ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

あたたかな気持ち、好きということ

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「好き」というのはとてもシンプルで、それなのにすごくたくさんのバリエーションがある。
ドーナツが「好き」というのは食べ物の好み。
飼い犬が「好き」というのは愛情かな。何かを慈しむ感じ。他の犬と比べての特別感もある。
友達の誰々が「好き」というのには、その子のこういう部分が好きというのもあるし、その人と一緒にいる時間が楽しいということなども含まれる。
どの「好き」も、ある対象にプラスの気持ちが向けられているところが同じ。
でも、「好き」の対象は様々で、「好き」が意味するところや度合もそれぞれ違う。

 恋愛感情も「好き」で成り立っている。
その「好き」には、ドーナツや犬や友達に向けられたのと同じ「好き」もきっと含まれている。
ただ、その度合いの強さや、「好き」の強さゆえに生まれてくる別の感情があるのだと思う。

私にはその「好き」がわからない、というのは少し違う気がする。
私の中にたくさんの「好き」があるように、そういう恋愛のような「好き」がきっと存在するのだろうと理解している(つもり)。
だけど、「じゃあ、それを体感したことがあるのか?」と言われれば、あるのかもしれないし、ないのかもしれない。

誰かに対して、いいな、好きだなと思うことはよくある。
それは相手の性別や年齢、たぶんその人の性的指向も関係ない。
そのときの「好き」は、強いて言うなら「素敵」という感覚に近い。
自分にはない、尊敬できるような何かがあって、一緒に過ごして、話して、もっと知りたいと感じる。

そんな「好き」という感覚を持つ人のことを思い浮かべると、たいてい並んで歩いたときのことを思い出す。
どの人も性別も関係もばらばらだけど、並んで話しながら歩いて楽しかったことが印象に残っている。
何を話したのかはっきり覚えていないけど(小さいころどんなことを考えていたかとか、どうして人はすでに立派な写真があるのに、自分でまた撮ろうとするのか、とか)、その時のことを思い出すと、それがもう何年も前のことだったとしても、とてもあたたかな気持ちになる。

 とてもあたたかだけど、この「好き」を人は「恋愛」とは呼ばないのではないか、という気はしている。
並んで歩いたとき、手をつないでいたこともあったけど、この「好き」を抱いた全ての人と手をつなぎたいわけじゃない。
思い返してあたたかな気持ちになる、また会いたいなとは思うけど、ずっと一緒にいたいとは思わない。
その人の隣にずっといられるということが大事なわけではない。
むしろ、記憶の中のあたたかな時間はもう二度と同じようにはやってこないだろうという気がしているし、だからこそその時間が大切だったと思うのだ。
ときどき、誰かといたり、何かをしていたりしている最中に、これはあとで思い出すのだろうなと思うことさえある。
私にとって誰かに向けた「好き」は、そんな瞬間瞬間の中にある。

そう考えると、恋愛の「好き」は現在、あるいは「あり得るかもしれない未来」に向けられたものなのかもしれないと思う。
私の「好き」は、現在形で思うことはあっても、「そのうちやってくる過去」とも結び付いているような気がする。

ただ、はじめにも書いたように「好き」のバリエーションは無限にある。
恋愛の「好き」と一口に言っても、やはり人それぞれだろう。
私のあたたかに想うような「好き」が、恋愛の「好き」だったとしてもおかしくない。
だけど、恋愛というものには未来があって、何かのぞんだり、期待したり、それだからこそ絶望したりするものなんじゃないだろうか。
だから、私が思う恋愛の「好き」を、私はまだ感じたことがないと考えている。

だからといって、そういったものが理解できないとか、さみしいとか、つらいだとかは今のところ思っていない。
これまでの「好き」をときどき順番に思い返して、あたたかな気持ちになって、この気持ちを思い出すだけでいつでも幸せな気分になれそうだなという未来のことを思ったりする。
ちょっと変かもしれないけど、それはないだろうと思われるかもしれないけど、私はそうやって色々な「好き」を思い出すのがけっこう好きだ。