ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

色々な世界を見たいから、色々な言葉を聞く「耳」を持っていたい

たとえば英語ばかりの環境に身を置いた時、その環境に順応しようとすると、考え方やテンションまでその言語様式にチューニングされる気がする。
日本語圏だと会釈で通り過ぎるところで、"Hi !"なんて言ってみたりとか。テンションをあげないとついていけない。
「今日はどうもありがとうございます」「いえいえ、こちらこそ」みたいな場面で、"Thank you for what?"(「え、何に対して?」)となってしまったりとか。
まだ、なんとなくわかる言語ならいいけど、ロシア語とかスペイン語とかだったらお手上げだろう。たぶん、気持ちを伝えるのなら、母語である日本語を使った方がよっぽど相手に伝わるんじゃないかな。Googleに翻訳してもらえばいいし。

それくらい、言葉というのは難しいし、大切だ。
英語教育、グローバルなナンチャラなんて言っているけど、結局グローバルなのに英語に限定されているし、英語はというと「Good morningはおはようございますという意味ですよ」くらいの意味しか持っていない気がする。

言葉は確かに意味を伝達するための記号だけど、A=Bとならないのが難しくも重要なところなのにね。

さてさて、『龍の耳を君に』という小説を読んだので、その話を。

龍の耳を君に (デフ・ヴォイス新章)

 

 なぜ外国語の話をしたかというと、この小説が手話、特に「日本手話」というものを扱っているから。

あらすじ

手話通訳士の荒井は拠点を東京から埼玉に移し、聾者の起こした強盗や傷害事件の通訳をする生活の中、恋人の娘の緘黙症の同級生に手話を教えることになった。同級生の少年は手話を積極的に憶えていくが、突然殺人事件を目撃したと話し始めた。NPOに出入りする男が何者かに殺害された事件は、少年の自宅から目と鼻の先だった。果たして緘黙症の少年の証言は有効なのか? 手話通訳士の優しさと、家族との葛藤を描いたミステリ連作集。書評サイトで話題を集めた『デフ・ヴォイス 法廷の通訳士』に連なる、感動の第二弾。

 第二弾とは知らず、どこかで書評を見ておもしろそうと思っていた気がする…と思って手に取った。第二弾からでも主人公荒井のことはすっと入ってきたし、前作で何か重要なことが起きたのだなということも、核心をつくことなくぼんやりとわかるので、これを先に読んだからといって一作目を読む気がしなくなる、なんてことはないので大丈夫。むしろ一作目が気になる。

手話という言語

手話が音声や文章の日本語と文法が違う、というのは聞いたことがあった。
でも実際は、日本語の文法に対応した「日本語対応手話」と、独自の文法や文化を持つ「日本手話」というものがあるということをこの小説で知った。
「日本語対応手話って指文字のこと?」なんて思っていたのだから、もう全然わかっていない。

以前から手話というものは、不思議だった。
助詞があるわけではなさそうなのに、どうして意味が伝わるのだろう。
一つの手話に色々な意味があることもあって、それをどうやって読み取るのだろう。
もちろん、興味深くもあった。
電車で見かけた蝶が舞うようなひらひらとしたおしゃべり。
老夫婦が交わす指文字のようなやり取りとそこからにじみ出る、お互いをよく知るが故の短く、さっぱりとした雰囲気。

その不思議さ、美しさに惹かれたのは小学校で上級生が歌った手話付きの歌だったと思う。それが羨ましくて、翌年は同じ出し物の場で先生に手話付きの歌をリクエストしたり。自分で本を探してきて覚え、友人を巻き込んでクラスで披露してみたり。NHKの手話講座を見たり、Youtubeを見たり。
ただ、英語と同じで、AというのはBという意味という感じに覚えるだけで、無意識に「日本語の中の手話」という風に思っていた気がする。

実際は、そうじゃない。
手話、特に「日本手話」というものが一つの言語であり、日本語と手話の一対一の対応関係では表しきれない豊かな表現を持つのかということを、小説を介して知った。

