ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

成長――器を替えていくこと

今週、梅雨に入った。思っていたより、ずいぶん早い。
とはいえ、まだ雨らしい雨は降っていない。雨続きの日は、まだまだ先みたいだ。

梅雨入り前に(滑り込みで)、ずっと先延ばしにしていた苗物の植え付けを済ませた。
ナスとバジル、ミニひまわりとミニ朝顔。どれも種から育てたのだけど、特にミニひまわりとミニ朝顔は、面白いくらい発芽して、ぐんぐん生長した。

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ぐんぐん大きくなるミニひまわり。


種から育てていると、いずれふさわしい場所に定植する時がやってくる。
ちゃんとした場所に植え付けられるくらいに立派になったり、種を蒔いた場所では窮屈になったりした時だ。
色々と育て始めたころ、わたしは「育て方」に書いてある植え付けの時期や、本葉の枚数を守ろうとした。「本葉5枚のころ定植」と書いてあれば、その時を待ったし、「6月上旬までに」と言われれば、その時期を逃さないように気を付けた。
でも、このごろ、「育て方」に頼らなくても植え替えのタイミングがわかるようになってきた。植物の方が、植え替えるなら今だよ、と言っているような感じ。今が植え替え時だな、これを逃すとこじれてしまう、というのを見極められるようになった。

 

植え替え時の植物は、とてもきらきらしている。
この先、永遠に伸び続けるんじゃないかと思わせるような、なんともきれいな緑と、自信のあるまっすぐさ。
その「伸びていく感じ」は、このまま、この仮の鉢のままで大丈夫なんじゃない?と思わせる。今、この状態が一番なのだと言わんばかりの生長ぶりを見せてくれるから。
だけど、それを信じてはいけない。
この「伸びていく感じ」は、ほんの一瞬のもの。少しでも逃してしまえば、別物のようにいじけた感じになってしまう。

今回、ミニひまわりとミニ朝顔は、植え付けのベストタイミングだった。
種を蒔く時期がちょうどよかったのかもしれない。今まで見たことがないくらい、すくすくと育ってくれた。育苗中、間引いたり、肥料をあげたりするたびに、それに応えるように大きくなった。
あと少し過ぎれば、こじれた苗になったかもしれない寸前のところで植え替えることができた。

ナスとバジルは、植え付けのタイミングを逃していた。
自分の都合、天気、苗の成長具合…なかなかタイミングがあわなかったのだ。「伸びていく感じ」の時期の苗の大きさが、これまでよりも小さかったせいもある。
バジルなんて、満員電車状態になっていた。

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もったいなくて、間引けなかったバジル。

ベストタイミングで植え付けることのできたミニひまわりとミニ朝顔は、植え付けた翌日からまたぐんぐんと大きくなった。
大きな場所で根を伸ばし、水をどんどん吸い上げて、葉を思いきり広げている。
自信たっぷりに、どうだ!と言わんばかりで、見ていて気持ちいい。
縮こまっていたナスとバジルですら、しゃんとして、動き出した感じがする。
どれも、日ごとに鉢や土に馴染んでいく。

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幅60cmほどしかない「菜園」スペース

環境が変わって、あまりにもうれしそうに生長していく植物を見ると気分がよくなる反面、少しおそろしくもなる。
環境やタイミングによって、同じものがこうも姿を変えるのかと、ものすごい勢いで育つ姿に圧倒されるからだ。
人間はどうなのだろう?わたしはちゃんと、ちょうどいいタイミングで、ふさわしい器に移ることができているだろうか。

 

 

ときどき、「結婚や子育てを経験してこそ、一人前」だとか、「いつまでも若いのは、子供がいないからだ」といった言葉を気にかけている自分に気づく。
古い価値観だろうし、自分自身、そう思っているわけでも、言われるわけでも、耳にするわけでもない。でも、どうしてそう思われるのだろうという疑問が、わたしの考え事のずっとずっと遠くの方に、うっすらと存在してきた。
独身で子どももいないのに、そうは見えないとか、ちゃんとしっかり大人じゃないかとか――いつからだろう、上の世代の人を見てそんなことを思っている自分がいた。どこかで聞きかじった言葉が疑わしいのと、自分もそちらの人生を歩みそうな予感がするけれど、それではちゃんとした大人になれないのだろうか、と気にしていたのかもしれない。

人も、環境という器を替えながら、成長していくのだと思う。結婚や育児も、おそらくその一つだ。
幼稚園とか学校とか、大人になるまでは割とわかりやすく器と植え替えの時期が用意されている。年齢や能力といった「外側の基準」で選び、選ばれ、器を替えていけばいい。
でも、あらかじめ用意されている器というのは、実はあまり種類がなくて、いつかは移り変わる先も尽きてしまう。

