ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

たまには、子どものようにあそぼう

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何年ぶりだろう。手持ちの花火をした。
帰国中の姉が言い出し、帰宅途中のドラッグストアで購入した。売り場に並んでいる花火を見るのも、もうずいぶん前のことなので、パッケージの謳い文句が変わっていることにまず驚いた。何色変化とか、何十秒もつとか。60秒もつなんて、昔はなかったはずだ。種類ごとに包装されていて、その一つ一つが外側のパッケージみたいにデザインされている。

 

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色合いも、火花の感じもずいぶん華やかになっている。

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写真と実物とは、またずいぶん違うけど。
写真と言えば、写真家の川内倫子さんと蜷川実花さんの花火の写真が好きだ。どれか一つ部屋に飾りたいくらい。実物の花火は派手で、動きがあるけれど、写真の花火は間があって、静かなのがまたいいのだ。

 

小学校の夏休み、庭での花火はそこそこのビッグイベントだった。姉妹3人で、同じ数ずつになるように分けながら遊んだ。一つしか入っていない持ち手が紙で火薬部分がビニールになっているようなスペシャルなものは、妹に優先権があったと思う。

大きな旅行や遠出というのはなかったけれど、こうした花火やちょっとした外出がとても楽しみだったし、楽しかった。高校時代、部活の大会に引率してくださった先生と夏休みの旅行の話になったことがある。特に特別な旅行はしなかったというと不思議がられたことを覚えているけれど、わたしにとっては何はなくとも、夏休みというだけで特別で、ちょっとしたことにわくわくしていた。時間だけはたっぷりあるので、毎日退屈したのも、今になってはいい思い出だ。
小1~小6の夏休みの自由研究は、毎年絵日記だった。7月20日から8月の終わりまで、毎日描くのだ。あまり自由研究らしくはないけれど、何か言われたことはないので、まぁそれでオーケーだったのだろう。きっと、毎年1ページは、花火のことが書いてあると思う。今度、探して読み返してみたい。

 

大人の花火はあっという間だった。次々と火をつけていくような感じで。
きれいだね、と見てはいるのだけど、とても現実的なのだ。余韻というか、気持ちの熱量が子どもとは違う。大人が点や線のように時間の中にいるとすると、子どもはまるくその空間を包みながら楽しむような気がする。その気持ちを忘れたわけではないけれど、どうしても平べったくなる。

ただ、姉が帰ってきていることで、(かなり厄介ではあるにしろ)日常の中に非日常が入り込んできて、誰かと共有することというものの感覚を味わえている。その感覚というのは、新しく経験し直したり、意外にも初めてのことが紛れ込んだりして、どこかまるい空間的な経験なのだ。
わたしは独りでいるのが大好きで、独りの時間や空間を確保できないことが長く続くと、とても疲れ切ってしまう。誰かと、という選択肢はほとんど浮上しない。だけど、こうやって過ごしていると、誰かと過ごすこと、何かを共有することのよさがほんの少しだけわかった気がする。具体的な何かを言葉にしなくても、ぼんやりと、その空気の中にいて「いいよね」と言っていればいいのだ。一緒にいながら、考えていることや思っていることは、一人一人の気持ちの中でぐるぐるまわる。ぐるぐるまわったものは、その場を包む空気になる。子どもの頃の時間感覚を真似たように。

もうしばらくはいいかな、早く日常に戻りたいなとは思うけど、自分をかちこちにしないために、誰かと何かを共有することものよさも忘れないでいよう。