ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

マイノリティを名乗りたいわけではない、だけどそれでも

マイノリティ、特にセクシュアリティに関する記事が出たり、訴訟があったり、運動があったりすると、「好きにすればいい」、「自由じゃないか」、「そんなに細分化/カテゴライズしたいのか」なんて言葉が、定型句のようにコメント欄に並んでいたりする。ネットでの発言は偏りがあるというのはわかっているし、その偏りについておおよそ想像はつくけど、「ふつう」はどんな風に受け止めるんだろうと、つい見てしまう。

そうか、と思う。
偏っているにしても、そこにある空気感と、日々境界をなくそう(ごまかそう)と意識している空気感とは、そんなに違わないのかもしれない。

「色んな人がいる」、「違って当たり前」、「自由にすればいい」——それは、その通りなのだ。そう思う人たちはある意味寛容で、だからこそ、ときどきポコッと湧き上がるこの手の話題にうんざりなのだろう。わかる。
「わざわざそんな、分けたらきりがないことを言わなくても」、「なんでも自由でないと気が済まないんだね」、「他人の嗜好(or指向)とか、聞きたくもない」という率直なもの(嗜好の話じゃないんだけどな…)も多い。その通りだろう。わかる。

わかる。
だって、「ふつう」に対して、似たようなことを思っていたから。
同じなのだ。

「「ふつう」はそういうものなんだろう」
「それぞれ違う(自分は自分)」
「誰が誰と付き合ってる/結婚したとか聞いても…」
少数派が多数派にそう思うのと、多数派の人が少数派に対してそう思うのと、何が違うのか。線引きして、そちらはそちら、こちらはこちらで済まそうとしている点では、どちらも結局同じこと。だから、そういうことをやってるわけではない。わざわざ、ちょっと音量大きめに物申す時は。

 

じゃあ、なんなのか。
どんな話をしているのか。しようとしているのか。

 

セクシュアリティに限らず、一人一人に色んな性質があって、その中にはメジャーなものも、そうでないものも、色々ある。それらが全部組み合わさっての「自分」なので、「自分」と同じ人にそうそう出会えないことも、出会えなさそうに見えて、思いがけないところでばったり、なんてこともある。つまり、圧倒的に「違う」という隔たりがデフォルトでありながら、それと矛盾しない形で、何か大きなものの一部でもあるということ。全員がバラバラというのでも、バラバラの中で小さな集団がいくつも形成されているのでもなく、バラバラでありながら、全体。それが自然なように思えるし、たぶん理想。

じゃあ、「自由なんだから、好きにしたらいい」は、どうなのか。
違いがあるということが認識、あるいはある程度許容されているという意味では、バラバラ。だけどそれは、たぶんずっと、バラバラなまま。「好きにしてたらいいよ、こちらも好きにするからね」、たぶんそういうこと。そんなバラバラは、似た者同士でくっついていく。一つ一つはバラバラなはずなんだけど、気づけばいつしか、大きな塊ができていて、そこに背を向けるか、その大きな塊の中の「バラバラ」のどこか近いところと「似た者同士」になって、くっついて、「全体」になる。圧倒的な数の差がある中での「好きにしたらいいよ」は、つまり、そういうこと。

 

別にそれが、いいとか悪いとかそういうんじゃない。
主張するとか、認めて欲しいとか、理解して欲しいとかそういうんでもない。
「〜して欲しい」とか、違いを表明することを目指す時点で、それは「バラバラ」を、つまりは隔たりを作って、分裂して、かろうじてある偽物の「全体」を解体していくということでしかない。それは、大きな群れから離れ、孤立し、「自由」に一人でやっていきますよ、ということで、非力な勢力には、はじめから結果のわかった負け戦で、そんなものを目指すほど純粋でも、孤高でも、志高くもないし、ましてやそこまで自惚れてもいないし、馬鹿でもない。

 

その真逆で、闘いたくないのだ。
だから、白旗だと思ってくれていい。いや、闘ってるんですよ、邪魔しないでください、という人もいるかもしれないので、「わたしは」と言っておいた方がいいかもしれないけど。「わたしは」、もし、「自分はこうなのだ」と言うことがあるとするなら、それは降参するため。もう「全体」にくっついているのは疲れて、とても自分の両腕じゃしがみついていれなくなったから、この手をいったん離すよ、ということ。それは、負けとか、助けて欲しいとか、そんなことではなくて、なんかもう、「それしかなかった」、そういう感じなんじゃないか。違ったら、ごめん。

 

 

言葉を知らない時の方が自由で、あれこれ考えなくて済んでいたんじゃないか。そんな気がして、カテゴリーとか、関連するネットツールから離れてみた。奇しくもソーシャル・ディスタンスなご時世で、小さな集団のみならず、まるっと大きな世界からも離れることができた。爽快で、自分というものが小高い山の上の小さな小屋に住まう者だとしたら、突如全ての窓が開いて、心地よい風と綺麗な景色が飛び込んできたような開放感で、たぶん、生きてきて一番幸せな時間だったと思う。

まず「全体」ありきではなくて、まず自分がいる。外との境界はなくて、自分丸ごとが世界。世界の中に自分がいる。ちょっと話が大きくなりすぎたけど、要は、いかに無意識にがんばっていたかということだ。自分じゃなくて「自分」を。うまくいかないなんて思っていた「自分」は、よくがんばってた自分だったんだなと思った。

大なり小なり、みんなそうだ、と言われればその通り。社会というのは、ある決まりごとに法ってやっていかないと成立しないわけで、その決まりごとは最大公約数よりも賛成多数である方がいい。うまくいく。だから、それに適合しない場合はしょうがないし、でもそれだとあんまりだから、倫理的・道徳的に解決されたりする。運がよければ。

