ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

恋愛のない世界のこと

誰かに恋愛感情を持つことがないってこんな感じ、というのを書いてみたい。
(当初は誰かに性的欲求も抱かないというのもセットにしていたころ、あまりに長くなったのでそちらはまたいつか)

恋愛感情を持たないといっても、もちろんひとりひとり感じ方、考え方はちがう。それはきっと、恋愛の中身がひとつひとつちがうようなもので、あの人の思う「恋愛」とその人の言う「レンアイ」がちがうかもしれないのと同じこと。

じゃあどうして改めて?というと、それはわたしが恋愛感情と性的欲求のある世界のことを知りたいなと思うからだ。できれば親しいだれかと、「そう感じるんだ」とか、「へぇ、そんな風なんだ」とか突き合わせてみたい。そんな機会はなかなかやってきそうにないけれど。

でも、もしかしたらわたしとは逆に、「それってどんな感じ?」と思う人も、とても少ないながらいるんじゃないかと思う。だからこれは、同じ気持ちを共有しようというよりも、「なにそれ?」と思う人向けかもしれない。

 

 

「ない」っていうのは、カット&ペーストみたいに単純じゃない

まず初めに断っておくと、たぶんこの話はそれほど単純じゃない。

恋愛にすごく喜びを感じる人からすれば、「恋愛しないなんて、人生つまんなくない?」と思えるかもしれない。それはたぶん、恋愛感情を切り貼りして考えているからだ。自分の持っている/持ってきた感情や感覚が「ない」と想像すると、そんな風に見えるのも当然だと思う。

わたしは自分にないものが「ある」ということを、ときどき想像してみる。
顔のない誰か、異性だったり、同性だったり。その人のことを好きでたまらない気持ちや、会いたくてしょうがない気持ち。できるだけ近くにずっと一緒にいたい感じ。

もしそんな気持ちを持っていたら、わたしは今のわたしと同じと言えないかもしれない、という気がしてくる。
もしかしたら結婚したいと思うかもしれない*1
自分と相手の子どもが欲しいなんて考えてみたりするんだろうか。
できれば一生、ずっと一緒にいたいという気持ちって、どんな感じなんだろう?

正直、うまく想像できない。
それと同じように、「恋愛感情を一度も持ったことがない」と想像することもきっと難しいのでしょう?

ただ、同じ「難しい」にしても、「ある」ものを「ない」と想像することと、「ない」ものを「ある」と思い描いてみることは、同じようでちょっとちがうような気がする。

「ない」を考えるときは、今ある何かが「なくなる」ことを想像しないといけない。自分がすごく大切にしているもの、当たり前で考えてみたこともないけど「ない」と困るもの、「ない」よりはあった方がいいもの――などなど。もしかしたら、今は手に入れていないけど、いつか手に入れる可能性のあったはずのものが急に閉ざされてしまう感じがする場合もあるのかも。
少なからず失うものがあって、あまりいい感じのする想像じゃない。

「ない」ものが「ある」ことを想像するのは、リアリティに欠ける。なんというか、自分のこととしては思い描きにくくて、ドラマや映画の中のことみたいに他人事だ。自分のことを思い描いているはずなのに、自分じゃない誰かが楽しそうに笑っていて、自分と自分の距離がどんどん開いていく*2違和感ばかりが積み重なる。
もしかしたら、だけど、自分とは違うセクシュアリティジェンダーの話を「気持ち悪い」と切り捨ててしまう気持ちは、「ある」をうまく想像できなかった結果なのかもしれない。(想像する方向性は工夫と慎重さが必要だと言える)

よく、五感のいずれか(あるいは複数)を失うと、失った感覚をほかの感覚が補完するようになるのだという話を聞く。なるほど…と言いたくなるけれど、たぶんそれはちがうのだろうなと思う。
「ある」人からすれば、それは「ない」を補っているように見えるかもしれないけれど、「ない」が半永久的に続く状態にあるのだとしたら、「ない」のためにほかの「ある」が機能しているのではなくて、今持っている「ある」だけで、ひとつの「ある」が作られているだけじゃないのかな、と。それは、何かを補うということとはまったく違う感覚のはずだ。

