ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

きっと、成長のための踊り場にいる

常に良い方へ、良い方へと行けたらいいけど、なかなかそうもいかない。

 ずいぶん楽々になったな、とか
これを繰り返していけばいいのか、
このままいくとつまらなくなるかも、
なんて思うようになった時(つまり、甘すぎもいいところだった)、それはやってくる。

わかりやすく言えば、「行き詰る」。
こんなにうまくできるようになったのに、
あんなにいろいろとやってきたのに、
「楽々」はあっという間に世代交代を迎える。

おもしろいなと思う。
何かを極めようとしても、「極めきる」ということはない。

登りに登りつめ、もうこれ以上はないだろう、と思うようなスポーツ選手も、「もうこれで楽々です」なんて言わない。
なんなら、一度引退して、再スタートすることだってある。

誰もが知る名俳優や、よく知らないけどなんかすごいらしい棋士にも、「これで終わり」というものはないらしい。
ますますわからなくなった、なんて言っていたりする。

はたから見れば、「成功」したり何かに「到達」したりしている人たちだってこうなのだから、いわんや凡人をや。

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何かを習得することは、一歩一歩階段をあがっていくことのように思えるけど、どうやらそう単純じゃないらしい。

もちろん、1から10まで数えることができないのに、1から100まで数えることができるというのはあまり考えられない。
何かが何かの基礎になっていて、それなしには到達できないところというのは確かにある。
学校の勉強はどちらかというとその類みたいだけど(あらかじめ、筋道が立てられている)、それは人生において比較的レアな習得のケースなのだろうと思う。

こつこつ積み上げれば、必ず何かができるようになるわけじゃない。
でも、こつこつやっていると、いきなり何かができるようになることは、なくはない。

変化というか、成長というのはおもしろいもので、徐々にできるようになるというよりは、ある日突然、できるようになる。

いや、よくよく観察していれば、「あと少しだったのに」というものが積み重なっているのかもしれない。
でも、実感としてはできなかった状態はなんだったのか、と思うくらい、突然ぱっと切り替わる。あるいは、「そういえばできていた」と振り返る感じ。

 

螺旋階段みたいにぐるぐると、でも着実にのぼっていけたらいい。
あるいは、てっぺんが見えないような、永遠に続くまっすぐな階段とか。
苦しいだろうけど、「のぼっている」という実感は得られる。

ところが実際は、「あぁ、のぼれた!」という喜びや、あるいは「これでゆっくり散策が楽しめる」と鼻唄でもうたってぶらぶら歩き出したくなる気分というのは一瞬で、「あぁ、次が来た」とすぐに気づく。

進めども、進めども、進んでいる感じがまったくしない。
のぼりきったはずなのに、平坦なはずなのに、ちっとも楽じゃないし、楽しくない。むしろ苦しい。
階段であれば、まだ「のぼっている」という実感がある。
そんな実感もなく、ただ身体全体が重く、思うように進めないというのだけが続く。

「少し何かができるようになった状態」から「さらに別の何かができるようになる」までの間が関門なのだ。
階段の踊り場のような場所なのだと思う。
わかりやすい変化はないけど、次のフロアに行くにはどうしても通らなければいけない場所。

 

たぶん、一年以上踊り場にいる。
それまでは、自分の力が足りないのがよくよくわかっていたし、わかっていたからこそ、ひたすらに目の前のことをこなすしかなかった。
期限はどんどん迫るし、能力にも限界があるので、その中で間に合わせるしかなかった。
でも、振り返ってみると、あの時確かに階段をのぼっていた。のぼり終えると、これまで見えなかったものが見えるようになっていた。

でも、問題はそこからだった。

どうしても、そこまで積み上げてきたものを使ってしまいたくなる。
同じように繰り返せば、同じような結果が出ると思ってしまうからだ。
実際、「同じようなもの」はできるのだろうけど、それはまるで意味のない空っぽのもので、次に進まない限り意味あるものは生まれない。
それはそれでいやだと、わがままにも思う。

 

今、気づかないだけで実は階段をのぼれているのか。
あるいは、本当に延々と、踊り場を歩いているのか。
そのうち踊り場を抜けて、びゅんっと急上昇できるのか。
踊り場にいる時、本人はどこにいるのかわからない。
そこが踊り場だったのか、上りや下りの階段だったのかは、別のフロアに着いてはじめてわかる。

本人からすれば、そこは「どん底」。
比べるのは、前回の、階段を登りきったあとの自分だから、今の自分がとても低いところにいる気がしてならない。

 

こんな時、本当はちょっと先を行く人がそばにいるといい。
それか、この道に詳しい人に思い切って教えを乞うか。
でも「あとちょっとかもしれない」と思うと、思い切れない。

あるいは、いわゆる「古典」のようなものを開いてみると、時代を超えて「同じ踊り場にいる人」に出会えて、ほっとできるかもしれない。

一番確実なのは、

  1. 今、できそうなことを列挙する
  2. できそうなことの中で1番簡単なことに着手する
  3. 落ち着いて、一つのことに集中する

これらを繰り返すこと。

気づいたら、突破口が見つかっているかも。
もうすぐ、一気に階段を駆け上れるのかも。
そうでなくても、とりあえず集中することが見つかれば、「今、自分がどこにいるか」なんて気にしている余裕はなくなる。

そんな風に、前へ前へを繰り返すしかない。近道は、繰り返して迎える急上昇。

 

大人になれば、こんなこともなくなるのだと思っていた。
視界はいつもクリアで、できない自分をはがゆく思ったりしないんだと。
でも大人になったらどころか、50歳になっても、80歳になっても、110歳になっても踊り場や上り下りの階段が続くような気がする。
それでも、頂上が見えてしまうよりは、どこにも進めなくなってしまうよりは、ずっと何かの踊り場にいて、とにかく進み続けることができる方が幸せなのかもしれないと思う。
やっぱり、見たことのない景色を見続けたい。

 

 

 

試行錯誤が楽しいと思う時もあるし、やっぱり一つ一つやっていくしかないと言い聞かせる時もある。

kirins.hateblo.jp

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