ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

結婚の報告にさみしくなる理由

友人や親しい(と感じている)人から恋人ができただとか、結婚することになっただとかの報告を受けると、何とも言えないさみしい気持ちになる。
自分にはそんな相手がいなくて、今後もいるような気がしないというような「孤独」のさみしさではないようで、どちらかと言えば、自分にとってはすごく大事に、大切に思っていた人が、自分を置いてあっさりとどこか遠くへ行ってしまうような、自分の思いを相手も持っていたわけではないことに気づいたような、そんなさみしさだと思う。

そう感じることはありきたりで、当たり前なことなのか、それとも稀なさみしさなのかはわからない。
Aセクというカテゴリーを知って、それに当てはまるかもしれないと思う前から、事あるごとに感じてきたし、Aセクかもと気づいてからも変わらない。
だけど、Aセクというものを知ったことで、今までよくわからなかったこのさみしさが、少しだけ説明できるようになった気もする。

わたしの「好き」は性別や年齢を問わず、いろいろな人に向けられていて、強烈な激しさはないけれど、ゆるやかに、まったりと持続する。
確証もないし、証明もできないけれど、それは恋愛感情とはまったく別種の「好き」だという気がする。
その人の考えや、物事に向き合う姿勢、醸し出される空気やその都度変化する感情。
諸々を含めて、その人となりをすてきだな、いいなぁと思い、あこがれと尊敬と愛しさとが混じり合って、分離できなくなったような「好き」だ。
それは伝える必要のない「好き」で、返事や対価を必要としないもので、だけどその感情があることで、その人との関係や一緒に過ごす時間、その場の空気は特別なものになっていると今は思う。

そんな「好き」は誰もが抱くかもしれない。それほど特別なものではないかもしれない。
だけど、恋愛の「好き」が特別で、一人の相手に向けられるべきもので、唯一無二のものだとしたら、わたしの思う「好き」は太刀打ちできない。
わたしには、たぶん、わたしの「好き」を上回る「好き」はないし、「好き」の中に特別もなければ、優劣もない。
特別がないと言えばないし、すべてが特別といえば特別だ。
たぶん、友情と恋愛どちらを取るかという問題に立ち向かう必要がないし、そもそも悩むことすらできない。
もちろん、自分の思う「好き」も相手ごとに質は違うわけで、比べようがないという点では友情と恋愛の比較と同じだろう。
けれど、恋愛のように別枠で、一席しか確保できないような「好き」とは、うまく説明できないけれど、比べ方が違うんじゃないだろうか。

話を元に戻せば、わたしの感じるさみしさには、2つくらいの理由があると思う。
1つは、わたしが知ることのできないものへのあこがれと、遠さ、遠いが故の孤立感。
できれば理解したい、自分も持ってみたい感情を難なく(ではないだろうけど)持っている人々を前に、どうあがいても、努力しても、自分はそれを手に入れられないのではないか、きっとそうなのだろうというさみしさだ。
もう1つは、自分の大事にしてきた「好き」が、恋愛の「好き」に到底かなわないだろうという事実へのショック。
どれほど大事に思っていても同じ土俵に立つことはできなくて、恋愛の「好き」が登場すれば、その人は幸せそうに別の世界に行ってしまう。
同じ世界に立っていたと思っていたのはわたしだけで、そんなのは幻だったと、最初からわかっていたのに、自分で自分をごまかしていたことを毎回確認する。

もちろん、Aセクか否かを抜きにして、人の感情やその総量を比べることはできないし、誰もが同じものを同じようには見ていないし、誰一人として同じ人はいない、それぞれ違って当たり前なのだということはわかっている。
そんな違いを前にすれば、Aセクであるということなんて、最初から前提としてある違いを大きく左右するものなんかではない。

だけど、誰かが誰かを好きになる世界で、誰かが誰かに好かれたい、同じ思いを共有したいと多くの人が願う世界で、わたしは一体どこにいるのだろうと、つい考えてしまうのだ。
今まで気にもしなかったのに、どうということもなかったのに、Aセクというカテゴリーを知ってからほっとした半面、実は大多数だった人々がすごく遠いところにいるように思えて仕方なくなる時がある。

都合よく、考えてみよう。
わたしの「好き」は、何とも比べることのできない、最強のものかもしれない。
その人が男性だからとか、女性だからとか、Xジェンダーであるからとか、年上か年下かとか、つまり恋愛対象であるかどうかにかかわらず、わたしはみんなのことが大好きだ。
何かが原因で嫌いになってしまうこともひょっとしたらあるかもしれないけれど、だいたいは一旦好きになってしまうと、じわじわと持続して、いつのまにか大切でたまらなくなっていたりもする。
わたしの「好き」に心変わりや浮気はない。
よっぽどのことがない限り、わたしはその人を「好き」でいる。
というか、「好き」ということすら意識しなくて、ひたすらあたたかく思っている。

こう思えばいいんじゃないか。
わたしは誰か一人を特別に、恋愛対象として見ることはできない。
だけど、特別がないからこそ、誰もを強く、大切に思い続けることができる。
恋愛は両思いであれ、片思いであれ、天秤の片方に、自分の感情に見合った重さの何か(相手の「好き」とは限らない)を必要とする気がするけれど、わたしはひたすら一人で、淡々と、だけどあたたかく、思い続けることができる。
もしかしたら、それは誰かが恋愛の「好き」から離れた時、離れたいと思った時、その人をあたためることができるかもしれない。と思いたい。
わたしは、恋愛ソングや恋愛小説なんかを見聞きして、誰か一人を大切に思うその気持ちが素敵だとあこがれていた。
大切に思われたいとは思わないけれど、誰か一人をひたすら大事に思い続けてみたいものだと、ひっそりと思っていた。
でも、それだったら、今のわたしがこっそりと、気づかれないように持っている「好き」も、とっくに「誰かをひたすら思う」ことに入っているんじゃないだろうか。
しかも、すごいことに「一人」じゃなくて「みんな」だ。

さみしく思うのは、さみしく思うままでもいいかもしれない。
でも、わたしの「好き」だってなかなかにスペシャルみたいだから、「すごいだろう」と胸を張ってみてもいいのかも。