ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

夏の夜の遠くの花火

花火を見た。時間にしたら、30秒くらいだろうか。隣町の花火大会の花火を、自宅の2階の窓から見た。
隣町といっても、会場までは車で20分近くかかる。だから、ほとんどの花火は見えなくて、音だけしかしない。見ることができるのは、高く打ち上げられるフィナーレの花火くらいだ。

わたしは、花火を見たことがない。見たことがないというと矛盾するので、正しく言えば花火大会というものに行って花火を見たことがない。それがよくあることなのかどうかわからないけれど、周囲には1度も行ったことがないという人はあまりいない気がする。
インドア派の家庭だったし、わたし自身も暑い中、人混みに自ら出ていく気力も体力も持ち合わせていない。おまけに友達も少ないし、もちろん恋人もいない。何か特別なきっかけでもなければ、花火大会に行く機会はやってこないだろう。
一度だけ、大学に入った最初の夏に、大きな花火大会に行く約束をできたての友達とした。新しい友達2人と行く、初めての花火大会。とても楽しみにしていたのだけど、直前になって、3人ではなく、友達2人の知り合いの男の子3人が来るということがわかった。いいよと言ったものの、楽しみだった予定がだんだん気が重くなるものに変わり、直前で断りの連絡を入れた。それからもずっと、いつか行けたらいいなと思いながら、テレビの中継で結構満足していた。

隣町の花火大会は、これまでも家の2階から見たことがあった。見える高さにあがる花火はほとんどなくて、長く窓にへばりついていたとしても、見えるのはとても小さなものでしかなかった。いつも音ばかりが聞こえていた。だから、今年も見るつもりはなかったのだけど、大きな音を聞いていると「見えるかもしれない!」と気になって、もう終わろうかという頃に一番よく見える方角の窓をのぞいてみた。ちょうど、窓から見える一番遠くの家の屋根の後ろに、親指と人差し指で作った丸くらいの大きさの花火があがったところだった。音もなく、オレンジ色の光がふわーっと広がるところで、思わずわぁー、と声をあげていた。

同じく花火大会に行ったことがないという母を呼びに階段を駆け下りている間に、高い所にあがる花火は終わってしまっていた。遠くの空が赤や緑や白色に光ってはいるけれど、肝心の花火は全然見えない。音だけが複雑なリズムを刻む和太鼓のように鳴っていて、きっと赤や緑や白っぽい色の花火がたくさん上がっているのだろうと思うとそれはそれでいいものだった。

諦めて母も階下に戻ってしまった後、本当に本当の最後の花火があがり始めた。オレンジ色の大きな花火が(といっても、指全体で丸を作ったくらいのサイズの花火が)、重なるように打ち上げられ、一つ目の花火が静かに広がって消えようとするところに、他の花火の、まだ花弁が密な状態のものが打ち上げられて、静と動のような対比が繰り返された。
花火の技術も変わってきているのだろうか。それとも花火大会の予算の違いか。これまでは高く打ち上げられても上半分以下しか見えなかったのに、下4分の1が隠れているくらいの(わたしにとっては)大きな花火が見えた。きっと花火を知っている人からしたら、ミニチュアみたいに見えるだろうけど。
小ささに目をつむれば、火薬のにおいや煙たい感じも思い浮かべることができる気がする。

やっぱりいつか、本当の大きな花火を見に行こうと思った。誰かを誘ってでもいいし、何なら一人でもいいなと思う。一人で行く人はほとんどいないのだろうと想像はつくけど、たくさん人がいるのだから、一人だろうと何人だろうとあまり変わらない気がする。でも、きれいだねと言える人がいるってことが大事なのかもしれない。わからないけど。

わたしにとって花火大会に行くというのは年々特別なことになっているので、どこでどんな花火を見るかをわくわくしながら考えて、これだったのだなと思うタイミングで花火大会に行く日を楽しみにしていたい。
もしかしたら、実際に花火大会で花火を見ることよりも、いつか見るかもしれない花火を楽しみに待つ方がずっと贅沢かもしれない。