ゾウになる夢を見る

ぴったりくる言葉をさがすためのブログ。日々考えたこと、好きなこと。映画や本の話もしたい。

大丈夫、みんな変だから。――『もしもし、運命の人ですか。』

気づかないだけで、誰しも「おかしな」マイ・ルールを持っている。
「おかしな」は本人にとっては至極あたりまえのことで、それがおかしいとも、マイ・ルールであるとも気づいていない。

なぜ気づかないかと言うと、そのほとんどが人目に触れないところで適用されるルールだからだ。
おそらく一番多いのは家の中。
すぐ後ろに洗面台があるのに、帰宅時の手ってキッチンで洗うとか、そしてその手は食器用の布巾でふいちゃうんだとか、あぁ、パンに塗るマーガリンって端から崖を削り取るようにきちんきちんと削っていくんだとか――誰かの家に遊びに行ったならば、そういった些細なルールに驚くことがあるかもしれない。

え、そこ?とか、え、そうなの?と思うものに出会うとたまらなくおもしろい。
そうかそういうやり方もあるのか、と思えるし、自分が普通と思っていることも誰かにとっての「え?」なのかなと思うと楽しいから。

 

もしもし、運命の人ですか。 (MF文庫ダ・ヴィンチ)

 

さてさて、そんな「え?」を堪能させてくれる一冊である。
初めての穂村弘さん。短歌だけの人かと思っていた。

「おかしな」マイ・ルールは自分の家など、プライベートな空間で定着していることが多いが、この本に出てくるのはプライベートもプライベート、穂村さんご本人の思考である。

この本をおすすめしたいのは、

  • 誰かの何かを笑い飛ばしたい人。もしくは、それによって「なぁんだ、自分って全然普通じゃん」と安心したい人。
  • 恋愛や人間関係におけるあれやこれや(主に悩み)を、他人事としておもしろおかしく眺めたい人。
  • あるいは、恋愛感情の「機微」を感じ取りたい人、学びたい人、覗き見たい人

あたりだろうか。

 

タイトルにも表れているように、内容は恋愛をめぐるあれやこれやの(主におかしな)考えである。
ちょっとそういうの、他人事だと思うとわたしは覗いてみたくなる。

 

本書に出てくるエピソードを、少し紹介しておこう。

冒頭には、恋の始まりの楽しい時間をどうやって引き延ばすか、という話が出てくる。
始まりの幸福感は、ずっとは続かない。「ときめき」が消え、水平飛行に変わり、そのうち「下降」がやってくることを穂村さんは恐れる。
そこで考え出されたのが「ときめき」の時間を引き延ばすという方策。

…互いの個人データの開示量やコミュニケーションのレベルを限定することで対応したいと思う。つまり、相手のことを訊かない、自分のことを教えない、そしてセックスの回数を減らすのだ。

穂村さんの中では、「お互いの本名も年齢も知らない夫婦」が妄想される。毎年の結婚記念日に「贈り物」として一人一つずつ、互いのことを教え合うのだそうだ。その結果はこれだ。

そして、五十年目の死の床で。
「おまえの名前を教えておくれ」
「ちか、あたし、ちかっていうの。あなた、死なないで」
「ちか……、いい名だ。ぼくはまさる」
「まさる」
「ありがとう、ちか。君のおかげで…(以下略)

となるらしい。
ちょっと妄想に過ぎるが、すべてを知っているわけではないということを持続させるというのは至極まっとうな対策である。 

 

また、穂村さんは日々これはどうか、あれで大丈夫だろうかと気をもむ。気をもむわりに行動の出方が地味すぎる。
たとえば飲み会の後、つまり一次会と二次会の間に「何か、もっと、こう、胸がきゅーっとなるようなことがある筈じゃないか」と焦り出す。「路上のうだうだタイム」の中、彼は行動に出た。

女の子たちにさりげなく「←」をなげてみる。「←」とは異性に対する一種のシグナルであり、微妙に気を惹くような言葉や振る舞いのことだ。

だが、その甲斐なく、穂村さんの放った「←」に対して、「→」はひとつもかえってこなかったのだそうだ。センスのせいなのか、「←」があからさますぎたのか。

 

 それから、穂村さんには「送るよ」が難しい。
運転技術が原因で、運転できる道路や車を駐車できる場所が限られているからだ。
駐車可能な「私の駐車場」は都内に数カ所しかなく、新宿の最寄り駐車場は四谷となる。この場合、四谷に車を停め、電車で新宿に向かう。
銀座も横浜も鎌倉も、最寄り駐車場は東京駅。
「私の道路」は計8本くらいで、誰かを送るとなるとそれらを駆使した上に「私の駐車場」に駐車し、「じゃあ、ここからタクシーで」ということになるらしい。
なぜ、最初から電車じゃないんだろうか。

 

いかがだろうか。
こんな風に『もしもし、運命の人ですか。』では、恋愛感情の高まりや恋の駆け引き、関係の持続等々が「この人変なんじゃない?」レベルでおもしろおかしく描写されている。

 

 

でも、そんなエピソードにくっついてくる気持ちには、「そうか、みんなそうなのかも」とも思わずにはいられない。
おもしろおかしく書かれていることも、実は結構まともだったりするのだ。

 

たとえば、「え?」と思うマイ・ルールも、「マイ」にとどまっていればかわいいものだ。
だけど、「マイ」がどの程度「マイ」を超えて通用するかはわからないし、「ユア」との違いがどのくらいで、どこまで許容されるかなんて定式化できない。
忌野清志郎を「キヨシロウ」でなく「キヨシ 」と呼ぶことがどうしても許せない人だっているし、グラスの底に1センチくらい飲み物を残すことが我慢できない人だっている。
そんな難しさを、

何年生きていても、どんなにコミュニケーションのスキルが上がっても、このようなリスクを完全に回避することはできない。私たちは常に他人の心の地雷原を歩いているのだ。

とすっきりとまとめてくれる。

あるいは、

街を行き交うたくさんのカップルを眺めながら、怖ろしいような気持ちになることがある。
目の前の全てのカップルが、いつかどこかで出会い、時間の経過とともに微妙な眼差しや言葉や行為を交わし合って、少しずつ関係を深めていったのだ。こいつらの全員がそれをやったのだ。

という「怖ろしさ」はまったく同感だった。 

 

変だよね、と他人事として笑っていることが、案外自分の中にもあったりするし、自分だけでは?と思っていた「変」が誰かの中にも「もしかして変?」というとまどいとして存在してたりする。

人のマイ・ルールを笑っているけれど、結局のところみんな変なのだ。
そうして誰かの変を笑っているうちに、自分の行動や考えなんてどうだってよくなってくる。

 

読み終えて、わたしのおかしなマイ・ルールはなんだろうと本をぱらぱらしながら考えた。
と、ページの途中に貸出票がはさまっていた。(図書館の本だったので)
「お、この本を借りた人は他に何を読んだのだろう?」といつもの興味が沸き起こった。そう、わたしには誰かが抜き忘れた貸出票を眺めることが好きという微妙な癖がある。「お、そうきたか」とか、「あぁ、これとこれはわたしも読んだ。気が合うな」とか思って見るのが楽しい。

『もしもし、運命の人ですか。』から出てきた貸出票には、「何、この人の借りてるの、変なタイトルばっか!」と、ぷぷぷと思った。
でもよくよく見ると、それは自分の貸出票だった。人のことは笑えないなと思った。
大丈夫、とにかくみんな変なのだ。

 

もしもし、運命の人ですか。 (MF文庫ダ・ヴィンチ)

もしもし、運命の人ですか。 (MF文庫ダ・ヴィンチ)