ゾウになる夢を見る

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アセクシャル(仮)とモラハラな彼(5)~恋愛感情のない人と愛のない人編~

アセクシャルについて考えるにあたって、10年前のことを4回に分けてふり返ってきました。
前回と今回を書くために長くなりました。

kirins.hateblo.jp

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今回これらを書き、思いがけず気づけたことがありました。
それは、わたしは恋愛感情のわからない人で、Rは愛のない人だったのだ、ということ。
これに思い至った時、「すごいことに気づいた!!」と思いました。当たり前では?と思われるかもしれませんが、大きなことだと思ったのです。
今日はそのことについて書いてみます。

長くなるので、どこに飛んでも大丈夫です。

 

 

◇別れるまで

長々と書きましたが、結局、付き合っていた期間は数か月でした。
最後の方はほとんど別れ話で、話がまとまったのはなんとクリスマス・イヴ。

周囲の人はRと付き合っていることを知りませんでした。唯一、少しだけ話していたのは部内の友人Yちゃんでしたが、Yちゃんにはずいぶん助けられました。
飲み会の席で隣の席にRが来ようとするとすかさず隣に来てくれたり、「Rの言うことは全部、はんっ!って思ってればいいんだから」と言ってくれたり。
もっと早くに話していればよかったなと思いました。手をつないで街を歩いた時のことを今でも思い出します。Yちゃんなしには、今のわたしはなかったと思う。ありがとう。

普通に別れ話をしても何度も失敗したので、最後にとったのは「別れたくないけど、Rのためにもこの関係はよくないと思うから別れよう」という形でした。
我ながら、よく思いついたなと思います。相手が涙している時に、「今だ!」と思い、嘘泣きができた自分に自分でびっくりでした。あの瞬間、言動とは真逆に冷め切っていて、とても冷静でした。
「泣くほど好きでいてくれたんだね」とRは満足そうでした。こうしてふり返ってみると、「誰かに好かれている自分」というのが、Rにとってはとても大事だったのだなと思います。

ただ、「好きだけど、付き合っていくことはできない」という形にしてしまっていたので、やり取りはその後も続くことになります。部活も同じですしね。
餅つきをしてる写真(謎)がメールで送られてきたり、わたしがしようとすることへ難癖をつけてきたり、みんなにこにこしているけど、わたしがどれだけ周りの人に嫌われているか、もっと「わたしなんて…」と思ったら?といったあまりにも幼稚な内容のメールが、ガラケー画面5スクロール以上に及ぶ量で送られてきたり…別れたものの実態は大きく変わっていない状態は半年くらい続いたと思います。
さすがに長文メールはきつかったです。全部に「絶対違う!!」と言えるんですけど根拠はなくて、せっかく楽しくなっていた日々が逆戻りした感じがしました。送り付けた結果が、手をつないできての「これで対等になれた気がする」でしたからね。とてもおかしい。

◆別れてから、回復するまで

時間はかかりましたが、麻痺しきっていた気持ちもほぐれていきます。
モラハラというものを知らないころのわたしですが、関係をよく表しているなということを時々書いていました。

閉鎖的な、特殊な別世界をもつだけだったところから、やっと帰ってこれるのだと思う。Yちゃんにははれやかになったって言ってもらえたし。

直後はRが正しいように思えて不安になることもありました。たぶん、「共依存」と言われる関係に近いものができていたのではと思います。

ですが、それまで十分にできなかった好きなことに打ち込み、ひとりになることもできるけど、一歩外に出れば誰かがいるという変化に、前向きな気持ちの方が大きかったです。オリオン座を見つけてうれしくなったりとか。そんななんてないことが、当時のわたしはしみじみとうれしかったようです。

一方で、日常を取り戻し、正常な感覚がわかってくると、次第にRへの怒りがわいてくることもありました。

つき合ってたことをなかったことにしたくて、なかったことにしたいことに時間がつかわれてきたことへのはがゆさ
その程度の人としかいられなかったこと その程度の自分

それでも、2人きりという密室的関係から外に出て、顔をあげてみると、みんながとてもあたたかく、そのことにとても救われました。もちろん、みんな何も知らなくて、これまで通りなんですけど。
気づいたらたくさんの人に名前を呼ばれていて、みんなにこにこと話してくれて、「君なんて」なんて言う人は誰もいなかった。むしろ、みんなとても好意的でした。
不思議なことに、それまで全然見えていなかったんです。

もちろん楽々ではなかったです。
Rの顔を見ることはもちろん、名前の字面、乗っている自転車、Rに似た感じの人とすれ違うだけでかなりどきっとしました。突然思い出され、泣きたい気持ちになることも何年も続きました。

