ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

恋愛観・性愛観①

アセクシュアルノンセクシュアルの概念を知ったからと言って、何かが劇的に変わったか、というとそうでもない。
アセクシャルノンセクシャルなのかということもはっきりしないし、そうかもしれないし、そうでないかもしれないと揺れ動くことこそが、アセクシャル(orノンセクシャル)の周辺にいる、ということのような気もする。
わからなくても大丈夫だし、はっきりしないまま名乗ったって大丈夫。一緒にぐるぐるしましょう。

ただ、あまりにぐるぐるしていると、だんだんと自分がもともとどう思っていたのかということが危うくなりそうだと思い始めたので、いつでも見返せるように自分の恋愛観・性愛観あるいはちょっとした遍歴を整理しておこうと思う。
自分がそこに入るかどうかを決定づけたいわけではなくて、自分やひょっとしたら通りすがりの誰かの参考になることがあればいいな、くらいの気持ち。

カテゴリーがあろうとなかろうと、自分は自分。アセクシャルかどうかと問うよりも、自分の中の一つの感覚として見てみるのもいいかもね。

おそらく確かなこと 

まず、はっきりしていのは、他者に向けた性的欲求というものを感じたことがないということ。誰かと手をつなぎたいとか、抱きしめたい/られたいとか、キスしたいとか…恋人同士がするであろうことを、してみたいと思ったことがない。ので、そうしたいという感覚がいまいちよくわからない。

どんな感じだろう?と思ってみたことはあるけれど、自分のこととして、あるいは自分と誰かとの間のこととして思い浮かべられなくて、いいなとあこがれることはたぶんなかった。でも、まぁ、そうしたい具体的な誰かがいないからだろう、いたら違うのかな、くらいに考えていた。

それは今も同じで、さらに付け加えるなら、自分以外の人もそんなに誰かと恋愛的なスキンシップをとりたいとは思っていないんじゃないかと逆に疑っている。そもそも、どこまでが性愛や性的欲求に含まれるのかも不確かだしね。

ただ、アセクシャルノンセクシャルのことを知って、関連としてセクシュアル・マイノリティと言われるLGBT関連の記事や動画を見る中で、わたしが思うほど、わたしの「普通」は普遍的ではないかもしれないとは思うようになった。
「マイノリティ」と言われる人々もわたしにとってはマジョリティとされる「ストレート」の人々と何ら変わらなくて、誰かを愛していたり、愛されたいと願っていたりしているみたいだった。対象が異性だろうが、同性だろうが、手をつないだり、ハグしたりしたい/されたいと思う人は、わたしが考えるよりずっと多いのかもしれない。街中で手をつないだり、肩を寄せ合ったりしているカップルを見ると、それが異性同士でも同性同士でもなんだかすごく不思議で、別の生き物みたいに思える。ドラマや映画の中とか、フィクションだとそうは思わないんだけど。ますます不思議。

どこまでOKか?

じゃあ、恋愛的なスキンシップが全くだめなのかというと、だめと言えばだめだし、可能と言えば可能かもしれない。友達と大事な話をしたり、励まし合うとか、なぐさめるとか…何か盛り上がった感情があった時に、自然と手をつないで歩いたり、ハグしたりしたということはある。
だけど、女の子同士のあいさつのようなハグとか、親密さを表すボディタッチとかは、思い出してみれば中学から高校まで、毎回全力で逃げていたなーと思う。これは恋愛、性愛関係のないものだろうと思う。恋愛、友情にかかわらず、不要な身体的接触は好まない質なのかも。とはいえ、嫌悪も全くしないけれど。

つまり、そうすることの必要性が感じられればOKなのだ。
ということはよ?もし友達とキスしたりなんたりする世界があるとしたら、キスできるかもしれないなーなんてことを考えたりする。あるいは、恋人とのスキンシップに特に意味が感じられないから、恋人とそれができるなら、同じことが友人ともできちゃったりするんじゃないか、とか。想像でしかないけど。

 

