ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

スタンスがわからない――サンドウィッチは、ハンバーガーになれないとして

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ぐるぐると考えている。
考えても考えなくても困らないことなので、見切りをつけて別のことを考えるか、解決方法を考えて、ひたすら積み上げていくことの方が、本当は性にあっている。
それでも考えてしまうのは、自分の立ち位置を早くはっきりさせたいからだと思う。

「恋愛/結婚しなくても幸せ。恋愛/結婚しないと幸せじゃないと決めつけないで」
といったことを、たまに目にする。その通りだと思う。
ただ、時々何かがつかえたような違和感がある。
それはたぶん、A「恋愛/結婚する幸せ」とB「恋愛/結婚しない幸せ」が別種のもので、対になるものではないだからだ。
それなのに、Aを選ばなければBになるし、Bを選ばなければAを選んだことになる。
でも、恋愛にも結婚にも、どうしても嫌な何かがあるわけではないとしたら、それらを望むとか、望まないとか、どうしたら決めることができるんだろう?
わたしは、AかBかを肯定・否定する理由が思い浮かばなくて、どう生きていきたいのかとか、どうあったらうれしく思うのかとか、そういった類のことがよくわからなくなっている。

どうしたいか、ということは、あることに対してどう思っているか、ということに左右されると思う。
たとえば、チーズが嫌いだったとして、目の前にあるチーズを食べないという選択肢とがんばって食べるという選択肢がある。そもそも、チーズを頼まない、という選択肢だってあったはずだ。
自分がチーズを嫌い、ということをわかっていれば、それに対してどういうアクションをとるかということは自ずと絞られてくる。
わたしが悩んでいるのは、チーズが好きなのか、嫌いなのか、どちらでもないのかわからないから、チーズに対してどう振る舞うべきかわからないという状態なのだと思う。
もし対象がチーズだったなら、「主食がチーズ」の国に住んでいるとかでない限り、それほど思い悩む必要はないはずだ。注文した料理にたまたまチーズが入り込んでいたとして、好きか嫌いか、食べたいか食べたくないかわからなかったとしても、とりあえず食べることに抵抗はないんじゃないかと想像する。(チーズにまつわる恐ろしい話を聞いたことがある、とかの場合を除いて)

わたしが悩んでいる対象は、恋愛、結婚、出産といった類のもので、チーズと同じと言われればそれまでだけど、「ライフ・イベント」に入れられるものであるからには、やっぱり人生(生き方)を左右するものだと思っている。(少なくとも、チーズよりは)
おもしろいことに、Aセクという言葉を知ってからの方が、恋愛や結婚という言葉を目にするようになったし、それらについて考えるようになった。
そうすると、自分がそれらについてどう思っているのか、どうしたいのか、気になって仕方がなくなってしまった。

わたしは恋愛や結婚の話を聞くのに嫌気がさしたりしないし、むしろすてきだな、聞きたいなと思っている。それなのに、どうしてか、自分がその中に入っていくことは想像がつかない。
もし、好きでも嫌いでもないなら、チーズのように「とりあえず食べる」ことができるんじゃないだろうか。
もし、どうしても苦手だとわかったとして、それでも「食べれる」ようになりたかったら、「がんばって食べる」ことを選ぶことができるのに。
恋愛や結婚をしようとしないことで、別段困ってはいない。だからといって、自分が今の状態を自分の意志で選んでいると言えるような理由はなにもなくて、よくわからなくなっている。「好きに理由はない」と言うけれど、それに似た感じだろうか。

 

どうしてもだめだ、ということがわかっていたら、少し絞られたのかな、と考えてみた。
たとえば恋愛の場合、スキンシップや性行為がセットであることが前提になっている(ように見える)。この場合のセットというのは、ハンバーガー屋でハンバーガーにポテトを付けるかどうかという「オプション」の問題ではなくて、恋愛がハンバーガーだとしたら、そこには必ずパティ(性行為等)が必ず含まれているということ。
このパティ(スキンシップ、性行為)がどうしても受け付けられない場合(ロマンティック・アセクシャル)、パティを抜いたり、パティの代わりに何か別のものを入れるということが考えられる。コロッケとかチキンカツとか、選択肢は色々ある。ただ、単なるハンバーガーではなくて、××バーガーという名称にはなってしまうけど。それでも美味しいハンバーガーはたくさんあるし、むしろそちらの方が好まれたり、豪華だったりすることも珍しくない。

ただ、わたしはパティのことを特別苦手ではない(性嫌悪なし)ような気がしている。
もちろん、苦手ではない=好きということではない。ただ、パティそれ自体に何の意味もないので、コロッケやチキンカツもパティの代わりになり得るのに、どうしてそれらは選ばれないのかと不思議に思う。
そういうわけなので、ハンバーガーを作りたい、という気持ちはないけれど、その存在やみんながハンバーガーを好きなことはすてきだなと思っている。
周囲の人にハンバーガーを勧められることがあったら、積極的にハンバーガーを選ぶ/選ばない理由がないだけなので、おすすめの理由を逆に質問してみたりする。
そして結局は、他にも美味しい食べ物、料理してでも食べたいものはたくさんあるので、ハンバーガーを選ぶには至っていない。