男性が苦手というのも、少し長く続きました。
電車の2人掛けシートの空いた席に見知らぬ男性が座ってくるのも冷や汗ものでしたし、たとえそれが友人や先生であっても、2人になるのは嫌だなと思ったり、「君」と呼ばれることに苦手意識があったりしました。

今はほとんど大丈夫です。
それは、「大丈夫」という経験が積み重なったからだと思います。
異性の友人とメールのやり取りをしていても、最初は「ここできっと怒られる」なんてどきどきしてました。おかしな話ですよね。
でも、それがいい意味で裏切られていくんです。「あれ?怒らないどころか、楽しく続いている!」と。そんな風に「そうか、これは大丈夫なものだったんだ」というものが増えていきました。

さすがに、異性と2人で映画を見る状況になった時には爪まで真っ青でした。3人で見るはずが、1人来られなくなったんです。途中で知って、引き返そうかと思いました。でも、待ち合わせ場所に姿を見つけた瞬間、根拠はないけれど「あぁ、大丈夫だ」と思いました。
もう5年くらい前の出来事ですけど、その時になんでもない話をしながら歩いたことを、今でもあたたかな気持ちで思い返します。

Rとのことがあって、直感的に「これは大丈夫」、「これは何かおかしい」というのがわかるようになったと思います。これは、色々な経験をしてみなくては実感できなかったでしょう。

◇「アセクシャル」という言葉に出会う

当時直感的に思ったのは、この出来事が遠くなるのには早くて5年、普通にいけば7、8年かかるだろうということでした。まったくその通りで、思い出してもどきっとしなくなったのは、ここ数年のことです。
気にし続けるのはRの思うつぼだし、何より時間も気持ちももったいないと思っていたというのに、こんなに時間がかかりました。

それまでは、もしかしたら、無意識に見下していたかもしれません。考えてもどうしようもないことを悩み続けるとか、そういった渦中に入っていくとか――いや、どちらかと言えば「わかる」つもりでいて、実は安全地帯にいたような感じでしょうか。
こうして過ごしてみて、全然わかってなかったなと思います。

自分の力ではどうにもできないこと、どうにもならないことは、世の中に山のようにあるんです。(理屈は好きだけど)理屈が通用しないことが。
今だってそうです。世界には、わたしには想像もつかないような経験や感情が無数に存在していて、知った風に通り過ぎたり、知らないことも知らなくて、とんちんかんなことや無神経なことを口にしていたりするのだろうと思います。そのことを、知っているつもりでいたということを、今まで本当にはわかっていなかった。

 

さて、「アセクシャル」という言葉に出会うことになるのは、すべてがすっきりした後のことでした。

Rにつながる最後の扉を閉め切ってくれたのは、昨年末、図書館で見つけたモラハラ関連の本でした。そこには、出来事がモラハラだったのかどうかにこだわるのではなくて、大事なのはつらかったことはつらかったと認め、自分のためにとびきり幸せになることだ、といったようなことが書かれていてとてもすっきりしました。ほんと、白黒つけるべきはカテゴリーじゃないんです。どう感じ、どういう自分でありたいか。

そこで、わたしは誰かと付き合うことを考えてみたのです。自分はあの人のことを好きなんじゃないかとか、どんな人と付き合ってみたいだろうかとか、そんなことをです。付き合うのは面倒だと思う派のわたしとしては珍しく、楽しいことに思えてわくわくしたからです。
でも、あまりうまくいきませんでした。
この10年、別にRのことを引きずってきたわけではないんです。わたしにとって恋愛の優先順位はもともと底辺レベルで、やりたいことがたくさんありました。おまけに10年の間に自己免疫系の病気になるなど、本当にそれどころではなかったというのもあります。
それでも、色々な理由を取り払って考えてみても、うまくいかなかったのです。

好きになることや付き合うこと、付き合った後のスキンシップなどを想像してみても、すべてが同じように止まってしまうんです。下手なドラマでも見ているようで、自分のこととしてイメージできませんでした。
その時思い浮かんだことが、「どうやってスイッチを入れるんだろう?」というものでした。
うまく説明できませんが、その瞬間、そんな感覚にすごく違和感を覚えました。

もともと恋愛への関心が薄い方ですし、セクシュアリティ抜きにして、周りに共感できることがほとんどなかったり、話していても人を遠く感じることの方が多かった(相手からも遠いと言われる)ので、人と自分は違うのが当たり前と思って生きてきました。
だから、イメージできない違和感も、10代のうちに周りの友人のように好きな人がいなかったことも、特に「みんなと違う」とも「おかしいのだろうか」とは思ってきませんでした。
Rとのことがなかったら、今も「自分はそういうものだ」と思って生きていただろうと思います。

 

