ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

セミになれなかったセミも、セミには変わりなくて

セミになれなかったセミを、土の中に埋めた。昨日まで、庭のシソの葉にしがみついていたセミだ。
我が家の庭では、いつからかセミが孵るようになった。何ゼミかはわからないけど、ひと夏に1、2度、セミが羽化する場所を求めて歩いているところや、羽化後に羽を休ませているところに遭遇する。家の外壁を高い所まで延々とのぼり続けるものや、木の葉の裏でいつのまにかセミの抜け殻になっているものもいる。
今回もそんな1匹だろうと思っていた。シソの葉の裏という、しがみつくにはかなり不安定な場所で大丈夫だろうかと思ったし、日はとっくにのぼっていて、ずいぶん遅めだなとも思った。

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案の定、大丈夫ではなかったらしい。わたしが発見した時にはすでにだめだったのか、発見後に力尽きたのかはわからない。場所のせいなのか、たまたまその力がなかった個体なのかも。羽化中のセミは、翌日も同じ場所で葉にしがみついていた。

虫は苦手ではない。小学生の頃は、虫かごと虫取り網を持って色々なものをつかまえた。好きというわけではないけれど、今でも必要があればつかむこともできる。
ただ、死んだ虫は別だ。死んでしまった虫は、どうしてだか近寄りたくない。虫を怖がる人のように近寄れない、見るのもいや、どうしてもだめだというわけではないけれど、できれば近づきたくない。
死んだ虫で思い出すのは、夏休み中の登校日や夏休み明けの始業式の日に学校の廊下に転がっている虫の死骸だ。校舎内はいつもよりよそよそしくて、もわっとした空気がこもっている。にぎやかさがまだ充満しきれずに、どこか時間が止まったような学校の廊下に、いつ、どこから入ってきたのか、カナブンや蛾の類がどこかしら転がっていた。動かず、存在感だけは主張しているそれらの死骸のことを、嫌だなと思っていた。
生きているときは小さな存在なのに、死んでしまうと急に大きなもののように感じるのだ。一つの生き物として。

 

シソの葉の裏にぶら下がったままのセミは、日が経つにつれてセミの抜け殻に近い色になっていった。グレーっぽい色から、茶色へ。でも、抜け殻のような軽やかさはない。
埋めてあげたいな、と思いながら、ちょっと迷った。理由の一つはできれば触れたくないからで、もう一つはセミになるためにせっかく土の中から出てきたのに、もう一度土に戻すのかとためらわれたからだ。

セミになろうと出てきたのに、セミになれなかったのだな、なんて思いながら、はたと気づいた。わたしが思っているセミは、羽の生えた、樹にしがみついて鳴くセミだけど、羽化する前のセミだってセミじゃないか、と。むしろ、わたしのイメージするセミよりも、その前の状態でいる期間の方が長い。
土の中から出てきて、羽化し、飛び回るのは、セミの生涯のラストに仲間を見つけ、仲間を増やすためのごく限られた期間だ。羽化以前のセミが子孫を残すためだけに生きていたかどうかは、人間であるわたしにはよくわからない。よくわからないけれど、それはそんなに最重要事項ではなかったのではないか、という気もする。無事羽化して、その時が来たからそのプロセスをたどるのであって、それ以前は、必要な成長の段階を追っていたにすぎないのではないか、と思うのだ。
生き物なのだから、子孫を残すことは大事だろう、と言われるかもしれない。でも、わたしには、あらゆる生き物が、何が何でもそのためだけに生きるぞ、というスタンスでいるのではない気がする。そういう風に見える場合も確かにあるけれど、それはそういう時期や状態にたまたま進んできたからであって、それを果たさなければ生き物ではないというようなゴールには見えないのだ。

 

結局、手を付けずにいたセミは、台風前の強い風で土の上に落ちていた。土の上のセミには、蟻ではなく、なぜかダンゴムシが群がっていた。セミに群がるダンゴムシは、枯葉にくっついているダンゴムシの姿と何ら変わりなくて、セミはもうセミではなく、セミの形をした別のものになっている気がした。
そのままでもよかったのだけれど、雨の予報になっていたので、結局スコップですくい、軽く土の中に埋めた。完全な自己満足だけれど、土に埋め戻すのではなく、土に帰るのだという感じがした。