ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

できるのは、見守ることだけ

ちょっと先の未来のことを考えるのが楽しい。
たとえば、料理ができた時のこと。詰めているお弁当を食べる時のこと。
シリーズものの本の発売日のこと。数週間後の予定。
どれも同じくらいいいけど、やっぱりその時間の経過の中で何かが変化したり(気持ちとか形とか)、その変化に少しでも自分が関われたりするものがより楽しい。

数十分後のこと、数時間後のこと、数週間後のこと――どれもちょっと先の未来。
だけど、それよりもう少し先の未来で、確実に何かが変化し、それに関わることができるものを望むなら、何かを育てるというのがぴったりだ。
なんでもいいけど、やっぱり植物かな。
冬に夏のことを思って、秋には春のことを考えていて。

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今年の初めに種を蒔いて、初夏に植え付けたナスが、涼しくなってからどんどん実をつけてる。夏の間は暑すぎていまいちだったのに。
普通のナスより1つ1つが大きいし、一度に複数個獲れるから、腐らせないようにせっせと食べないといけない。

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ヴィオレッタ・ディ・フィレンツェフィレンツェのすみれ)という名前のイタリアナスで、色も味もナスの最高峰だと思う。
つやつやとした紫色はいくら眺めても飽きないし、水っぽくないぎゅっと詰まった肉質なので、グラタンとか洋風の炒め物が「これはナス?」という感じにたまらなくおいしい。

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 そんな秋ナス真っ盛りの今、来年用にと種を採った。
今実をつけているのは、購入した種を蒔いて育て(Parent1?)種を採って、それを翌年蒔いて育て(Filial1?)また種を 採って、その種を蒔いて育てたもの(F2?)のはず)。こういうの、何代目っていうんだっけ。我が家で育ったものとしては3代目?我が家で採った種で育てたものとしては2代目?とにかくそんな感じ。

ナスの種を採るためには、株が元気なころ、一番形や大きさ、色味の良い実を残しておかないといけない。今年種を採った実は、7月頃になっていたもの。
9月の終わりか10月の初めころまで樹にならせたままにしておいた。置いておくことで、種をつけさせるためだ。

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通常の実(右)に比べると、ずっと置いておいた分は黄色っぽい(左)。この種類のナスは葉姿や花もとてもきれいで、ちょっと飾るのもいい(中央)。

1か月以上樹にならせたままにしておいた実は、収穫してからさらに1週間以上置いておく。今回はタイミングが合わず、2週間くらい放置。

発酵した香りだろうか。この間、なんとも言えない微妙な重甘い香りが漂う。室内に置いておくと気分が悪くなる、と家族に不評だったことを忘れて、今年も家の中から外へと保管場所を移した。
それくらい置いておくと(追熟)、獲りたては固かった皮が、押すと柔らかさが感じられるまでになる。

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さぁ、いよいよ種採り。こうして種を採ることを「自家採種」と言う。

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実を包丁などでぱかっと割る。
ずっと置いておいたのに腐っていることはまずなく、実は食べられそうなくらい真っ白。
(ただし一度、1か月以上置いていたため、虫が湧き始めてたことがある…)

あとは手で実を割りながら、水を張ったボウルの中で実を洗うように種を掻き出していく。
意外ときれいに取れる。使える種はボウルの底に沈み、実や未熟な種は水に浮かぶ。
それらを洗うようにしながらより分け、使える種だけを残せばいい。

あとは、日の当たる窓辺などで乾かす。なんとも簡単。

 

去年までは保険にと、2~3個の実から種を採った。でも、結局余ってしまうので今年は1つの実から。
今年もぷくぷくとした良い種がたくさんできていた。毎年、実の中で発根している種がちらほら見られる。実の中で根を張ってどうするんだろう?植物ってすごい。

