ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

生きていることと、死んでいること

1年前、飼っていた犬が死んだ。
あと数か月で14歳だったので、もうすっかりおばあちゃんだった。

年をとっているなりに元気は元気で、それ以前から桜が見れるかな、夏を越せるかな、誕生日を迎えられるかな、などなど、いつかはいなくなるとしても、でももう少しと家族みんなで願っていた。

 体重が20数キロあって、しかも真っ黒な犬だったので、家の中でもそれなりの存在感があった。
足元に寝そべっていたり、大きな窓の前を陣取って、気だるげに外を眺めていたり。
冷蔵庫を開けると様子を見にやって来て、キッチンで野菜を刻んでいるとカウンターの向こうから「くれなきゃ吠えてやるぞ」とにらみをきかせる。

それなりのサイズなので、わたしがしゃがむと彼女(メスだった)がおすわりしたのと同じくらいの高さになった。
おすわりしている横に並んでしゃがむと、こんな大きな動物が自分の横にじっとしていることがとても不思議で奇跡のように思えた。

というより、存在そのもの、生きてそこにいるということがいつも「特別」だった。
まだ死んでいないのに、元気でそばにいるのに、「いつかいなくなってしまう」けど「今ここにいる」ことが不思議でしょうがなかった。
彼女が年を取れば取るほどその気持ちは強くなって、未来の自分が彼女の横にいるような気持ちで過ごしていた。

もちろん、大きな動物がおとなしく隣にいて、聞き分けよく言うことを聞くなんて状態は晩年の数年だけだった。
パワフルでいくら遊んでも一向に寝る気配がないし、食欲がものすごいので、くれくれ攻撃にどちらが音を上げるかや、食べられないものを食べてしまわないようにするなど「いい加減にしませんか?」と思うことの方が多かった。

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少しでも長く一緒に、という想いと、できれば介護などでお互い苦しまずに、という想いが両方あった。
そんなやっと夏を抜けたかなというある日、突然起き上がれなくなって病院に連れて行った。フィラリアか、ヘルニアかと思いながら、でもきっとよくなるだろうと思ってもいた。
さいころからお世話になっていた獣医さんが何年か前に急遽され、主治医なし。はじめての獣医さんはささっと診立て、心臓だろうと言った。体はもったいないくらい丈夫だけど、3日が峠、その次は1週間と言われた。

3日もしないうちに回復したかに見えたが、気のせいだったのだろうか。
亡くなる最後の夜は、なかなか寝付かず、最後までジャーキーや豆腐、氷、キャベツ――とにかくもらえるものを全部もらうまで諦めずに手を焼いた。
その一週間、夜は誰かが同じフロアで寝ていた。でも、その前日くらいからだいぶ落ち着いたように見えたので、夜中に時々様子を見に降りるくらいになっていた。
手を焼いた日の明け方、わたしが様子を見に降りると穏やかな顔で呼吸を止めていた。いつも通り、眠っているみたいに。

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大きさが大きさだけにペットロスになることを覚悟していた。でも、不思議と涙は出なかった。(うるっとはきたけどね。)

死んだというよりどこかに散歩に行っている感じで、そのまま1年が経った。いないということはわかっているけど、死んだという実感はそれほどない。死ぬってそういうものなのかな。

 

たぶん、死ぬって消えることだと思ってたんだと思う。だから、ちっとも消えそうにないことに拍子抜けしたのだ。

食べ物を前にしたうれしそうな顔、待ちきれずに前足だけでするジャンプ。
真剣な「待て」と、だらだらのよだれ。
要求が通らないときのにらみ。
クリームをぬってもかさかさの肉球の感触。安心しきって脱力した足首の揺れ具合。
太い尻尾と、そのひと振りで起こる風。
前足のつけねの微妙なはげ具合と、そこを持って持ち上げた時の重さ。
おしりのあたりの固めのくせ毛とつるつるとした手触りのいい耳の毛。
首の肉がたぷたぷとしていること。頬をつまむとモモンガになること。

写真や動画を見るとかえって記憶が塗り替えられそうで心配になるくらい、細かなことまで思い出せる。
それは彼女が生きていて、彼女の姿が見えないところで思い出す時の彼女の細部となんらかわらないままだ。

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死ぬってなんだろうな、生きてるってどういうことだろう、とときどき考える。
別に、犬のことに限ったことではなくて。

肉体があるかどうか、というのはわかりやすい。
でも、たとえば久しく会っていない誰かがいるとして、その姿が見えなくても、わたしたちは彼や彼女が生きているという前提で物事を考えている。
仮に、「実は何年か前に亡くなっていました」なんて知らされるとしたら、それまでの「生きている」はなかったことになるのだろうか。
たとえば、肉体が目の前にあるとして、でも意思の疎通が図れないとしても、その相手のことを生きていると感じるのだろうか。
もう生きてはいない何かを思い出すことは、目の前にいない人のことを想うことと、どこが違うんだろう。

まれに、知っている人が亡くなることがある。
直接の知り合いではなくて、たとえば有名人とか、ネットで好んで読んでいた文章を書いていた人とか。
直接会ったこともないので、亡くなったと聞いても実感はわかないし、大きく変わることがあるわけじゃない。
ちがいと言えば、楽しみにしていたものが更新されなくなるということくらいだ。
そして、その時になって初めて、その人を通して見ていた世界を、自分でも見てみようと「その人」の存在をそばに置くようになったりする。「その人」だったら、目の前のこの光景をどう見るだろう?どんな風に笑うだろう?と。
それが生きてはいない、ということなのだろうか。

 

そんな風にあれこれ考えていると、生きていることと死んでいることのちがいがよくわからなくなる。
実はちがいなんてないんじゃないか、と思う。
確かに死んでしまえば、意識にのぼる度合い(記憶)が薄れていき、存在も薄れていってしまうのかもしれない。でも、そんなに簡単に薄れてしまうものだろうか。その辺は心配いらない気がしている。
だとしたら、そうやって思い出すこととそれを結び付ける存在がないことのギャップとか?

一つだけひねり出すとすれば、その存在の隣にいて、未来の視点から見ることが難しいということかもしれない。
死んでしまえば、「いつかいなくなってしまうかもしれない」なんて思えない。
それくらいかな。

もちろん死んでいるより生きている方がいい。
でも、誰かにとって大切な存在は、そう簡単には消えてしまわない。だから、「死んでいる」という状態は、死んでしまってからもずっとずっと先、ずいぶん遠くにあるのかもしれない。