ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

「すき」が「時」になる――映画『SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬』

ドキュメンタリー映画『SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬』を見て、写真家・鋤田正義の写真を見た時の不思議な感じの理由が、少しだけわかった気がする。
鋤田さんは、デヴィッド・ボウイなど、著名なアーティストのポートレイトをたくさん撮られている。日本国内よりも、どちらかと言えば海外での評価の方が高いそうだ。
写真家や作品はそれほど知らないけれど、何かの写真展を見るのはとても好きで、「近くであってる写真展」ということで、つい先月、鋤田さんのことを知ったばかりだった。ご本人が立案されたという展覧会を予備知識なしに見て、「この写真はなんだろう?」という静かな衝撃を受け、映画の公開を楽しみに待っていた。

映画の内容

映画は、写真家・鋤田正義に影響を受けた人、一緒に仕事をした人など、顔や名前を覚えきれないくらいたくさんの人が出てきて、その方たちによる鋤田氏の写真についてのコメントやご本人との対談などで構成されている。
鋤田さんは現在80歳だそうなのだけれど(撮影時は78歳?)、長い写真家人生を仰々しく取り上げるのではなく、今でも親交のあるであろう方々と、あるいは懐かしく再会されたのかなという方たちとの語らいはとても自然で、あたたかで、映画そのものが鋤田正義という写真家の人となりや、彼を取り巻く人々のやさしさに満ちている、とてもすてきなドキュメンタリーだった。


「SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬」予告編

鋤田さんにしか見えないもの

鋤田さんの写真は商業写真と言えばそうなのかもしれないけど、そういう消費され、忘れ去られてしまう写真とは違う。
かといって、藝術写真かというと、たとえば同じく著名人のポートレイトをたくさん撮られているアラーキーのような写真でもなくて。
比較できるほどに色々な写真を知っているわけでもないのだけど、今まで見てきた写真のどれとも違って、でも、他の写真と別次元のところにあるような奇抜だったり、個性的だったり、作家性が強すぎる写真だったりするものとも違った。
同じ写真家が撮ったポートレイトを見ると、どうしても、撮影した人の癖のようなものが写り込むように思うのに、鋤田さんの写真にはそれがなく、かといって無味乾燥で誰の写真でもない感じかというと、そんなことは絶対になかった。
写真の中に、鋤田さんが写りこんでいるわけではないけれど、それは確かに鋤田さんにしか撮れないのだろうなという写真――それがどういうことなのか、写真展を見てからというもの気にかかっていた。

写真展の会場には、モニターが一台置かれていて、鋤田さんが撮影している場面の映像が流れていた。
撮影風景と、完成した写真が出てくるのだが、今の撮影中、どこにそんな瞬間があったのだろう?と思うような写真が生まれる。
もちろん、鋤田さんが撮影しているアングルと、鋤田さんを撮影しているムービー・カメラのアングルやカメラと被写体の距離は全く違うだろうし、写真にする段階で色々な調整もされているはずだ。
でも、そういったことを考慮に入れたとしても説明できないような何かが、撮影中に起こっているとしか思えなかった。きっとその「何か」が、ポートレイトでありながら撮影者の存在を写りこませず、消費されることのない、不思議な時間性を感じさせる写真を作っているのだろうと思うだけで、写真を見ただけでは、その「何か」が何なのか、わからなかった。