それと同じで、今「ある」ものをつまんで捨てて、「ない」を想像してみても、それは「なくなった」ことを想像しているのであって、「ない」という「ある」を思い描いているのではないのだ。
ちょっとややこしいかな。

要は、「ある」人にとっては「ない」ように見えるものが、当の「ない」人にとっては当たり前のことで、ある意味別の<ある>を持っているということ。
その<ある>は通常の「ある」の代わりをしたり、補ったりするものではなくて、まったく別のかたちのものと思ってもらっていいかもしれない。

透明な箱の中から、「普通」の世界を見下ろしているみたい

 そんなわけなので、恋愛感情や性的欲求を持つかどうか、あるいはその対象が誰なのかによって、見えている世界はけっこうちがうんじゃない?と思う。

これは、「恋に落ちたら世界がまったくちがうものに見えた」というのと似ているんじゃないかと想像する。ただそれは、「恋しているときとしていないときとでは見えるものがちがうでしょう?だから、ほら、あなたとわたしの世界はちがうんだよ」ということではない。恋をしていないとき=恋愛感情を持たない世界、ではないと思うから。
「見えている世界がちがう」というのは、そもそも前提がちがうのだから、日常的な見え方からちがうはずでしょう?ということ。

 

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同じ世界に存在しているのに、まったくちがう層に生きているんじゃないか、と思うときがある。
同じ空気をすっているのに、同じ時間が流れているはずなのに、わたしの世界と「ある」の世界は絶対に交わらずに、違う層ですれ違っていく。
思えば、自分のセクシュアリティについて知る以前から、言葉にならないこの感覚を抱いていた。

たとえば、街中やショッピングモールでは、カップルや夫婦、小さな子ども連れの家族を見かける。見かけない日がないと言っても過言ではないかも。
そんな光景は、ちょっとした異世界のようで、不思議な感じ。自分は空気になったか、透明な分厚いアクリル板でできたボックスの中にいて、その世界から少し離れたところから見下ろしているような感じがすることすらある。

それが悲しいとか寂しいとか、つらいという風に感じる人もいると思う。わたしはただ、それを「そういうもの」と思ってきたので、その距離について特別な感情を持つわけではない。強いて言えば、「不思議」という気持ちしかない。

 

同じ場所に存在しているのに、そこに含まれていない感じ。
考えすぎだとか、悲劇のヒーロー/ヒロインだとか、そう思って見るからそう見えるんだとか――そう言われてしまえば反論できないのだけど、他のセクシュアル・マイノリティの方はどう見えてるのだろう?と少し気になる。
「ある」とか「ない」とか、対象がちがうとか同じとか、それだけの話ではないような気がするのだ。

でもたぶん、そういうものでしょう?
もし、異性愛者が異性愛じゃないカップルや家族を街で見かけたら?どう感じるかはわからないけれど、「あれ?」と思う人も多いのかもしれない。でもそれは、単に絶対的な数が少なくて見慣れていないから、ということだけではないと思う。突き詰めれば、やっぱりどこか「ちがい」のようなものを感じるからじゃないか。もし異性愛者と同性愛者の数が逆転した世界があったとしても、やはり異性愛者の同性愛者に対する見方は変わらないのではないかと思う。

誤解がないように付け加えると、その「ちがう」はどうしたって同じじゃないとか、そういうことが言いたいのではない。愛する対象が異性か同性かで、愛の価値や社会的な立場の優劣があっていいということでもない。同じように思えるのに、同じ枠組みのAとBというちがいだけでしかないのに、感覚として想像しにくいこと、「そうだよね」とうなずき合えないことが確かに存在するという話。