確かに、ある時までは、年齢に見合った環境(器)に、その都度身を置き換えることで変化していくことができた(絶対ではない、可能性が高いだけだ)。
ただ、そんな風に器を替えていくことは、わたしが植物を育てようと参考にしていた「外側の基準」と一緒なのだと思う。「外側の基準」は便利だけれど、それだけでは望んでいるような生長は起こらない。
かといって、何の基準もなく、理想だけで移し替えていくのもだめだ。
大きく育てたいからといって、最初から大きな鉢に発芽したばかりの幼苗を植え付けるのは無理がある。根付かないかもしれないし、根付いたとしても根腐れして枯れてしまうだろう。
大事なのは、ふさわしい器とタイミングだ。

「外側の基準」によって半ば強制的に器を替えていくことには、器(環境)が変わることで気持ちが新たになり、がんばれる良いなど、いい点もある。
特に未成年の場合、植物と同じで、自分で器を選んだり、替えたりといったことは難しいこともあるので、ある程度自動的に移り変われる方がいいのだろう。

ただし、いいことばかりでもない。
時期がくれば自動的に次の器へと進めることで、大人になって気づいた時には、次の器をどう選べばいいのかわからなくなっているかもしれない。
ほんとはもう、自分で好きに選んでいいのに、なんだったら特注で新しい器を作ったって構わないのに、いつまでたっても自分が移り変わるべき器を探している。
ずっと器を用意され、育てられる側だったので、自分をどう育てていけばいいのか、わからなくなるのだと思う。
そんな時、自分ではなく、別の人や別の関係を育てあげていくという選択肢が浮上してくる。新しいものは、勢いがある。美しいし、自分にはない輝きと可能性がある。
それを丁寧に、器から器へ移し替えていく作業を担うことはとても大事なことだ。
そこから気づくこと、学ぶこと、自分自身のこれまでやこれからを、見つめなおすこともできるだろう。
新しいもの、若いもの――そういったものが吹き込まなければ、新しい世界や価値観も生まれないので、大切に育てることは器の外にある世界全体が停滞し、枯れてしまうことを防いでくれるはずだ。
確かに、そんな作業を担える人々は、誰かに器を替えてもらわないといけないような「未熟者」ではないし、むしろ移し替える側にいる人たちなのだから、皮肉ではなく、心から立派だ、すごいなと私は思う。

できればわたしも、次の世代の、「伸びていく感じ」真っ盛りの何かや誰かに、関わりたいと思う。それは、遺伝子を残すとか、生み育てるとか、何かを引き渡すとか、そんな大層なことではなくて、それすてきだね、とか、こういうのもあったよ、とか、相槌や雑談程度のことでいい。
できれば、今までになかった器を1つ、量産型の器の脇にちょこんと置くことができたらうれしい。わたしが欲しいと思っていた器を、別の誰かが探しているかもしれないから。

だけど、それが叶わないとしても、もし、大人になっても成長し続けられるのだとしたら、そしてそれが誰かの器を替えてあげることだけではないとしたら、わたしは、わたし自身が器を探し、時に自分の手で作り、「ちゃんとした大人」として生きていきたい。
わたしはいつまでも「伸びていく感じ」でいたい。それは、若くあり続けることや、ただ右肩上がりに成長し続けるということではない。成長というより、変化――いつまでも、違った自分になれるような自分でいたいということだ。
以前できなかったことができればうれしいし、違う景色も見てみたい。今までより悪くなることがあっても、それが今までにない自分なのだとしたら、それはそれでいい。その時、どうするか、どういう器を選ぶべきだったのか、もう一度ちゃんと考えなおそうと思う。

まだ用意された器を移り変わるだけだった頃、なんの苦労もせず、苦労がないために誰かの痛みや辛さを本当には理解できない、浅い大人にしかなれないのではないかと、ずいぶん先のことを心配していた。そんなことはない、と今はわかる。
何もしなくても、用意された器はいずれなくなるし、代わりに病気とか人間関係とか、いろいろなものが勝手に舞い込んでくる。
だからこそ、人にはいつも、いくつになっても、新しい器が必要なのだと思う。

ふさわしい器が、ぴったりのタイミングで見つかるとは限らない。それでも、植え替えが必要なのだということを知っていれば大丈夫だ。
日曜日に植え替えた、こじれたナスとバジルは、一週間程前の姿が嘘のように若々しくなった。まだ小さいけれど、これから水と肥料をたっぷり与えれば、梅雨明け頃には信じられないくらい大きくなっていると思う。花をつけているかもしれない。
あまり注意深くなりすぎずに、けれど自分のサインくらいはわかるように、自分を見極める目も育てていきたい。