映画を見て、一つこれかなと思ったのは、きっと鋤田さんにしか見えない「瞬間」のようなものがあるのだろう、ということ。
動体視力がいいと、通常は見えない瞬間が鮮明に見えたりするように、写真家・鋤田正義の観察眼にしか捕えられない「瞬間」があって、それが撮影されるものだから、不思議な写真に見えるのだろうと思った。
写真家に唯一無二の観察眼があるのは当たり前だと言われるかもしれないけれど、鋤田さんの写真の場合、それは写真家のフィルターを通してしか見えない何かではなくて、確かに存在しているのに、鋤田さんが「フレーム」を通して引き出してくればければ、私たちは絶対にそれを見ることができないのだなと思わせられるものだった。
劇中で、鋤田さんご本人が、新幹線の車窓のような「フレーム」の機能について語られたり、糸井重里さんが、以前鋤田さんから聞いたという、鋤田さんが実家の店番をしながら、ショーウィンドウから見た景色(「フレーム」)の話をされていたりする。
フィルターをかけて、世界を「写真的」に見ることは色々なバリエーションがあって、割とわかりやすく「その人らしい」写真に仕上げてくれる。だけど、「フレーム」は誰もがのぞくことのできて、ただそこにあるだけのもの。「フレーム」を対象の前にどんと置くだけでは良い写真にならないし、「フレーム」で勝負するとなると、「フレーム」の置き方くらいしか操作しようがない。それなのに、「フレーム」をそこに据えた状態で、他の人が見ることのできないものをなぜか取り出してしまえるのが、鋤田さんの「観察眼」なのだと思う。

それは、撮影の仕方にも表れているように思う。映画でも撮影風景が出てきたのだけど、カメラを構えた姿が何かを「狩る」ような表情、雰囲気ではなかった。かといって、自然体というわけでもなく、張り詰めた感じではない緊張感はあって、被写体と鋤田さんが、一緒の空気の中にいる、その中で写真を撮っている、という感じだった。
鋤田さんの写真について語る人たちの言葉の中に「流れ」「Flow」という言葉が出てきたけど、その言葉がしっくりくるような気がした。 

とどめるのではなく、「すき」が「時」を生み出す

写真になったものは、「流れ」の中の「瞬間」なはずなのだけど、でもやっぱり、それは流れ去ってしまったはずの「瞬間」ではないみたいだった。
写真展写真を見たとき、その被写体が撮られたのがいつなのかということがわからなかった。もちろん、キャプションがついているので、何年の誰を撮ったものというのはわかるのだけど、そういうことではなくて。写真にくっついてくるはずの過去とか現在という時間性が存在しない気がしたのだ。
シャッターボタンを押した瞬間、撮影された像は過去のものになるはずだ。そうなってしまわないのは、撮影された「時」が、現実の時間とはまた別のものだからとしか考えられない。
劇中に出てくる鋤田さんの言葉に、写真を始めたことで「もう一つの時」があることを知って、しかもそれは「永遠の時」なのだというものがあった。
それは、本来なら忘れ去られてしまう「瞬間」をとどめておいたり、「瞬間」を引き延ばして見せたりすることではなくて、鋤田さんと被写体が作り出した「時」が写真になっているのだということなのだろうと思う。化学反応というか、被写体と鋤田さんのセッションがあるからこそ、生まれてくる時間というか――。

鋤田さんは、写真やカメラはもちろんのこと、被写体もとても大事にされているそう。
劇中、ある人は、鋤田さんの写真には、鋤田さんが被写体や写真、カメラのことを好きなのだということがあると言い、別の人は、写真を撮る中でどうしても出てきてしまう、被写体が目をつむった類の写真を決して人目に触れさせないというようなことを話していた。
きっと、鋤田さんと被写体の間に生まれる「時」は鋤田さんの「すき」という気持ちで包まれたもので、鋤田さんにしか生み出せないものなのだ。それはとどめられる類のものではなくて、極力引き延ばされて写真になっているんじゃないか、そう考えると、写真を見た時の不思議な感じが少しだけ説明できるような気がする。

 

鋤田さんが撮影されている光景は、とてもぜいたくな感じがした。
わたしは写真に写るのは苦手だけど、こんな撮影が当たり前にあったら、写真に撮られる、写るというのはすごく楽しいことなのかもしれないと思ったし、そんな風に写真を撮ることができたらどんなに幸せだろうと思わされた映画だった。