最初は足りないかなと心配になったけど、やはり使いきれないくらいの種が採れた。上出来。 

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何かを育てるのなら犬や猫というのもいいし、人間の子というのもいいのだろうけど、わたしはモノ言わぬ植物というのがとても好きだ。
こちらの意思とは無関係に、土壌や天候に左右されながら、すくすく育っていく。
わたしにできることなど大してないな、と思わせてくれるところがいい。

わたしがいくらがんばったところで変えられないものは変えられないし、良い条件だとこちらが思っていても、同じ条件でうまく育つものとそうでないものがある。
植物は期待されてるとかされていないとか関係なく育ち、わたしは(たくさん収穫できることを)ちょっと期待するけれど、そんなこと望んだってどうにもならないということを知っている。

育てる時にできることといったら、「見守る」くらいしかない。あとは、がんばってねと思うくらい。

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そんなに手を貸す必要がないのだ。
小さかった苗も、水をやればすくすく大きくなる。

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黒いマルチングからがナス。植え付け時のことなど↓

kirins.hateblo.jp

 

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幅60センチくらいのところで育てているので、幅いっぱいに大きくなって、通り抜けしにくいほどになる。

 

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植物には虫が付きもの。いいものも、悪いものも。
今年は、テントウムシダマシと格闘した。

カマキリとカナヘビには、毎年遭遇する。
カマキリの顔とポーズは愛らしくて好きだ。同じ固体かわからないけど、最近見かけたものはこれよりもずっと大きくなっていた。

あのカマキリも去年のカマキリや一昨年のカマキリとつながってるんだろうか。我が家のナスみたいに。
そして、それが繰り返される限り、来年にも再来年にもつながっていく。

ずっとつながっていくということは、先だけじゃなく前もあるということ。
また春と呼べない寒い時期に種を蒔けるかな、と思いながら種を採る。
種を蒔くときは、夏に実がなることを想う。
夏になれば、秋もたくさん実がなるようにと水や肥料をやり、剪定をする。
時々、去年はどうだったかな、と思いながら。
何かを育てるって、そんな「ちょっと先」と「ちょっと前」を想うことの連続なのだ。

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育てることで「ちょっと先」を想うことは、植物じゃなくても同じだ。

たとえば犬や猫には彼らのルールがあって、わたしたち人間の「完全なる思い通り」にはならない。どうしても「こう動いてほしい」というのがあれば、相手がそうしたくなるようにきっかけを作ったり、気分を盛り立てたりしないといけない。
それが阿吽の呼吸でできるようになると、ちょっとうれしいし、お互いに安心感がある。

人間も本当は同じだけど、産んだとか生まれたとか、そういったつながりが、育てる中での役割や関係性をわかりにくくするのかもしれない。産んだことも育てたこともないから想像だけど。

わたしには我が子を産みたいという気持ちも、育てたいという気持ちもないので、よくわからない。
よくわからないけど、もし植物や犬・猫と育てることの関係性が同じなのであれば、わたしにとってはその子が自分の遺伝子を半分受け継いでいるかどうか、ということはさして重要ではない気がする。
むしろ、自分となんの関わりもないという関係の方が、「見守る」しかできない感がなぜだか強く、良好な関係を築ける気さえする。これも想像だけど。

 最初から「あなたとわたしは違うんだ」ということを、しっかりと線引きしておくことがたぶん大切だ。
植物も、犬もそうだったから、きっと人間も。
「わたしのナス」とか、「わたしの犬・猫」とか、「わたしの子ども」なんて思うと、「もっとよくできるかも(はず)」なんていう愛情だか期待の押しつけだかよくわからないものが熟成されて、育てられることを願ってもない側からすれば、未完熟のたい肥を与えられて、悪影響のあるガスに成長を阻害されるなんてことになりかねない。

 

ちょっと距離を置くくらいがいい。何かを育てるのは。
ちょっと先の未来を期待せず楽しみにできるくらいの距離感で、見守るくらいがいい。
わたしとはすっかり切り離してさ。簡単だけど難しいし、難しく見えてシンプルだ。