ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

ただ、差し出し続ける

誰かが、自分にとって当たり前じゃない世界を、知ったり、理解したりするってどういうことだろう、と考えている。

誰もがそれぞれ向き合っている問題というものを持っているわけだから、自分が属していない、直接関わりを持たないものに関心を持ったり、理解したりするというのは、やっぱりなかなか難しい。
自分がこれまで出会ってきた「知らなかったこと」のことや「まだ知らないこと(知るべきこと)」のことを思うと、みんながまだ知らないことを「知ってほしい」ことすら途方もないことなんじゃないかと思えてくる。

セクマイ関連の事柄に限らず、分母としては小さいけれど、全体にも関わる問題を、時間をかけて広めていくことは可能だと思っているし、そうあってほしいと思っている。
関心は持てなくても、理解することも難しくても、「どこかで聞いたことがあるような気がする」というのと、「全く聞いたことがない」というのとでは、大きな違いがあるだろうから。

ただ、「どこかで聞いたことがある」のだとしても、それがその人の感覚と全く違うものだとしたら、本当の意味でその事柄を知ったり、理解したりすることは難しい気がする。
それは、同じ事柄を問題として共有している人たちの間であっても同じで、やっぱり理解できる部分とそうでない部分が、どうしても出てきてしまうと思う。
だとしたら、知る、理解するよりも、その、結局のところ知ることも、理解することもできないようなプロセスというか、関係性こそ意味があるんじゃないか、大切なんじゃないかと思って、そのことについて考えてみた。

 
* * *

「いしゃ先生」という映画を見た。 
突然なんだと思われるかもしれないけど、これを見て、最近もやもやしていた部分が何なのか、少しだけわかった気がする。

昭和10年から37年まで、山形県の無医村で医者として村人を支え続けた女性の話で、実話だそうだ。
主人公の「いしゃ先生」は、村長である父親から、山村に新しく建てられた診療所を任せられる。
主人公が手放さなければならなかったもの、あきらめた上に積み上げたものというのが描かれるわけだけれど、そういったことよりも印象に残ったのが、「医学」への無理解だった。

その時代の医学がどのようなものか、地域によってどのようなばらつきがあったのか、映画を見ただけではわからないけど、無医村に医者が来たことは歓迎されていないし、その医者が女性であるということ以前に、医学というものに対して理解が得られない。
貧しく、診療代が払えないということに加えて、「病気といえば祈とう師に来てもらい、お札を貼ってもらうもの。医者に診てもらえば、かえって寿命が縮まる」というのが「当たり前」の世界だった。

そういう場所だから、診療所を開いても誰もやってこないし、往診はどうかと走り回っても門前払いされる。
診てほしいという人が現れても、「祈とう師がこれから来るのに、白衣を着た人に出入りされてては失礼になる」と家族が追い返す。
助けられたかもしれないのに、結局診ることはできず、死亡診断書だけを書くということもあった。
映画のほとんどの場面で、主人公はまだ何もしていないのに、その「医者である」という存在だけで、拒絶され続けるが、それでもただ静かに、ひたすらできることを積み重ねていく。

結果として、「いしゃ先生」は受け入れられ、認められていくのだけれど、それは主人公が拒絶されようと泣き言をいわず、無理強いもせず(できず)、それでも医者として存在しつづけたからだ。
そして、そうする間に、医療や医者というものが、村人にとって常識外れのものでも、別世界のものではなくなったからだ。

この映画の話をしたのは、あきらめないことが大事だ、続けていくことで受け入れられるのだと言いたいからではない。
 この映画の時代も、今の時代でも、みんながそれぞれ、自分の信じている「世界」のようなものを持っている。
それはなかなか壊しがたいもの、というか壊れてしまうと自分の存在が危うくなるものなので、そうそう変えられるものではない。
他人事だと思っていたことが自分事になるようなことがあれば、「世界」は広がったり、別のものになったりするかもしれないけど、多くのことは「他人事」であり続ける。

だから、相手にとって自分の「世界」が「他人事」である場合、いくら自分の「世界」を近づけようとしても締め出されるのは、仕方のないことだと思う。
それがどうしても嫌なら、自分の「世界」は隠しておいて、相手の「世界」に合わせておけば、自分の「世界」は傷つけられなくて済む。
あるいは、相手の「世界」を力づくで変えるのも手かもしれない。
でも、そのどちらも、どちらか一方を損なうことはあっても、きっと何も生まないだろう。

だったら、そのそも「世界」を対峙させること自体が無益なのでは?と思っていたけれど、どうやらそうでもないかもしれない、とこの映画を見て思った。

「他人事」だと思っていることの多くは、きっとこれからも「他人事」だ。
だけど、「他人事」でなくなる可能性はゼロではなくて、「自分事」とはいかなくても、「家族の事」や「友人の事」になることも含めると、結構無関係ではいられないことになったりする。
その時に、「他人事」だと思っていた別の「世界」が少しでもそばに存在していれば、この映画の場合だと「命が助かる」という幸運に近づけるし、セクマイ等の問題に関しては、とりあえずの「足場を得る」ことや「大きな亀裂を生まない」、「お互いの世界を平和に保ったまま付き合い続ける」ということができるかもしれない。

ただ黙って存在し続けるということは、スキルや理屈のようなものではなくて、とりあえず自分の持っているものを相手に差し出すことなのだと思う。
相容れない相手と闘わなくていいし、相容れない考えを受け入れなくていい。
誰かをはねつけるのでも、自分の領域に取り込もうとするのでもなく、未知のものをとりえず置いておけるような余白を張り巡らし、そこにひとまず何かを差し出すということ。
相容れるか、容れないか、ではなくて、相手が差し出したものと自分の差し出すものが、混じるでも、ぶつかり合うでもなく、ただ目の前にあること。
そうできたら、理想だとわたしは思う。

それを成立させるためには、「解はないけれど、誰もがそれぞれにとっての解(世界)をもっている」ということ、「それらは互いに否定できるものでもなければ、受け入れることもなかなかに困難であり、それを求めるのは互いにとって酷である」ということ、「けれど、その上で、互いが持っているものを目の前に差し出すことが重要である」ということを知っていなければいけない。
それが、譲歩なのか、信頼なのか、それとも敵対や諦念につながるのか、わからないけど。
「あなたとわたしの考えは違って、わたしはあなたがこうすべきと思うんだけど、でも、どうせあなたはそうは思わないんでしょう?残念ね、よくわからない」と向き合うことの方が、無理をして理解し合おうとするよりも、ずっと自然なように思える。
ただの言い訳か、諦めなのかもしれないけど。

 

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この記事はもっとすんなり書けるかと思っていたけど、ずいぶん書いては消し、書いては消してをくり返した。
「ただ、差し出し続ける」ということが、ずいぶん後ろ向きなこと、もしかしたら誰かの行動を否定することなのではないかと思ったからだ。
この記事は多くの人が読むものではないし、わたし自身、漠然とした感覚のようなものを整理しようと書いているので、本当はそんなこと気にする必要はないのだけど。
思ったことを、したいようにすることこそが、「ただ、差し出し続ける」ということだし、そういう風にありたいと思っているのなら、それでもいいかと。
何にしろ、わたしはわたしで、思うようにそのままでやっていけば、別にそれでいいと思っている。