ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

きらきらをつかまえたい

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 日曜日の朝が好きだ。

できれば少し晴れていて、机の前の南向きの窓から日差しが差し込んでくるといい。
周囲の幼稚園も保育園もお休みだし、幅の狭い道を駅へと急ぐ車も少ない。今日は工事もお休みで、すぐ裏の体育館からボールの跳ねる音やホイッスルの響く音がする以外、とても静かだ。
一日のほとんどを耳栓をして過ごしていると気づいて、極力使わないようにし、そのことにもなれてきたけれど、やはり何もせずに静かな時間はとても心地よい。

 

周りが騒がしくても「静かな時間」というのは存在する。
すべてが遠くて、自分が空気に幾重にも包まれた時間。孤独、というのとはちょっと違う。ただ遠いだけ、ということの方が多いけれど、ときどきとてもきれいなものを見つける。

なんの変哲もない街路樹が、やわらかな日差しを受けて揺れているところ。
体育館で舞う埃の、永遠と続く降下。
マグカップから立ちのぼる湯気と、ミルクティーの落ち着いた色合い。
ガラスの向こうを通り過ぎる、蝶や蜻蛉。

ふっとすべての音が消えてしまったみたいに、何一つ特別なところのないものに光が当たる。

そういったものを心の中で「きらきら」と呼んで、気にかけてきた。そういったものが一つでも見つけられるうちは、周りのことはあまり気にならなくて、何かしらの楽しみもみつけられるんじゃないか、そう思っている。

 

写真が先だったのか、きらきらが先だったのか、どちらがどうなのかわからなくなったけれど、一時期、きらきらを積極的に探して、写真に残していた。お、と思うものを写真に撮っていたら、そういったものを見つけやすくなったのかもしれないし、たくさんの写真の中から、そういった傾向をつかんでいったのかもしれない。

いつからか、そうしたものをわざわざ写真に残すことがばからしくなって、頭の中だけで残すようになった。きらきらを見つけると、その光景だけが静かに浮かび上がって、まるで風景が写真か、音声のない動画のように見える。残しておきたいなと思うけれど、それがわたしの力では写真や動画に思うように残せないということがわかっている。でも、そんな「あ」を繰り返すうちに、残したいなと思うものはちゃんと頭の中に残っていくものだと気づいた。
いつかは消えていくのだろうけど、思い出せる間だけ残しておく必要があるということなのだと思う。

 

何年も前に見た映像作品で、掘っ立て小屋に暮らすおばあさんが「世の中に美しいけれどむなしいものは山のようにあるでしょう?でも、ここから考えられないようなすばらしいものがうまれてくるの。そうしたら、世の中の美しいものをむなしいと感じるはず」というようなことを語っていた。そのおばあさんが実在の方なのか、フィクションなのか、今もよくわからない。でも、本当にとっておきの、きらきらとしたものは、とても静かで、目立たなくて、しかもあっという間に通り過ぎていってしまう、というところは本当にその通りだと思う。

ときどき、やっぱり残しておきたいなと思うこともあるけれど、そうするとありふれたものの一つでしかなくなってしまいそうだし、消えてしまうはずのものをとどめておくというのは、どこか違う気がする。それでも、きらきらをつかまえたいなと思うのは、100%自分のためとは言い切れない、「ほら、あれ」と言ってみたい気持ちがあるからなのかもしれない。