偶然にも「アセクシャル」という言葉と意味を知ったのは、今年1月のこと。
そういう世界もあったのか、と視界が開けたような気がしました。
別に誰かを好きになろうとしなくてもいいのだということ、数は少ないとは言え、誰もが性的な目で他者を見るわけではないとわかったからです。(Rには好きならそういう風に意識するものだ、そうしろと言われていました。)ついでにジェンダーの多様な考え方も知り、男性か女性かという視点で自分や人を見なくてもいいのだ、というのはとてもうれしかったです。

男性の友人が圧倒的に少ないので、その人たちと仲良くするということは恋愛なのだろうか、なんてことを結構まじめに考えていたので、男女関係なく好きでいていいのだとわかり、とても自由な気持ちです。
自由すぎて、自分の基準でばかり見ていては危ないかもとも思いますが、このフラットさをもうしばらく堪能していたいです。 

◆等価交換の「恋愛感情」、ただ祈るだけの「愛」

さて、今回気づき、考えたことです。

Rから離れて、周りに如何にたくさんの「愛」があるかがわかりました。
「愛」なんて陳腐で恥ずかしいですけど、そうとしかいいようのないものです。
Rには恋愛感情があって、わたしにはなかったのだと思います。
でも、わたしには「愛」というものが感じられて、自分や他者に抱くこともきっとできているのですが、Rには「愛」というものが足りていなかったのだと思います。
これは同じようで、ずいぶん違います。

 Rは本人が言うように「自己愛性パーソナリティ―障害」なのでしょう(※「自己愛性パーソナリティ障害」について詳しいことは割愛。「パーソナリティ障害」にも色々なものがあるので、誤解に要注意。「障害そのものが悪いのではない」、「人それぞれ違う」ということだけ強調させてください。)。
別れて4~5年経った頃、ばったり会ってしまい、その時に聞きました。相変わらず、「彼氏いるの?いない?やっぱりね、そうだと思った」みたいなことをずけずけと言ってくるのに、好きだと言い、きっぱり断ると「どうして少しも考えずに断れるのか、時間をとって考えてくれないと納得できない」と駄々をこねてました。駅構内で険悪になり、人が気にしていくので、話しにならない、と改札内に逃げ込みました。以来、会ってないです。大事なものを貸したままなのだけが心残りだけど、しょうがない。

Rは自分自身のことが大好きと言うわりに、本当のところは誰よりも自信がないのです。「俺ってすごいだろ」と言っている通りのRを認め、評価してもらいたがっていました。そのためだったら、人を操作することや否定することだって罪悪感なくやってのけます。Rの思い描くような自分より「劣る」人間を近くに置いておきたいのでしょう。

対するわたしは、恋愛感情や雰囲気というものがわからず、入り込めず、入り込むためのスイッチを探しているような状態でした。恋愛というものが介入することで、相手との距離をますます感じてしまいます。

そう気づいてわかったのは、Rはわたしから「恋愛」という形で「愛」を得たかったのだろうということです。自分自身の「愛」が空っぽなので、身近な人から奪ってでも「愛」が必要だった。
確かに、わたしは「付き合うことになったのだから、自分にできることはしたい」と思っていました。別れたいとは思っていましたが、人として切り捨てることはできませんでした。
ですが、たっぷりと強力な「愛」が欲しいRにとっては、その程度の気遣いではとてもともて足りなかったはずです。最後に会った時の言動を思い返してみても、わたしが差し出せるはずのない「恋愛」を求めていたような気がします。

 

じゃあ、恋愛感情と言うのはそんなにすごいのか、普通の「愛」じゃ及ばない強力なものなのかというと、実は単なる関係の火付け役で、ほんとに最初の一瞬だけのものかもしれないなと思います。特別な、深い関係を築くための火打石。
恋愛感情という火打石によって、「恋愛」という通常の「愛」とは違うものが生まれるだけです。

じゃあ、なくてもいいもの?と言われると、やっぱりあるのとないのとでは、その後の関係の意味が大きく違ってくるのだと思います。
A→Bと、C→Bは結果として見れば「Bに至る」として同じことですけど、その前にあるAやCがBに対してどのような意味づけをするかということは、決して小さな問題ではないはずです。特に、恋愛という独特な関係性においては。

 

でも、特別なものだからすばらしい、というのでもありません。

確かに、火打石を打ち合わせて、恋愛対象との間に火をつけることができるのだったら、存在する価値は大有りです。薪に火をつけて、あたたかな炎を囲んで温まったり、やさしい光で互いを見つめ合ったり、火のはぜる音を聞いて日常とは違う雰囲気を楽しんだりすることができます。