 

だったら、ハンバーガーのことなんか考えないで、好きなものを好きなように食べればいいじゃないか、と思うだろう。わたしも、そう思っていた。
でも、そう単純なことでもなかったから、ぐるぐる考えてしまう。

仮に、わたしがハンバーガーを食べずに生きてきたとしよう。
でもそれは、ハンバーガーのことを知らないということではない。ハンバーガーは至るところで目にするし、周りの人がおいしそうに食べていたり、美味しいと言っていたりするのを知っている。
わたしも、そんなハンバーガーを持っていると思った時もあったし、これから手にすることがあるかもしれないとすら思っていた。
でも、手元にあるものをよくよく見てみたら、わたしがハンバーガーと思っていたのは、サンドウィッチ(Aロマ・Aセク)だったのだ。パンで何かを挟むという根本的にはハンバーガーと同じ構造を持っているのだけど、パンの種類は全然違うし、挟める具材の量とか厚みにも若干制限がある。

わたしは気づかずにサンドウィッチを食べ続けていたわけだけど、そう気づいた後も、サンドウィッチがおいしいことに変わりはなかった。わざわざハンバーガーを食べる理由も見つからない。
そして、手元にあるサンドウィッチで「ハンバーガーモドキ」を作れるんじゃないかとも考えた。
わたしがハムサンドを好きだとして(※実際は卵サンドだけど)、そのハム(友愛や家族愛、とにかく諸々の愛情)をハンバーガーのバンズに挟むことは不可能ではない。
だけど、サンドウィッチの具材であったはずのハムをハンバーガーに移したからといって、ハンバーガーを作れたことになる(ハンバーガーになれる)かというと、そういうものでもないようだった。
食べられないものではないけれど、やっぱりそれは「ハンバーガーに似た別のもの」でしかないと思う。
それでも、まぁ、不可能ではない。

だけど、不格好な「モドキ」よりも、わたしは自分の作るサンドウィッチにも満足しているみたいだった。とてもおいしいと思うし、ハンバーガーよりも持ち運びには便利だな、気軽だな、とも思っている。
でもそれだって、かつてハンバーガーを作ろうと試みた時に楽しく思えなかったのは、パンや具材の組み合わせがよくなかっただけなのかもしれない。
違うバンズやパティ、あるいは具材や素材を試せば、楽しく思えるのかもしれない。ハンバーガー自体は、嫌いではないのだから。

 

わたしは、なんでも試してみたい方だと思う。食わず嫌いはしたくない。
本当においしいから!と言われたら、バッタのから揚げだって食べられる(はず)。
悩みや問題があれば、自分のできることはしておきたいと思う。たとえそれが、悩みや問題を根本的に解決するものではなかったとしても。
だから、なんとも決めようのない今、どうすればいいのか(何もしなくていいのはわかってるけど)よくわからない。

今までは、手元にある「ハンバーガーだと信じて疑っていなかったサンドウィッチ」のことしか目に入らなかったから、ハンバーガーを作ってみようか、なんて考えもしなかった。
でもサンドウィッチ派の人やコロッケバーガー派の人がハンバーガーを作ろうとし、その過程を楽しんでいる人だっているのを知ってしまうと、本当にサンドウィッチだけでいいの?と、何かよくわからないささやきが聞こえてくる。
ちゃんと試してもいないのに、本当にサンドウィッチ派だと言えるの?、と。

そう思うなら、試してみればいいのかもしれないのだけど、それもそう簡単なことではない。
両方やってみて比較すればいいだけのことのように見えるけど、サンドウィッチとハンバーガーを組み合わせるには、それなりのセンスが必要なように思う。
最低限、素材について、自分の好みをはっきりさせておきたい。
さらに言えば、それだけの動機があるのかどうか、そこが一番あやしいところなのだ。

 

何かが苦手ではないということは、それを好きということを意味しないし、関心があるということは切望する、ということと全く違う。
もちろん、恋愛、結婚、出産が人生に起こらないとしても、わたしは自分が幸せに生きていくだろうな、今までと同じに、と思っている。そうできる自信もある。
だから、考える必要なんて、本当はない。
わかっているんだけど、考えてしまうのはなぜなのか、それがわからない。
あるものがそもそも存在しない土俵の上で、存在しないものについて考えようとしているから?
本当はハンバーガーを作りたいのに、作れるのに、サンドウィッチ作りでごまかしているかもしれないから?
結局は、無関心故の関心みたいなものの扱いが、よくわからないのだと思う。