ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

子どもと過ごすこと

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子どもはかわいいのか、好きなのかというのは、犬がかわいいか、好きかと問うことに似ている。わたしは、飼っていた犬をとてもかわいいと思っていた。自分の犬を好きだと思うポイントが同じ犬種にも大抵見られるので、その犬が生きている時も、死んだ後も、同じ種類の犬を見るとかわいいなと思ってきた。ただ、別の犬種になるとそうでもない。別の犬種でも何かしらの共通点が見られれば、好きだなと思う。それは、好きなポイントが特定の犬種や犬に見られるというだけで、犬全般が好きということにはならない。

同じことが、人間の子どもにも言えるのでは?と思っている。
わたしは、どちらかと言えば子どもというものが苦手だと思う。自分が子どもだった頃、「そんなに子どもじゃないのに」と歯がゆく思うことがあったし、今思い返してもその時の自分を「子ども」として片付けられないので、子どもに対してどう振る舞うべきか、少し考えてしまうからだ。彼らはわたしたち大人が思うよりずっと、もしかしたら大人以上に、色々なことをわかっていると思う。

だからなのか、無条件にかわいいな、好きだなとは思わない。すれ違う人を、大人という理由で無条件でかわいいとか、好きだなとか思わないのと同じで。
でも、友人の子どもや、どこかいいなと思うような子どもであれば、かわいいなと思う。要は、関係性の問題だったり、子どもという括りはあまり関係なったりするのだろう。

 

 

友人家族と数時間一緒に過ごした。2歳の男の子と0歳の女の子がいる。普段、小さな子どもどころか、子どもと過ごすこと自体が皆無なので、とても貴重な時間だった。
0歳の時会ったきりで、記憶としては初対面のせいか時々恥ずかしそうにするお兄ちゃん。何も言わず、大きな黒目でじっと見つめてくる妹さん。誰かと初めて会う時の内面は、大人だってこんな感じかもしれない。

お兄ちゃんは長旅のせいなのか、わたしがいるからか、まぁ、たぶん毎日のことなのだろうけどハイテンションだ。少しもじっとしていない。でも彼なりにどこまで大丈夫かはわかっていて(その「大丈夫」が時に大丈夫ではないこともあるのだけど)、その中で振る舞っている気はする。いつも動いていたそうで、感情のまんまという風に見える。コントロールとか、そんな機能は未搭載で、うれしいと身体中がよろこびを表しているし、嫌なことは何があったって嫌なのだ。それでいいじゃない、とわたしも思うよ。すてきだと思う。

子どもは、すべてをすなおに受け止めていく。一つ一つしてはいけないことを「しない」と約束し、満足そうに食べたかったものを食べている。ちょっとハイテンションになってしまっていたのに、カフェの食器返却口から出てきた手をおばけだと言うと、本当に信じておとなしくなってしまう。思えばわたしも、種を飲み込んでしまうとおへそから芽が出るだとか、とげ(すいばりって方言だったのか…)が指に刺さって出てこなくなると血管を流れていって心臓に刺さるのだとか、そんな冗談を本気で信じていた。信じるパワーを、無駄に使わせてしまってはだめだなと思った。

 

そんなエネルギーの塊と日々向き合ってるお父さんやお母さんはすごい。とても、すごい。感服する。
人一人と意思疎通し、お互いの意見を合致させ、同じ目的に向かってともに進んでいくことは、同じ言語を解し、相手の性格や希望を知っている大人同士でも難しい。すれ違いや意見の食い違い、誤解が全く生じないなんてことはない。
それが大人と子どもの間でうまくいくなんて奇跡だと思う。言葉を操れるようになるには時間がかかるし、自分自身をコントロールしたり、相手の意思を優先させたりすることに関しては、大人でもできるようになる場合と、そうでない場合があるだろう。
エネルギーや感情の塊なのだから、それを本人がどうにかすることはできないし、そばにいる大人が都合のいい方に動かすなんて至難の業だ。
人を動かすという点では、大人のビジネスの世界よりも、親という立場の方がずっと難しいことをしているのではないだろうか。

友人の子どもたちは、本当だったら顔を合わせた時に大泣きしていてもおかしくなかったらしい。泣かずにやり取りをしていたり、抱っこされたりしているのを見て、子どもの扱いが上手だと友人は言ってくれたけれど、それはわたしに子どもたちの両親が一緒にいるという余裕、子どもと接するためのエネルギーの余裕、日頃自分の時間があるが故の肉体的・精神的余裕があるからだと思う。そうでなかったら、たとえばわたしが子育てをしているとしたら、日々うまくいかないことの方が多すぎて、褒めまくると簡単だなとか、注目してほしいアピールに真正面から応じるだとか、そんなことは到底無理だと思う。

お父さんやお母さんというのは、本当にすごい。
そして、子育てには余裕があってもあっても、きっと全然足りないし、そもそも余裕なんてものがないだろうと思う。そのための仕組みが、もっとたくさんあってほしいと思う。

 

友人とお茶をしている間、お父さんと電車を見に行ったお兄ちゃんが、一緒に電車を見に行こうと呼びに来て、もう一度来たら行こうかと言っていたらすぐに来て、電車を見に行くことになった。思いのまま突っ走るから、お母さんとわたしを見失い、ここだよと手を振ると、走って来てわたしの手を取る男の子。人見知りだと言っていたのに、自分から手を取って一緒に駅まで歩いた。小さく、力のない手を包むように握って歩いた。小さな頃、右とか左とか方向というか、空間の把握ができていなかったのだろう、だだっ広い中にポツンと立っていて、どちらにどう進めばいいのかわからなかった。その反対の立場に今あって、右も左もわからない小さな子の手を自分が引いているという感覚がとても不思議だった。かわいいとか、好きとか嫌いとか、そんな次元ではない。頼まれてもいないのに、何かをゆだねられているような感覚。

別れる時、そっぽを向いていて、さっきまで手をつないでいたのに、とたんに無関心になった。そういうものかと思ったけれど、別れた後も「一緒に行く?一緒に遊ぶ?」と言っていたらしい。どこまでコミュニケーションが取れているのか、経験がないわたしにはわからなかったけれど、わずかな時間でも記憶に残ってくれていたなら、とてもうれしい。

この先、どれだけ子どもと接する機会があるかはわからないけど、子どもと過ごす時くらい、子どもにとっての大人でありたい。