きっとこのちがいは、異性愛以外のセクシュアリティが「当たり前」に含まれるようになっても、大きく変わらないのではないかと考える。*3

「すき」はひとつじゃない

 じゃあ、誰かを特別にすきと思わないのか、それってやっぱりさみしくない?と言われると、そういうわけでもないからややこしい。

これまたわたし個人の話になるんだけど、たぶんアロマンティック云々とは無関係に、人との心理的距離が近いことが苦手だ。家族でも、友達でも。節目ごとに人間関係をばっさりリセットするようなところもある。「友だち」と呼べる人は片手で余るくらいなほどだ。

でもだからこそ、それでも関係が続いている人たちというのはとても大切だったりする。性別関係なく、恋愛感情を超えていけるのでは?と思うくらいすきだったり。めったに合わないし、連絡もそんなにとらないけど、どこかで元気にしているのならうれしい、という感じ。

そんなに熱量があるのなら、もしかして、そのうちの一つくらいは恋愛感情だったりするんじゃない?と考えてみたこともある。
でも、やっぱりそれはしっくりこない。そのひととずっと一緒にいたいわけじゃない。自分だけを見ていてほしいなんて全然思わない。相手のことをもっと知りたい!というのもちょっとちがうかな。

もし、そのうちの誰かと付き合うことがあっても、その人への「すき」がそれ以外の人への「すき」より強いものなのか、特別かというと答えはノー。
もし、とてもすきと思う人がいて、でもその人は別の誰かをすきだったとしたら?どうあがいてもその気持ちを抱けそうにないという気はするかもしれないけれど、別にそれは全然問題ない。はじめから、わたしの「すき」と誰かの「すき」を競いたいわけじゃないし、相手が誰かをすきだからと言って、自分の思う「すき」が減じられるわけでもないし。

「すき」は比べられない。種類ごとにわけられるものでもない。
友人であるAさんをすきなのと、また別の友人Bさんをすきなのは、同じ「すき」ではない。
Aさんといるときの自分と、Bさんといるときの自分はちがうもので、それぞれ関係性もちがって、強いて言うなら「Aさんタイプのすき」、「Bさんタイプのすき」がある感じ。

「すき」というのは一人一人に向けたオーダーメイドのもので、代わりは効かない。でもきっと、恋愛感情というのもそうなのでしょう?誰かへの恋愛感情が失われたとき、別の誰かへの恋愛感情で埋められないみたいに。

だから、恋愛でも友情でも家族愛でもない「すき」で成立する、まだ名前のない関係というのは絶対に存在すると思っている。

宇宙飛行士にあこがれるみたいに、恋愛にあこがれている

そんなこといっても、本当は恋愛をしたいのにできなくて、強がってるだけなんじゃない?なんて言われそう。
強がっているかどうかはわからないけど、まったく恋愛してみたくないと言うとウソになる。でも、その「してみたい」は「恋人がほしい」みたいな感覚とはちょっとちがうかもしれない。

たとえば、わたしは宇宙飛行士にあこがれている。
彼らはなんというか、一言でいうとかっこいい。宇宙に行けるからとか、知識をたくさん持っているからとかそういう具体的なところではなくて、心構えというか、気概みたいなところ。実際に宇宙に行くかどうかなんてわからないのに、日々、宇宙に行くための訓練をしている。宇宙に行くときは最悪の事態を想定して、さまざまな準備をする。ごく当たり前のこととして。

そんな生き方や考え方がかっこいい。あこがれる。
でも、じゃあ宇宙飛行士になりたいのか?というとそんなことは全然思わない。宇宙に行かなければ見れない光景はきれいかもしれないけど、宇宙飛行士になったからといって「かっこいいわたし」になれるわけではないし、宇宙飛行士にならなければあこがれの生き方や考え方に近づけないわけでもない。
あこがれることと、それになりたいと思うことは別なのだ。

それと同じことが恋愛にも言える。
この時代の、この社会に生きていれば、意図的に情報をかき集めなくても、恋愛というものに触れることができる。正確には、恋愛とはどんなもので、どういった経験や感情をともなうものかという知識みたいなもの。

