱っていくのは、なんかちょっと違うんじゃない?と思うようになってきた。ほんとはもっと、大事にすべきことなんじゃないの?と。これについてはまたいつか書きたい。

 

で、生活し、暮らすこと、だ。

もちろん誰にとっても大事なことなのだけど、そこに含まれるありふれた諸々のことが、セクマイにとっては時にどうしようもなく手に入れにくいものだったり、憧れてやまないものだったり、毎日の中にあることに「普通」では考えられないくらい感慨深く思ったりするものがあるんじゃないかと思うのだ。

特別な誰かと「面倒」なことを毎日毎日、嫌になるくらい繰り返すこと。
友人や恋人、血のつながった家族でもないけれど、それでもどうしても無下にはできない誰かがそばにいて、その誰かのことを、「家族」として話題にできること。そう、周りから当たり前のように認められること。
もしそんな「誰か」が近くにいなくても、「いつかそうなるといいな」と夢見られること。

ただ身辺を整えて、食べるものを用意して、仕事に向かい、自宅に戻り、また明日のために準備をする。
そんな無限のループにはセクマイかどうか、「普通」かどうかなんて全く関係ない、誰だって同じだと言われればそれまでだけど、その日々の「暮らし」の重みが少しだけ違うんじゃないかと、ジャムを煮て、件のドラマを見て思ったのだ。

意識して整え続けなければ、簡単に壊れてしまうもの。
当たり前のように家の中と外の世界が地続きにあるのではないから、大事に大事にあたため、守っていかなければならないもの。
いくらでも簡単に済ますことはできるけど、自分が自分を軽んじたら、簡単には戻ってこれなくなりそうなもの。

誰だってそうだと言われれば反論できないけれど、自分や誰かを労わって食卓を囲むこと、環境を整えること、関係や立場を維持していくことに「普通」とは少し違った向き合い方をしているのかもと思う。

 

そうは言っても、ドラマの主人公シロさんのようにはいかない。
あの人は「暮らす」ことに関してとんでもないスペシャリストだ。

でも、一年に一度、ジャムを煮るくらいだったらできるかもと思う。
ジャムを煮て、ドラマを見て思ったのだけど、セクマイとジャム作りはぴったりくるような気がする。
じっくり時間をかけて、不揃いなものを一つのきれいな形にまとめていく。
日々の違和感の代わりに、煮ると出続ける灰汁をていねいにすくう。
雑味のもととなるであろう灰汁だけど、全部取り切ってしまうと味気ないような気もする。
焦がさないように、煮詰めすぎないように注意を払い、そのことだけに没頭する。無心になる。
出来上がったジャムのキラキラ具合に満足して、翌朝パンと一緒に食べることを心待ちにする。

 

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あのドラマはほんわかして、幸せそうに見えるけど、セクマイと「普通」のずれのようなものは、言葉を知っているか、偏見がないかどうかとかそういったところにあるのではなくて、毎日積み重ねられている当たり前のことの一つ一つに紛れ込んでいるということを考えさせられる。

そんなずれのバランスをうまく整えるのにも、ジャムを煮るのはいい。特にイチゴはきれいで、明るくていい。
いちごジャム一つに、ドラマ1話に、考えすぎだと笑われそうけど、セクマイといちごジャムの組み合わせが妙にしっくりきてしょうがなかった。