Better not to know 知らない方がいいこともある?
妹の結婚式と引っ越しが終わり、ついでにあちこちと旅行してまわっていた姉たちも帰っていった。やっと日常という感じでほっとしている。ひと月以上、ふわふわ落ち着かなかった。
姉たちを見送りに行き、空港で昼食をとった。最後にラーメンが食べたいというのでラーメン屋へ。国際線ターミナル内のお店のせいか、客もほとんどが海外の人たちだ。食事を終える頃、一人の男性がテーブルをふく布巾をナプキン代わりに使っているのに母が気付いた。飲食店でよく見る不織布タイプの布巾なのだけど、きれいに整えてあって、言われてみればそんな風にも見える。教えてあげたいけれど、でもね…と話していたら、姉のパートナーが「Better not to know(知らない方がいいよ)」と言う。自分も、日本のタクシーのドアが自動で開くとは知らなくて、中から開けようとする運転手さんと外から開けようとする自分で押したり引いたりになって、なかなか開かなかったのだとか。きっと、他にも知らずにおかしなことをしているのかも、とも。
自分はどうだろう。知らなかった方がよかったことは何かあっただろうか。
ホームステイ先の冷蔵庫にあったミネラルウォーターと思っていたものが、水道水だったとか?普通の関係と思っていた人に、実はいつの間にか嫌われていたとか?友人たちの間で、自分だけ知らないことがあると知ったこととか?
なんだろう。どれも知った瞬間は驚くのだけど、後になったらどうでもいいことばかりだ。笑い話になれば儲けものと思うが、そんな類のものもあまりない。
結局、自分が思っていることと外側(他者)の認識の間のずれを埋めるべきかどうか、というところなのだけど、大抵のことは心底知らない方がよかったとは思わない。多少のショックを受けたり、知ったことで恥ずかしく思ったりすることはあるだろうけれど、遅かれ早かれ知ってしまうことの方が多い。そして知った後も、いずれは気にならなくなる。だから、いつ知るか、どのように知らされるかが問題なのだと思う。
知らされる側、知る側になってみると、思いがけず知ったというのが一番いい気がする。できれば、知る対象の最中にある時ではなくて、ちょっと時間差で知りたい。なんだかおかしいなと思っていたのはそういうことだったのか、と振り返るくらいのタイミングがちょうどいい。
できれば、無理やり知らされたくはないし、その出来事や対象から無関係の人から知らされるのでない方がいい。
知ること・知らされることというのは、結局のところ自分の認識になかったものなので、できれば知りたいし、知った後でいいと思う方を選びたい。結果としては知ることになるのだから同じと言われればそれまでなのだけど、でも、できればすごくびっくりしたり、当惑したりしない形で知りたいと思うのだ。
たとえば、間違ったことをしていたとして、その時にすごく困っているとしたら、「それは違いますよ、こうですよ」と教えてもらいたい。でも、それほどでもなかったら、放っておいてもらっていいよと思う。
たとえば、結婚の報告とか、何か一大決心をしたとか、大事なことは本人から直接聞きたい。つい、「こうなんだってよ」と言いたくなる気持ちはわかるし、わたしもそうしてしまったことがあるから人のことは言えないのだけど、とても近しい間柄の場合、なんだかすごく寂しくなる。その場で初めて知って、おめでとうとか、すごいね、とかを伝えたい。結果として、知ることには変わりないのだけど、やっぱり違うのだ。もし、自分がわたしから知らせない方がよかったことを思いがけず知らせてしまったら、素直にごめんと謝りたい。
日々色々なことがあって、自分の気づいていなかった考え方や概念、慣習といったものもたくさんあって、それを知ることで色々なものの見方が変わってくる。だから、知れることは知っておきたい。
でも、無理やり知ろうとしなくても別段困らないことの方が、きっと多い。自分だけが困らない、自分だけが困るという場合はそれでいいのだけど、周りの人を巻き込んでしまう場合、特に知らなかったことで誰かを傷つけてしまうようなことは、できれば避けたいと思う。そんな場合は、どういう風に知ったり、知らせたりすればいいのだろう。難しいところだと思う。後から反省し、改めるしかないのかもしれない。全部知っているなんて不可能なのだから。
ただ、知らないことがたくさんある、ということは知っていないといけない。
それにしても、Better not to know の響きというか、リズム感がとても好きだ。