そんなわたしも、付き合いましょう、別れましょう、という形の「付き合う」は一度だけ経験したことがある。(そのことについて書いたのがこちら↓)

kirins.hateblo.jp

これもAセク関連を知るに至ることに絡んでいる、なんとも簡単に説明できない出来事で、また別のカテゴリーが関わってくる。カテゴリーというのはとても厄介で、カテゴリーに必要以上に囚われると、不必要に問題にのめり込んでしまうこともある。
とにかく、カテゴリーがなんであれ、わたしにとってその経験は理想的な「付き合う」ではなくて、わたしの持つ要素と相手の持つ要素が最悪の形で呼応した付き合いだったなと思う。

それまでは、恋愛がよくわからなくてという同じ理由でお断りしてきた。もちろん相手のことは嫌いではなかったけど、特別好きでもなくて、だから相手の「好き」はうれしいけどよくわからないなと思っていた。付き合うことになった相手以外は、それで納得してくれた(と思う)。
件の相手だけは納得できないようで、色々な例をあげては、わたしがその人のことを好きなはずだ、そうでしかあり得ないというようなことを言い続けてきた。(なぜか次第に逆切れされ、責められた)次第にわたしも自信がなくなり、ノイローゼになりそうで、「付き合えばわたしのことが嫌になるだろう」と半ば投げやりに付き合うことを了承したというわけ。(もちろん、これが大きな間違いだった)

そんなこんなで、その相手のことを好きだったとは思わないし、だからこそ色々なスキンシップが苦痛だったのだろうと思ってきた。(付け加えれば、相手はわたしが本当に自分のことを「好き」なのか、別れて数年たっても気にし続けていた。そう思うよね、と思う。)

例えば、手をつなぐのもできれば避けたくて、最初こそ我慢していたものの、どうしてもそうしたくなくて、手をつなぎたくないということと、その理由をレポート用紙数枚に書いて渡したことがあった。主な理由は、子供が親と手をつなぐ理由はわかるけど、恋人同士のものはわからないし、第一他の通行人のじゃまだろう、というもの。
今思えばおかしなことだとわかるけれど、まじめだったし、本気でどうにかしたかったのだと思う。

そんな状態だから、ハグすらまともにできないし、その他諸々のスキンシップも知識と関心がなかったため(少女漫画雑誌「りぼん」か「マーガレット」くらいどまり)、わりと最近まで相手のことを変な人だったのかもと思っていた。すべてに嫌だな、気が進まないなと感じるのは本当に好きではないからだろうと、長い間思ってきた。

もめるばかりの付き合いだったこともあって、別れることができてほっとしたし、一生誰かと付き合わなくていいなとも思った。時々思い出されて嫌になることも長く続いたので、恋愛に関心が向かないのはそのせいだろうと思っていた。けど、思えばそれ以前も特定の誰かと付き合いたいと思ったことがあったわけではなかった。

ずいぶん年月がたって、気持ちの整理もびっくりするぐらいすっきりついて、少しすてきだなと思う人ができた時に、その人と付き合いたいのか、その人と付き合うとはどういうことかと考えてみた。結果、別にその人と付き合いたいと思わないし、その相手であれ、誰であれ、恋愛的スキンシップをとることが想像できないということに気づいてびっくりした瞬間を今も覚えている。
すべて解決して、本当にもう何も思い悩んでいないのに、なんだろう、うまく説明できないけれど、「そうするためにはどうやってスイッチをいれるんだ?」と、自分の発想が自分でとんちんかんであることに気づく変な瞬間があって、「これはどうしてなのだろう?これはなんだろう?」と変な感じがした。

 

こんな風に、あまり身体的接触は好まないけど、当然ながら時と場合と相手によるし、今まで想像できなかったとしても、時と場合と相手によってそうしたいという感覚を持つ可能性は否定できないと思う。
ただ、否定できないとは言え、そういうことが起こり得るというような直感的な感覚もまるでない。
「好き」の種類や恋愛感情かどうかということは結構ややこしいけれど、性的欲求という面に関しては、わりとはっきりしているのではないかと思う。

 

長くなったので、続きはまた改めて。

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