恋愛感情を持たない人の中には、恋愛にまったく関心がない人もいるし、恋愛ものを見聞きしても理解できないという人もいる。人それぞれ。
自分はどうかなと振り返ってみたときに、やっぱり多少なりともあこがれがあったなと思う。子どものころ少女漫画雑誌「りぼん」なんかを読んだりして、恋する主人公を見ると、かわいいな、誰かをすきで、その誰かにすかれるっていいなと思っていた。今もたぶんそう。

でも、じゃあ恋愛感情と恋人がほしい?と言われると、別にいらない気がするのだから不思議。
たぶん、漫画の主人公をかわいいなと思ったのは、そのひたむきさにあこがれたから。恋愛そのものにあこがれたわけではないのかも。
それでも、恋愛感情ってどんなものなのか、何かや誰かから見聞きしたことの通りなのか、実際に体験できたらな、とは思う。でも、その「体験する」は自分じゃない誰かの体や心に乗り移って見聞きするといった感じで、「自分が」という感覚はない。
宇宙飛行士にあこがれても、なりたいとは思わないのと同じように、あこがれる部分に少しでも触れられたらそれでいいかな(触れられなくても別にいいな)という感じ。

きっと、不可解な世界

恋愛のない世界の一部のことをざっと書いてみた。あるとかないとか、ちがうとか同じとか、意外に抽象的で、きっとわかりにくいでしょう。わたしも、恋愛のある世界のことはよくわからない。恋愛のない世界をどこからどう切り取れば、恋愛のある世界の人にもこの世界の一部を垣間見ることができるか考えてみたのだけど、対比しようとすると反対側の枠に寄り掛かることになるし、切り離そうとするとつかみどころがなくなる。

いろいろと書いたけど、想像することは不可能じゃないと思っている。とても、むずかしいことだけど。
でも、人間って存在するはずもない設定のアクション映画を夢中になって見ていたりするでしょう?全然接点のない境遇のノンフィクションに、どうしてか心動かされたりもするし、自分が生きたことのない時代や世界のことを、真剣に思い描くことだってできる。

恋愛のある世界は、おかげさまでまわりにあふれんばかりにあって、フィクションでもノンフィクションでも触れることができる。「ない」側のわたしも、その場限りだとしてもその感情を追体験できて、そういう世界があることを否定せずに済んでいる。セクシュアル・マイノリティ側はマジョリティ側の情報についてある意味「恵まれている」のだ。(その情報差を埋めるためにマイノリティ側の発信があるのかも)

それに比べて、恋愛のない世界はあまりに見えづらい。存在することすら、想像されない。想像上の世界(生物)以前の話だ。そして、だからこそ、恋愛のない世界をどう語ればいいのかというのも、実はまだまだ手探りなのかもしれない。恋愛のある世界と比較するしかなくて、でもそれは「ある」の視点に立った「ない」で、おそらく日々感じている世界そのものではない。

 そんな思いもあって書いてみたのだけど、やっぱり難しいな。結局は、恋愛以外の日々の感じ方や考え方の寄せ集めとなるとすると、それは人それぞれちがうものだし、そこには「ない」という考え方自体「ない」気がする。でも本当は、恋愛の有無でも、誰をすきとか恋愛対象はどの性別かとかそういうことでもないところに目を向けられるようになった世界が、みんなが心地よい着地点なんじゃないか、と思う。

*1:(注)恋愛感情がなくても結婚したいという人もたくさんいるので、これはあくまでわたし個人の見解。

*2:あまりにかけ離れすぎていて、自分で想像しておきながら涙がとまらなくなったことがある。想像はほどほどに。

*3:でも、といつも付け足して思う。もし、異性愛以外の性愛者が知識の面でも、権利の面でも知られ、保証されるようになって、「見える」ようになったときに、どれもが「ない」層はますます見えない、存在しないものになったりしないだろうかということを考える。今はまだ、異性愛者がその「普通」をなんとか保とうとしている(ときどき躍起になっている)けど、その「普通」が拡大されたとき、異性愛者と無/非性愛者よりも、異性愛者と同性愛者・全性愛者・両性愛者のほうが明らかに親和性が高いんじゃないか。いや、「それほど単純じゃないから今だってこうなんだ」と言われそうな気もするけど。