ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

誰かのしあわせがうれしい、というのはうれしい

金曜日の夕方に、誰かにとっての「いい知らせ」が聞けるとうれしい。ほっこりとした気分で家路について、ほくほくとにやつきながら、夕食とお風呂を済ませることができる。そんな気持ち、わかるでしょうか。

何をいい人ぶって、なんて言いたくなる気持ちはわからなくもない。文字にしてみるときれいすぎて、うそっぽい。だけど、ご安心を。誰かの「いい知らせ」は心からよろこびましょうね、そうすべき、なんて微塵も思っていないから。

だけどあるでしょう、どうしようもない気持ち、理屈では説明できないけれど湧き上がる感情というの?それと同じで、自分でもなぜかわからないけどうれしい。自分のときの「いい知らせ」より。自分でもちょっと戸惑う。

どうしてだろう。自分にとっての「いい知らせ」がこれまでなかったとは言わない。言わないけれど、感情の揺れ動きからすれば、自分事の方が他人事みたいだ。客観的に「これはいいことだ」というのはわかる。だけど、それについてうれしいとか、ほっこりとほくほくした気持ちのまま週末を迎えるなんてことは、できない逆立ちを成功させるより起こりえない気がする。

ずいぶんと大人になって「実はサンタクロースは実在したことが判明した」と聞いてほくほくするようなものかもしれない。「いや、そんなのどうだっていいでしょう」と鼻で笑っちゃう大人がほとんどで、そのほとんどの大人の数よりも、「そんなの」に目もくれないし、気づきもしない人の方がずっと多いにちがいないけど、でもたぶんそんな感じ。

子どもはちょっとそわそわするだろう。「うっそだぁ」なんてかっこつけながら、内心どきどきするにちがいない。「うちにも来たりして、なぁんてね…」と想像してみたりして、うれしそう。もし、そのそわそわな子どもの反応を物陰から見ることができたら、ほっこりほくほくしてしまう大人、絶対いると思うのだ。サンタがいようがいまいが、大人の自分にはちっとも関係ないはずなのだけど、それはなぜだかほっこりほくほくさせてくれる。

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あるいは、きれいごとついでにきれいの上塗りをさせてもらえば、それはちょっとした希望だからうれしいのだろうか。もしかしたら、そんな思いがけないことが突然降って湧くことってなくはないのかも、と思えるから。

サンタの例だと、はんっと笑うしかできないわ、と言うのなら、もっと俗っぽい話はどうでしょう。たとえば、好きとか嫌いとか言うほど親しいわけではない身近な人が、ほんの思いつきで買った宝くじを当てたらしい、だから最近すごく穏やかで幸せそうだと小耳にはさんだとしたら。いや、高額宝くじが当選したことを吹聴してまわるとろくなことがないわけで、そんな話はやっぱりあり得ないと言われればそれまで。だけど仮にそういうことがあったとしたら、「宝くじって本当に当たるんだ。ちょっと買ってみようかな、思いつきで」なんて思わないだろうか。(と書きながら、わたしはたぶん買わないけど)

宝くじを買ったことはないから推測にすぎないけれど、宝くじを買おうと思う人の大半は身近に高額当選者がいるわけではないはずで。だけど、見ず知らずの人が当選しているという事実は、「まぁ当たるわけないだろうけど、当たるかもしれないし…当たったらラッキーだな」と夢を見させてくれるんじゃないか。それが見ず知らずの人のものであろうと、誰かの「いい知らせ」が存在するという事実は、ちょっとした希望になることがあると思う。

でも、単に「希望になるからうれしい」というのもちょっとちがうかもしれない。希望にはなるけれど、「自分にも同じようにいいことがあるかも、あってほしい」と思うから「うれしい」わけではない気がする。自分が徳をするわけでもない話、たとえば自分自身にその「いい知らせ」が降りかかってほしいなんて微塵も思わないのにうれしくなることだってあるから。それは、どうして?

「うれしい」の理由は、具体的なところを取り去ったところにあるんだろうか。がんばっている人が認められてよかったな、世の中捨てたもんじゃないな、というような。だけど、「だから自分もがんばろう、きっといいことあるぞ」とはならない。やっぱり、自分の身にいいことが起こるかどうかは大切じゃないのだ。

そうすると、うれしそうな人が近くにいたらうれしい、それしか思い浮かばない。しあわせそうな人が、あるいはその人のまわりまでしあわせにできちゃうようなハッピーな人が近くにいるのだとしたら、それだけでうれしい。愛する人がしあわせだとそれで十分、みたいな話があるけど、その対象がちょっとばかり広いだけなのかもしれない。自分がどうとかこうとか、そういうのは関係なくて。
ラッキーだなと思う。自分の「いい知らせ」の数よりも、誰かの「いい知らせ」の数の方がずっと多いだろうから。その方が、何倍も多くの「うれしい」を堪能できる。

たまに、「いい知らせ」なのに「あまりよろこぶと悪いから…」と変な気遣いを見せる人もいる。へたによろこぶと、「なによ自分だけ浮かれちゃって」と言われてしまうのだろうか。「あなただけ、ずるい」って。もしそれで「大したことないんだけど…」なんて言葉を「いい知らせ」にかぶせてしまうのなら、それは同じ食事を前にしながら、「あまりおいしくないんだけど…でもおいしいね」と言っているような奇妙さがある。だから、(自分のことは棚に上げるけど)うれしいことは目一杯うれしそうにしていてほしい。他人がどう思うかなんて気にせずに。あるいは、わたしが目一杯よろこんで、うれしそうなところを引き出したい。そしたらもっとほくほくできるので。

自分の「いい知らせ」をいかによろこぶかは今後の課題にするとして、今度の月曜日には「金曜の夜こんなにいい気分だった」と伝えてみることにしよう。あ、これも目一杯うれしいことを示すことに入れてもいいのかな。