だけど、もし、火打石が燃やすべきでないものに火をつけてしまうとしたら? 
不燃性のものだったら、燃えなかったね、よかったね、で済むかもしれません。
ビニル袋のようなものだったら、異臭がしたり、場合によっては有害物質が発生したりすることもあるかもしれません。
誰かの大切なものを、焼失させてしまうことだってあるのかも。
当たり前ですが、火打石があるからといって、なんにでも火をつければいいというわけではないのです。
恋愛感情から強い「愛」が生じるのは確かですが、それは火をつけた人自身の見栄や保身、満足感のために生み出されたものかもしれません。
火をつけることに夢中になっていると、それが誰かを傷つけることに思い至らないことだってあるでしょう。

もちろん、「愛」だって同じです。誰かや何かを損なうことはあり得ます。
でも、もし誰かを損なうような「愛」があるとすれば、それはきっと「愛」の形をした「愛ではないもの」ではないでしょうか。他の誰かや何かのためではなくて、その持ち主自身のために何かを犠牲にしている可能性があるからです。特に自分のための「愛」を何かで充足させようという考えは、いびつで歪んだ「愛」を生むことになるとと思います。

たとえば、Rには「愛」がなかったと言いましたが、Rは「愛」を欲していて、その「愛」を作るために火打石を使っていました。そうして周囲のものに見境なく火をつけて回って生み出されたものは、攻撃性が強く、とても「愛」とは言えませんでした。

 

 恋愛と愛の違い――こんなことを考えながら思ったのは、恋愛というのは対価を必要とするけれど、愛は本来、対価を必要としないのではないか、そもそも等価交換が不可能なものなのではないか、ということでした。

火打石は、火をつけるものなので、火をつける対象があってはじめて「火打石」であることができます。火をつけることがなければ、ただの石です。
どんな火を、どれだけ燃やし続けたいのかによっても、必要とする対象は変わってくるでしょう。小さくてもできるだけ長く絶やさずにいたいのか、それとも大きな花火を一つ打ち上げられれば満足なのか。
いずれにしても、「燃やすための何か」が必ず必要なのです。たとえ成就しなかったとしても、告白や失恋という形ですでに交換がなされているはずです。

これに対して、「愛」は対価がなくても存在可能です。
自分自身でも、他者でも、対象はなんだっていいのですが、それに対して「愛」を向ける場合に、対価、つまり何らかの犠牲を払うことは必ずしも必要ではありません。
届かないことも多いはずですし、届くことが目的ではないからです。
たぶん「愛」のある人は、何も求めていないと思います。誰かの無事を祈ったり、願ったり、ただただ愛しく思ったり。「愛」と何かを交換しようとしているのだとしたら、それは「愛」ではなくなってしまうか、「愛」とはまったく別のもののような気がします。

さらに言えば、「愛」は色々な形で存在し得ます。目に見えない、存在すら気づかれない形だっていいのです。だから、どんな方法で火をつけたって「愛」は「愛」です。石のままの「愛」だってあり得ます。

もちろん、それぞれの「愛」の形や性質は違って当然です。
火打石がなくたってすばらしい、「愛」は「愛」。それはその通りなのですけど、わたしは火打石の代わりになるものはないし、火打石を使ってつけられた火とライターでつけられた火が、たとえ同じ火であるように見えたとしても、それはまったく別物だと思っています。
冷淡なことを言えば、恋愛感情を持たずして、同じ「愛」を作れるかというと、それは不可能だと思うのです。

でもですね、そもそも同じって何?という話にもなるのです。
こねる前の粘土の塊と、粘土をこねて成型した物体は存在として同じか?みたいな形而上学的なところまでいくでしょう。
同じに見えても、どれも違うのだというのがわたしの考えです。 

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一人一人の背景が違うので、持っている「愛」や思い描いたり、生み出したりする「愛」の形も違うのです。f:id:kirinno_miruyume:20180909221614j:plain

それが自分や他者を損なうものでなければ、それで大丈夫です。どんな形や色をしていても。f:id:kirinno_miruyume:20180909221411j:plain
差し出し方もさまざまでしょう。包んで手渡すのか、誰にも伝えることなく、むき出しのままどこかにそっと置いていくのか。

どれだっていいです。恋愛はもてはやされるけれど、その先に「愛」がないのなら凶器となるかもしれないし、「愛」だって使い方を間違えれば人を傷つけます。
そのことだけわかっていれば、大丈夫です。

どちらも同じくらい危ういです。どちらが優れているとか、劣っているとかもなく。
ただ、どんなに同じものに見えるとしても、同じ「恋愛」や「愛」について語っているように見えても、どれ一つ同じではありません。 

だから、本当はなんだっていいんです。
火をつけても、つけなくても。
火打石でつけても、マッチでつけても。
つけることを想像するのでも、無関心でも。
なんだっていいし、優劣もないし、人が人にとやかく言えることでもないんです。だって、全員、丸ごとぜんぶ違うから。

 


できれば傷つく人が少なく、あたためられる人が多ければいいなと思います。

 

 

おわり