だから、「しょうがない」というのは、ある程度みんな思っている。東からのぼる太陽に西からのぼれとは言わないし、東からのぼるのならわたしが東に行きましょう、そういうこと。初めから東に住まう人にとっては、「そんなの当たり前」かもしれない。だって、太陽は東からしかのぼりようがないんだし。でも、そうでない世界もある。それは、月とか火星とか別の銀河系とか、よくわからないけど、そういう次元のことではなくて、同じ地球でのお話。最初から東にいる人は「好きにしたらいいよ」、と言う。それなら、わたしも、はじめから東にいたかった。西から東に、走るんじゃなくて。

「みんなそういうもの」だとしたら、言えるだろうか。
「みんなそういうものだから、我慢しろ」
「みんなそういうものなのに、最近はやたら自由を求めちゃって」
「みんなそういうものだけど、どうしてわざわざ?」
みんなそういうものだから、わたしの知らない「そういうもの」が、どれだけたくさん、この世界にあるのだろうとわたしは思う。時々飛び込んでくる、わたしとは違う「そういうもの」にちょっと居心地が悪くなって、どう捉えればいいのかわからなくなって、でも誰かにとって「そういうもの」が当たり前にあって、わたしには理解できそうもないことが、この世界には到底知り尽くせそうもないくらいにあるのだと、「そういうもの」を自分の世界の片隅に置いてみたりする。好きになったり、仲良くなったりできないかも知れないけど、「そういうもの」で世界はできていることに、ときどき思いを馳せられるように。

そういう、想像力。
たぶん、全然足りてない。

 

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補う方法は、いくつかある。

「全体」を気にせず、自由に生きる。カテゴリーに縛られず、自分として生きていく。自分の中で、全体を作り変えていく。これが挑んでみているところで、わたしにとっての理想。だけど、「全体」にしがみつくのと同じか、それ以上に労力がいる。「自由にすれば」と言われても、そう簡単なことではない。自分の言葉で、自分のコミュニティーに通じるように翻訳しながら、コミュニケーションを繰り返していく必要がある。たとえば、母語は日本語なのに、気づけば周りはベンガル語話者で、Google翻訳やら、文明の利器を駆使しながら、なんとかそれらしく話している感がある。頷いているから、通じているんだろう、そんな感じ。それでも自分で話そうとするし、わからなければわからないと言う。そこが、「全体」にしがみつくのと違うところ。自分の圧倒的弱さを認めるところから、晒すところから、スタート。

ひとりでできることは知れているので、少数のみんなも一緒に、ということであれば、もっと違う方法が必要になる。逐語訳的にコミュニケーションを、というのは、誰もが気力と意欲を持ち続けられなくて当然だし、誰かひとりが自由になれても、それはその人が幸運だったとしか言いようがない再現性の低いものなので。
手っ取り早いのは、狼煙を上げることだろう。ここにいるよ、ここにいますよ、と。それは、はぐれてしまった誰かに送る合図であり、別の集団に送るメッセージでもある。少しだけ、インパクトがある。だけど、「何かやってるな」で終わる可能性の方が高いだろう。ちょっと近づけば、白旗を上げているのが見えるかもしれないんだけど、そこは行きます、こちらから。でも、そこまでしても、結局違いを作り出して、隔たりを生み出して、「何かやってるな」と思われておしまいならいい方で、ご丁寧に「そんな無駄なこと」がもれなくセットで。

そういう、八方塞がりな状態なのだ。どうあがいても、がんばっても。
がんばっても、がんばらなくても。
でもなんか、たぶん限界なのだ。「自由だよ」、「違うものだよ」、「いいじゃん、それでも」——そういうことじゃない。許可も認証も求めていない。ただもう、そこから降りたいのだ。そして、「違って当たり前だよ」と言えるくらいに、「当たり前」に浸ってみたりしたいのかも。当然のことだけど、それは息をするみたいに自然で、くつろげて、最高だから。

じゃあ、どうすればいいのか。どうしたいのか。どうして欲しいのか。
それは、わからない。ずっと考えているんだけど。途方もないことのように、どうしようもないことのように思う。
だけど、それは少しずつ、時間をかけて広まっていくものであることも確かで。人種とか、年齢とか、性別とか。自分ではどうしようもないことが、自分以外のところから変わっていく。だから、その最初の一歩くらいに思って、「おー」とか、「なんだこれは?」とか、見たこともないものを驚いて見るくらいでいいんじゃないか。ジャッジしないで。許可を与えようかどうしようかとか、考えないで。マインドフルネスに、受けて流して、通過していくものとして。そうすればとりあえず、壁は作られない。余裕があれば、驚きの世界のことを想像してみたりして。
ちょっと居心地悪いのは、お互いさまだ。

 

声を上げずに済むなら、カテゴライズせずに済むなら、それが一番いい。でも、ひとりではどうしようもなくなったから、そういうものがあるのだと思う。いずれなくなるかもしれないし、そうなるのが理想だけど。
喧嘩しようとしてるのでもない、主張したいのでも権利がどうのこうのというのでもない(あるとすれば、それは本当にその権利があるからで)、理解して欲しいのでも、認めて欲しいのでもない。自分一人が、このカテゴリーが、この性質が、というのでもなくて、たぶん根っこにあるのは、結局のところは、「もっとみんなが生きやすいように」だと思うのだ。「なんかまた言ってる」と思ったら、「きっと、もっといい世界にしたいんだな」と平和な気持ちで拡大解釈していただけたら理想だなと思うけど、それすら高望みしすぎだということは、十分よくわかっている。