日本手話には「ポ」「パ」「ピ」のように手話口形と呼ばれる独特の口の形があり、手話と共に表出されることで一種の文法的機能を果たす。眉の上げ下げや表情の変化とともに、……『龍の耳を君に』、45頁

仮に手話で表現することの一つ一つを読み取ることができたとしても 、その言語を自分の言葉としていない者にとっては、そのつながりが表すものを本当の意味では理解できないのだろうと思った。 わたしが英語の簡単な表現でさえ、そのニュアンスをよく理解できないように。

自分の言葉を持っているか

音声でのやり取りが困難な人全員が手話を使うわけではないし、手話すべてが日本手話というわけではない。
筆談の方がより正確に伝えられるということもあるだろうし、筆談で用いられる言語(文法)そのものがすでに母語ではないということも考えられる。
これだったら間違いなくやり取りできるだろうと思っているものが、実は相手に別の言語に合わせることを強いているかもしれない。(英語だとテンションをあげなきゃいけない、みたいに)

言語に限った話ではなく、同じ地域に住んでいるから、同じ世代だから、同じ言葉を話している(ように見える)から、といった理由で、色々な面で「わかる」ことが前提になりすぎている気がする。

仮にそのすべてを本当に共有できているとしても、状況や相手との関係性によって言葉は色々な意味を持つ。
たとえば「バカだな」という言葉。
何かに失敗した時、それほど親しくない人から「バカだな」と言われれば、それは否定的な意味に聞こえるかもしれない。
でも、とても親しく、互いの色々な面を知っている人から掛けられた言葉だとしたら、「もう、ほんとに危なっかしいんだから」くらいの、心配と好意を含んだ言葉になるかもしれない。

また、この言語をわからないのだから、何言ったってわからないだろうと思ってかけた言葉が、実は表情や雰囲気でものすごくよく伝わっているということもある。本当にその言語を知らない場合というのもあるし、知っているのに相手がこちらを「知らない」人と勝手に思い込んでいる場合もある(通じてるぞ、と心で思う)

それくらい言葉というのは繊細で、見かけほど形が定まっていない。

 

本文には、こんな話も出てくる。

龍がどういう姿かたちをしているかは知ってるだろう?
龍には、ツノはあるけど耳はない。
龍はツノで音を感知するから、耳が必要なくて退化したんだ。
使われなくなった耳は、とうとう海に落ちてタツノオトシゴになった。
だから、龍には耳がない。
聾という字は、それで「龍の耳」と書くんだよ。

 ある言葉の意味を知るためには、単に文法や単語の意味を知ればいいというのではなくて、それを解するための「聞き方」というものがあるのだと思う。
逆に文法や単語の意味を知らなくても、その「聞き方」を少しでもわかっていれば、あるいはわかろうとする気持ちがあれば、それは「聞こえてくる」ようになるものなのかもしれない。

こうして読み書きしている「日本語」という母語も、実はあやふやだ。
話していることを「自分の言葉」と思い込んでいるだけで、実は借り物の言葉を並べているだけかもしれない。
たとえ母語でなくても、拙くても、伝えようと必死になれば、それは「自分の言葉」と言えるのかも。 

本当は言葉に限らなくて、ものの見方、感じ方というのも、色々なヴァリエーションがある。
自分が常日頃使っていない聞き方、見方、感じ方を知るためには、まずはその存在を知ることと、それを自分の聞き方、見方、感じ方に合わせようとするのではなく、別の聞き方、見方、感じ方で聞き取ろう、見よう、感じようとすることが大事なのだと思う。
何にしても、わたしもそのことがずいぶん欠けている。

 

ラスト数行は、そんな色々が混じり合っていて、思いがけず涙が出た。

 

龍の耳を君に (デフ・ヴォイス新章)

龍の耳を君に (デフ・ヴォイス新章)

 

 

手のひらから広がる未来 ヘレン・ケラーになった女子大生

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 手話ではないけれど、指点字という言語もある。新たな言語を修得すること、その先に開けるもの。